寮
【ドアンナ】「マーガレット!」
ドアンナは、彼女の名を叫ぶと、彼女に駆け寄った。しかし、ドアンナが彼女の肩に触れると、その肌はすでに氷のように冷たかった。ベッドのシーツは、彼女の流したおびただしい血によって、ぐっしょりと赤く濡れていた。
ドアンナ「うそでしょ……」
ドアンナは、震えながら手を離した。そして、何も考えることができず、ただその場に立ち尽くすことしかできなかった。
叫び声を聞いて、レイセンたちが、急いで蔦を上ってきた。部屋に飛びこんだ彼女たちもまた、マーガレットの姿を見て、同様に、何も言えず立ち尽くした。
【レイセン】「どうして……一体なにがあったの……」
ドアンナは、助けを呼ぶために部屋に飛び出した。
【ドアンナ】「誰か!誰かいないの?誰か!」
ドアンナは叫んだ。しかし、廊下はぢんと静まり帰り、誰の返事もなかった。
ドアンナは、隣の部屋のドアを叩いた。
【ドアンナ】「ラウラ!ラウラ!返事をして!ラウラ」
そのとき、ドアンナは目の端に何かを捉えた。彼女が振り向くと、目の前の空間が、なにか光学的な屈折現象を起こしたように、ぐにゃりと曲がり歪んでいた。
ドアンナが、思わず甲高い叫び声を上げた瞬間、歪んだ空間の裂け目から、黒いスリーブに包まれた腕が飛び出した。それはレイセンの顔にまっすぐ伸びると、その口を塞いだ。
【女の声 】「しーーーーっ」
目ので、唇の擦過音が静かにしろと命じた。次いで聞き覚えのある声が話しかけた。
【女の声 】「ドアンナ、静かにして。わたしよ」
宙に浮かぶ右手が見えない何かをひっつかむと、目の前の空間はあたかもカーテンを凪いだようにめくれ、その奥に見慣れた顔が現れた。
【レイセン】「リン!」
レイセンは口を抑えられながら、くぐもった声でそう言った。
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レイセンたちが部屋から出ると、そこには下半身を透過させ、上半身だけ姿を見せたリンがいた。
ー不可視の垂簾ー彼女は今、透明なマントに姿を隠す魔法を使っているのだ。
リンは、黒く長い髪に隠れた半目の向こう側から、レイセンたちを認めた。
【レイセン】「リン、なにがあったの」
声を出したレイセンに対して、リンはもう一度唇に手を当てて、静かにするよう合図した。そして、そのまま皆を廊下の先に連れて行った。
彼女は、白い壁の前に立った。そこは、三階の階段を上がったすぐ真隣の壁で、本来そこにミランダの部屋に通じる扉があるはずだった。
リンが壁を指でなぞると、擬装が剥がれ、扉がそこに出現した。
リンは取っ手を掴み扉を開けた。
部屋のベッドの上に、寮監が体を横たえていた。彼女の服は血で赤く染まっていた。彼女の脇には、おそらく彼女を刺したものであろう、血塗れのナイフが置かれていた
ミランダが、寮監の前に立ち、目を伏せて傷口に手を嵩ざしていた。彼女と寮監の姿は、後光のような白い光で覆われていた。
ー神の恩寵で癒やす魔法ー。聖別を授かった神官のみが使える、神の魔法だ。その白い光は、骨に達するものでなければ、大抵の外傷を塞ぐことができる。
しかしこの魔法は、流れた血をもとに戻すことは出来ない。寮監の血まみれの服を見るに、たとえ傷が塞がっとしても、余談を許さない状況だろう
部屋の奥では、ライラが椅子の背にまたがり、ドアンナたちを見つめていた。
【ドアンナ】「ライラ、一体なにがあったの」
ドアンナは訊いた。しかし、彼女が答える前に、寮監が口を開いた。
【 寮監 】「寮が暗殺者たちに襲撃された。やつらの狙いは、アマンダ、お前だ。」
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【ドアンナ】「暗殺者……?」
