婚約破棄令嬢トシコ、貞淑につき
「マーガレット・ポワトリン、お前との婚約は破棄だ!」
エディ・ガウフィン・ルリアック第二王子がそう高らかに宣言した時、レディ・マーガレット・ポワトリンは異議など唱えなかった。
彼女は従順な女性だったのだ。
マーガレット・ポワトリンは王の分家であるポワトリン公爵家の娘である。
淑女としての教育は万全で、来たるエディ王子との結婚のために、大人しく控えめな振る舞いをしっかりと躾けられていた。
そしてマーガレットの中身、長万部敏子もまた、大人しい女性だった。
トシコは昭和生まれ。
もっと昭和で亭主関白な父親と、やはり昭和で貞淑な母親の間に育ち、同じく、男の後ろを三歩下がって歩く女性へと教育されていった。
なので、不慮の事故のあと、気が付いたらマーガレット・ポワトリンとして新たに始まってしまった人生での淑女教育は、彼女にとっては別段に苦痛というわけではなかった。若返ったし。ラッキー。
トシコは花嫁修業に励んだ。
何しろ、婚約相手は王子様だ。サラリーマンとはわけが違う。今までは築五十年、木造平屋で義実家同居、三世帯で住んでいた身分のトシコとしては、夢のような話だった。そんな結婚が約束されるなら、ナンボでも男を立てる所存であった。
だから、他に貴族の目がたんまりあるパーティ会場にて唐突に婚約破棄を言い出されても、はしたなく喚き散らすことはしなかった。
ただ、エディ王子の腕に縋りついて不安そうな顔をしてみせている女性については、首を傾げた。誰だあれは。
「もちろん知っているだろう。ポーリン・マドック嬢だ」
いや、知らない。初対面だ。
だがトシコは黙っていた。知っているという体で話をしているエディ王子の体面のためだ。トシコは夫想いの淑女であった。
「彼女は見ての通り、とてもチャーミングだ。快活で愛嬌がある。陰気なお前とは大違いだ! だからこそ私は彼女に至上の愛を見出した!」
はあ、とトシコは返事とも溜息ともつかない、曖昧な声をあげた。
「要するに、その方と懇ろになったということですか?」
昭和生まれのトシコは、ちょくちょく表現が古かった。
それを「ブチくらすぞワレ」という意味とでも取ったのだろうか、初対面の女は「ひゃん!」という超音波を発し、王子の腕を締め上げた。
「エディ様、ポーリン怖いですぅ~」
「大丈夫だポーリン、俺がついている」
曲がりなりにも王子であるゆえ一人称を私として行儀よくしていたエディ王子は、ポーリンなる女に向かって「俺」などと呼称し、ニッと笑ってみせた。なるほど、キャラを作ってみせるほどには懇ろなのだ、とトシコにも理解できた。
それならば、彼女には言う事がある。
トシコは一歩、前に出た。エディ王子も、ポーリンを庇うように前に出る。
「お前はそんな彼女に嫉妬し、イジメを……」
「いつもうちの人がお世話になっております」
深々とお辞儀をしたトシコに、愛する男女は「へっ?」と声を上げた。
「あっ、これは失礼しました。王子の発言をば遮ってしまうとは。お言葉、何でございましょう」
毒気を抜かれた顔のエディ王子は「あっ……ああ……えと」と、気を取り直し、
「なんだっけ、お前は、そのー……彼女に嫉妬して、その……イジメたりしてたんじゃないの?」
何とか言い切った。疑問形で。トシコはもう一度、首を傾けた。
「いいえ?」
父は無口な男だった。この場合の父はポワトリン公爵ではなく、トシコの父だ。
父は仕事が忙しく、帰りが遅くなることもあった。朝、いつのまにか帰ってきていた父に「おはよう。お仕事お疲れ様」と言ったことがある。
新聞紙の向こうでしばし黙っていた父は、やおら口を利いた。
「敏子」
「何?」