【 寮監 】「ああそうだ。それも、並の手練じゃない……おそらく国家に使役された、一流の暗殺者たちだ。なにせ、この私を半殺しにしたのだからな」
寮監はそこまで言うと、改めて彼女たちを見ると、口をへの字に曲げて言った。
【 寮監 】「お前たち、随分遅い朝帰りだな。いつもならぶっ飛ばしてるところだが……」
そこまで言うと、寮監は体を折り曲げて咳き込んだ。彼女が口を拭うと、その手のひらに血の痰が見えた
【ドアンナ】「寮監、無理に喋らないでください」
【 寮監 】「いや、話す」寮監が口を開いた。「深夜の二時頃に寮が襲われた。わたしとリドリーで戦ったが、あいつは殺されちまった。王女がここにいないとわかると、奴らは生徒を集めて東棟の地下室に監禁した。私は倒れて死にかけてたところを、こいつらに助けられたんだ」
寮監は目を動かしてリン達に視線を送った。彼女は顔を歪めながら体を起こすと、ドアンナたちに向き直り、言った。
【 寮監 】「お前たちは、アマンダを連れて王城へ向かって匿ってもらえ。そして、王の側近に裏切り者がいると伝えるんだ。」
【ドアンナ】「裏切り者?」
【 寮監 】「ああそうだ。暗殺者の中に一人、知ってる魔法使いがいた……」寮監は再び咳き込んだ。皆駆け寄ろうとしたが、寮監は手で静止した。そして、続けた。「そいつの名前は、クラウザーだ」
【ドアンナ】「クラウザー」
【 寮監 】「そうだ。クラウザーだ。この話は、王にだけ直接話せ」」
【ドアンナ】「王に直接」
【 寮監 】「ああそうだ・・王と直に会うための符牒がある。『その王命は銀である』、だ」
【ドアンナ】「『その王命は銀である』」
ドアンナは繰り返した。
【ドアンナ】「ああ、そうだ……お前たち、後は頼んだぞ……」
そういうと、寮監は目を閉じベッドに横たわった
【 レイ 】「寮監!死なないで!寮監」
レイは寮監に駆け寄り、彼女の肩を揺らした。しかし、ミランダに止められた。
【ミランダ】「大丈夫、眠っているだけよ。だけど、まだ動かすのは危険。私は、ここからは離れられない」
【 リン 】「私も動けない。わたしの魔法は、距離が離れると効果を失ってしまうから……それに、私はここに残って奴らの動向を探りたい」
【ドアンナ】「わかったわ。必ず助けを呼んでくるから」
ドアンナはそう言い、廊下に出ると、みなに言った。
【ドアンナ】「みんな、一分以内に装備を整えてきて」
彼女たちはうなずくと、皆それぞれの部屋に向かった。
ドアンナは、自分の部屋に戻ると、植木鉢から木を抜き取った。それは、二股の枝を互いによじって作られた、ブナの生きた若木であった。これが、彼女の杖なのだ。彼女が杖の根本の土を払うと、そこに白い根毛のひげが現れた。杖のてっぺんは若々しい緑の葉が飾っていた。
彼女は杖を抱えると、マーガレットの死体のそばに腰を下ろした。
彼女はマーガレットの顔を覗き込んだ。彼女は、明るい、気さくな女の子だった。彼女は貴族の家柄であり、卒業後には許嫁との結婚が決まっていた。彼女はその男に惚れていた。彼の金色の髪や青い瞳について、夜中まで滔々と語ったものだった。
ドアンナは、彼女の顔に手をかざし、遠くを虚ろに見ているその瞳を閉じてやった。
やがて、皆が支度を終え部屋に集まった。彼女たちは、蔦を伝って地面まで降りた。
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彼女たちは、街を走った。ライラは衛兵を呼ぶため、通りに出てすぐに別れた。
彼女たちは、街を走り続けた。朝の街は、まだ眠りから目覚めたばかりだ。冷たい石畳の上を、ドアンナたちの小さい足が、音を立てて駆けた。そうして彼女たちは、走り続けた。
やがてドアンナたちの行く先に、ローゼンハイムの外城壁が見えてきた。
ローゼンハイムは、大きく3つの区域に分けられる。一つは、国王とその親類が住む王城、その王城を囲む旧市街、そしてさらに旧市街を囲う新市街だ。そして、それらを囲う城壁を、それぞれ内城、外城、大外壁を呼んだ。
いま、旧市街を囲む外城門の前には、普段の朝よりも長い人々の待機列が作られていた。
【レイセン】「なにかあったのかな?」
レイセンが言った。
【セーラ 】「すいません!ここを通してください!緊急の事態なんです!」
セーラが叫ぶと、列に並ぶ人々は、みな一体なんのことだ振り返り、道を開けた。彼女たちが外城門の手前まで行くと、若い衛兵がその進路を遮った。
【若い衛兵】「止まれ!止まれ!」
彼はそう言い、両手を広げセーラの前に立った。
【セーラ 】「急いでるんです!ここを通してください!」
【若い衛兵】「駄目だ!並び直せ!」
衛兵は、断固たる口調でそう言った。
【ドアンナ】「中でなにかあったのですか?」
【若い衛兵】「答える義務はない」
衛兵は返答を拒否し、怖い顔でドアンナたちを睨みつけた。この衛兵は、態度を変えることはないだろう。
アマンダが、セーラたちをかき分け、前に進み出た。
【アマンダ】「ここを通してください」
【若い衛兵】「だめだと言っているだろう!」
アマンダはフードをめくり、素顔と赤い髪を見せた。
【若い衛兵】「あなたは!」
衛兵は驚いて声を上げた。詰所の奥から中年の兵が進み出ると、アマンダの姿を見て、言った。
【中年の兵】「話は横で聞いていました。ここを通りください」
【アマンダ】「第一魔法学校の寮は分かりますか?」
【中年の兵】「ええ、もちろん」
【アマンダ】「寮は暗殺者の襲撃を受けました」
【中年の兵】「なんと」
【アマンダ】「すでに衛兵を呼んでありますが、貴方達からも応援を出してください」
【中年の兵】「承知しました」
兵士はそういうと、門を上げ彼女たちを通した。
彼女たちが門を通過すると、背後で中年の兵が、兵士を集めるよう叫んでいた。
アマンダたちは、再び街を駆けた。
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街には、祭りの喧騒の跡が散らばっていた。屋台の食べ残しや紙吹雪やらが散乱し、酔っぱらいがそこかしこでいびきをたてて眠り込んでいた。旧市街には、地位の高い人間も多く住んでいるため、酔っぱらいなどはまっさきに逮捕されるのだが、この日は普段と違って道端に堂々と寝転んでいた。
道の上空には、家と家の間に吊るされた紐から、いくつもの灯籠が吊るされており、朝になったいまも橙色の灯りをともしていた。
アマンダたちは坂を駆け上がり、王城の前にたどり着いた。アマンダが門に近づくと、門兵は首を振り、槍を交差させて、ここは通せないと意思表示した。
アマンダがあたりを見渡すと、城門の上に見知った顔が立っていた。
【アマンダ】「ジークラット様!!」
アマンダは大声で叫んだ。赤いアゴ髭を蓄えた、銀の甲冑に身を包んだ男が、アマンダの方を向き驚きの声を上げた。
【ジークラット】「おお、王女様、ようやくお戻りになられましたか」
【アマンダ】「ジークラッド様、ここを通しください」
【ジークラット】「ええ、ええ、それはもちろんですとも」
ジークラットが指示すると、衛兵は門を開いた。アイルたちは門をくぐり、中に進み出た。一階に降りた兵士たちが、アイルたちの前に進み出た。
【ジークラット】「アマンダ様、一体どうなされたのですか?あなたが城からいなくなって、ちょっとした騒ぎになっていたようですよ」
【アマンダ】「その話はあとでしましょう。今は一刻も早く父に会わなければ」
【ジークラット】「わかりましてございます。しかし、ロアンは会議中ですぞ」
ジークラットはそう言い、アマンダたちの一団を先導した。
ロアンとは、国王その人の名だ。この男は、王を呼び捨てにするほどの仲なのだろうか。そうドアンナは思った。
彼らは城に入り、薄暗く湿った螺旋階段を上がった。ジークラットの鉄の具足が石畳の階段をたたく音が、かつんかつんと響き渡った。彼らは廊下を進み、大きな扉の前にたどり着いた。
分厚い樫でできた観音開きの扉の前に、一人の執事が立っていた。アマンダガ扉に手をかけようとすると、執事はそれを遮った
【アマンダ 】「アルバート!」
【アルバート】「ここをお通しするわけには生きません。世界各国の要人が集まっている場です。どうぞお控えください」
【アマンダ 】「ここを通しなさい」
【アルバート】「だめにございます」
【ドアンナ 】「アマンダ……」
ドアンナが、小声で声をかけた。アマンダは頷き、言った。
【アマンダ 】「『その王命は、銀である』、といえば、通してくださるかしら?」
【アルバート】「……!」
アルバートは目を見開いた。そして、うなずき、言った。
【アルバート】「アマンダ様お一人のみ、お通りください」
アルバートはそう言い、扉を開いた
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アマンダが扉をくぐると、部屋の中の視線が一斉に彼女に向けられた。
そこには、儼乎たる面持ちを浮かべた100人を超える各国の使節が鎮座していた。
世界各国から集められた、外交使節としてはもっとも位の高い要人たちだ。
王を囲む従者たちの様子は、どこか穏やかではなかった。彼らはみな、冷たい目でアイルたちを観察していた。
部屋の最も奥、ガラス張りの窓の下に、王は顎を肘に乗せて座っていた。
【ロアン 】「アマンダ、一体どうした」
王は単刀直入に訊いた。彼は、低く威厳のある声をしていた。
【【アマンダ】「先程、寮が暗殺者の襲撃に遭いました」
【ロアン 】「なに?なんだと」
ロアンは身を乗り出して言った。
【アマンダ】「その際、寮監……アッカーマン子爵婦人が戦闘を行い、負傷したのですが、賊のなかに知ったものを見たらしく、それを伝えるため王城へ行けと申し渡された次第であります」
【ロアン 】「なるほどわかった。それで、賊の名は?」
【アマンダ】「それが……」
アマンダは一瞬躊躇して、こう答えた。
【アマンダ】「ここでは話せません。お父様にのみ、直接話せと申しつかっています」
王は、隣に立つモノクルを掛けた文官に目線を送った。文官は、首を横に振った。
【ロアン 】「ならん。いますぐここで話せ」
アマンダは、再び躊躇した。しかし、居並ぶ外交官たちの雰囲気に気圧され、口を開いた。
【アマンダ】「は。『裏切者の名は、クラウザーだ』と」
部屋が、静まり返った。文官は目線を伏せたままその場に固まった。王は目を見開き、椅子のひじ掛けを強く握った。王の、歴戦の戦士を思わせる筋張った太い指が、ひじ掛けの厚い布地に深く食い込んだ。
アマンダは、一体何事かと顔を上げた。見ると、部屋の賓客たちの視線は、一人の人物に注がれていた。
アマンダはその視線の先を追った。国王のすぐ左後ろに、灰色のローブに身を包み、ながく白いひげを胸元まで蓄えた魔法使いが、表情を消して微動だにせず立っていた。
まさか、やつがクラウザーなのか?アマンダは、ことの成り行きを息を詰めて見守った。
男は、胸に組んでいた腕を下ろすと、口中で静かな声で何かを唱えはじめた。
【褐色の客人】「国王、抜刀の許可を!」
王の右後ろに立つ、褐色の客人が声を上げた。王は、呆然としてまだ動くことが出来ずにいた。クラウザーという人物の裏切りは、それほどまでに衝撃的だったのだろうか。
【褐色の客人】「国王!」
褐色の客人が、再び声を上げた。
王が、椅子から立ち上がろうと腰を浮かした。その瞬間、灰の魔法使いは、口元をにやりとゆがめた。彼の小さな黄色い歯が、唇の隙間から覗いた。
【クラウザー】「|灼熱の炎を放つ魔法《öum ël jackt ël garm》」
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クラウザーの眼前に、灼熱の火球が浮かび上がった。
眩しい光が部屋を照らし、火の玉の放射熱が人々を焼いた。
クラウザーは、アマンダに向けてその火球を放った。
【 文官 】「アマンダ様!」
モノクルの文官が、机を飛び越えてアマンダの前に立ちふさがった。火球は、彼に直撃した。
【 文官 】「ぐわあああああああ!」
炎が文官の体を包んだ。彼は叫び声をあげ、その場に崩れ落ちた。
樫の扉が勢いよく開かれ、ジークラットが部屋に突進してきた。しかしその脇を、風よりも早く、一人の少女が通り過ぎた。
それは、レイだった。
ー雷神のごとく駆る魔法ー彼女の肉体は、紫電の雷光を身にまとっていた。彼女は自らの電撃が放つ電気信号によって、人間の限界速度を遥かに超えた筋肉の伸曲運動を生み出した。
彼女は、猟豹のように地面を蹴った。
たった二跨ぎで部屋を横切ると、要人の居並ぶ長机に、強烈な勢いで着地した。彼女の長いヒールのかかとが、岸壁に打ち込むハーケンのうように硬い樫の机に突き刺さると、激しい振動で机は揺れ書類は散乱し、食器類は吹き飛んだ。
レイは帯剣禁止の部屋の摂理もいとわず、腰の長剣を抜き放った。
その長剣は、かつて五千年も前に栄えた東方の王の宝剣だった。幅広のブレードの中央には九字の霊音が刻まれていた。この剣は今、魔の力をまとっていた。
レイは、赤銅色に輝く霊剣を、大きく、そして鋭く横薙ぎに振り払った。
クラウザーは、長く垂れた袖の内からナイフを取り出すと、その短い刀身でレイの剣を受けた。二つの剣が接触し、空中に赤い火花が散った。
レイは続けざまに二度三度と剣を放った。しかし、クラウザーは、そのその老躯からはまるで信じがたいほどの手さばきで、レイの剣を受け流した。
(強い)レイは思った。この剣捌きは、魔法使いではない。こいつの本懐は、暗殺者だ。
そのとき、遅れて部屋を横切ったジークラットが、例を飛び越え高く跳躍した。そして膂力一杯に剣を振り上げると、クラウザーの頭目掛けて振り下ろした。
クラウザーは、まるでムササビが舞うように、高く素早く飛び退ると、左手に火球を生み出し、それを背後のガラス窓に向けて打ち放った。
巨大な窓ガラスは粉々に割れた。そしてクラウザーは身を翻し、外の空間へ飛び去った。
【レイ】「待て!」
レイはそう叫ぶと、一瞬のためらいも見せずにクラウザーを追撃し、空のさなかへと躍り出た。
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アマンダが気づくと、いつの間にかセーラたちも部屋の中に入ってきていた。
セーラは、すでに呪文の詠唱を終えていた。その両手の間には、直径1メートルはある大きな水球が浮かんでいた。彼女はが文官に向けてそれを放つと、水球は文官の全身を覆い、彼を包んでいた炎を消した。
肉の焦げる甘い匂いが部屋に漂った。
【ロアン】「誰でもいい、医者をここに呼べ!」
王が立ち上がり叫んだ。どこかの国の使節のが手を上げると、従者に指示し、文官の治療に当たらせた。
従者が文官の服をはぐと、その下に真っ赤な真皮が見える爛れた皮膚が現れた。彼が胸の上に手をかざして呪文を唱えると、文官の体は、白い光に包まれた。
この従者は、よほど高位の神官なのだろう、とアマンダは思った。。その光は、ミランダのものよりも遥かに強く、かつて見たこともないほど眩しかった。
彼の真っ赤に裂けた皮膚の傷口は、みるみるうちに塞がっていった。火傷の治療は、裂傷などよりもはるかに治癒が難しいと聞く。それを、これほどまでに早く癒せるとは、他国の従者ながら、あっぱれであった。
【 従者 】「もう大丈夫です。命に別状はないかと」
従者がそういうと、文官は天井に握った手を掲げた。それは、自分は無事だという合図だった。
王は安心すると、窓の方を振り返った。
人々が、割れた窓の下へ駆け寄り、外を覗いていた。高さ20メートルはあろう空間から地面に飛び降りたのにも関わらず、クラウザーの姿はすでに見えなかった。
ふとその時、密集した家の路地から、赤い煙が一本の筋を描いて空へと高く立ち上った。使節の一人が部屋を振り向いて叫んだ。
【 使節 】「煙があがっています!何かの合図かと!」
王はそれを聞き、窓の近くに寄った。使節の一人が、遠くを指さして叫んだ。
【使節の一人】「なんだあれは!」
彼の指差す方向には、青い水平線が見えた。その水平線に、たくさんの何かが浮かんでいた。王は目を凝らした。
【使節の一人】「あれは、船だ!」
他の使節が言った。確かに、それは船だった。それも、信じられないほどの数だ。
水平線の先に、少なく見積もっても100を超える巨大な帆船が、その高い帆を掲げて、ローゼンハイムに向けて進行してきていた。
【使節の一人】「あれは、ザクセンの船です。」
【 ロアン 】「ザクセンの船だと?」
王は言った。部屋の中の人は皆、一斉にある人物を見た。その視線の先は、黒い口ひげの端をカールさせた、胡乱げな顔つきの外交官だった。
彼は、なにやら申し訳無さそうな顔をしながら、口ひげの端を撫でていた。
【 ロアン 】「ザクセン公、あれはどういうことか」
ザクセン公は、何も答えず、立ち上がった。
【 ロアン 】「ザクセン公、どこへ行かれるつもりか!?」
ザクセン公の前に、ジークラットが立ち塞がった。彼の右手は、剣の柄を握っていた。
【ジークラット】「貴様、答えぬとたたっ斬るぞ!」
その時、窓辺の人々の間にざわめきが走った。王は、なにかと思い、再び海を見つめた。
使節たちは、海のある一点を指さしていた。王も指の指し示す先を見つめたが、はじめはそこになにがあるのか分からなかった。
しかし、王もやがて異変に気がついた。海のある一点が、他の海面よりも小高く膨らんでいるのだ。白い波を立てる海面のさざなみは、あたかもその場所を避けているようだった、
段々と、海面の膨らみは大きくなった。やがて、水しぶきを上げながら、巨大な蛇のようななにかが、海面を突き破った。
それは、巨大な海龍だった。陶器より白い鱗に全身を覆われたそれは、あたかもオベリスクの尖塔ように、海面から遥か高くに屹立した。
海龍は、ゆっくりと身体を回転させ、王たちの方を向いた。そして、その口を開き、喉の奥を見せた。
海竜の喉は、どんな血の色よりも赤かかった。
【王】「あれは、海竜グレンゼルス……!」
王は海面から屹立する竜の名をつぶやいた。
竜は、爬虫類生物にしか不可能な角度で、その巨大な顎を押し広げた。その真っ赤な口中の中心に、青い光の玉が凝集していた。その光は、段々とやがて大きくなり、遠く離れたこの場所にも届く、太陽より眩しい閃光を放出した。
光の放つ強力な魔力の高ぶりを、今ここにいる誰もが感じ取った。
なにかが来る。
【王】「アマンダ、伏せろ!」
王が叫んだ。
それと同時に、周囲の全てが、まばゆい光に包まれた。