「浮気は男の甲斐性だ」
「カイショー?」
「正妻はどんと構えていればいい」
その時まだ小学生だったトシコは、父が何を言っているかわからなかった。
母は何も言わなかった。父がいない間、時折、脈絡もなく「クソッタレが」と呟くことはあったが、それだけだった。
大きくなって意味がわかると、きっと自分も、夫がいないところで「クソッタレが」とだけ呟いて終わるのだろうと、そう考えはじめた。
夫のやる事に余計な口出しをしないつもりのトシコは、ポーリンを排除するため能動的に悪さをするなど、思いもしなかった。
トシコは淑女であった。それ以上に初対面だし。今初めて聞いたし。
だから、改めてポーリンに向かい、丁寧に挨拶をする。
「いつもうちの人がお世話になっております。これからも、どうぞよろしくお願いいたします」
顔を上げてみると、なんだか男女の様子のおかしい。あれっ。
「……お二号さんでございましょう?」
「二号ちゃうわ!!」
ポーリンは吼えた。彼女はトシコほど淑女ではなかったようだ。
「アタシが妻になんだわ! アンタが今、婚約破棄されたんだわ! エディ様ぁ~、何とか言ってくださいよぉ~」
ポーリンは誰に口を利くかで音声が変わるらしかった。甘え声に押され、う、うん、と首を振ったエディ王子は何か言おうと口を開けたが、結局ポーリンを振り返り自信なさげに訴えた。
「嫉妬してないみたいだけど!?」
「フリに決まってんでしょ断罪しなさいよぉ早く!」
滑りかけの悪だくみは周りの貴族たちにお察しされるほどに筒抜けになってきた。だが必死の当人たちは、これが漫才の様相を呈してきたことにまだ気が付いていない。
「なので……マーガレットが悪いことをしてきたので、えー、お前との婚約を……」
「そうよ、破棄よ! エディ様が愛してるのはこのポーリンなんですぅ~」
「いや、待て!」
閃いた! の顔でエディ王子は叫んだ。
「マーガレット! もしかしてポーリンとの仲を認めてくれるのか!?」
「……認めるといいますか、家長としての義務を果たしていただける限り、私はべつに妾の一人や二人……」
「婚約破棄を破棄する!!」
とてもいい笑顔で、エディ王子は宣言した。わかった問題に手を上げるような、得意満面の挙手もついていた。
「よし、それならみんなで仲良くしよう! ポーリン、お前が二番目……」
その瞬間、王子の笑顔は捻りを加えたアングリーフィストを叩きこまれ、めっこり陥没した。
「ザッケンナコラー!!」
魂の雄たけび。その瞳には怒りの炎が燃えていた。
ポーリン、覚醒。
やはり、淑女とは遠かったらしい暴走ポーリンのワン・ツーコンボが決まる。フィストからの三連、さらに中段キックに裏拳を加えてジャンピングアッパーまで入った。
Aの字になって飛んで行ったエディ王子はドシャア! と地面に墜落し、ピクリとも動かなくなった。K.O。
トシコは口元を押さえて見ているしかなかった。止めようもあるまい。彼女は淑女なのだ。暴力沙汰など、もってのほか。
静まり返ったストリートファイトのリングに、今まで周りに紛れて黙って見ていた国王が現れた。ショーは終わりのようだった……
レディ・マーガレットとエディ王子との婚約は解消された。
貴族たちの前で派手なる失態を見せてしまったエディ王子は王様からしこたま怒られ、市井へと追い出された。所詮は第二王子である。今ではポーリン・マドックから尻に敷かれ、毎日額に汗して働いているとか。
ポーリンの出自は町の商人だったらしい。ただの人になったエディを捨てずに添い遂げている辺り、案外、金目当てということもなく本当に惚れこんでいたようである。
レディ・マーガレットことトシコは、大人しく、親と王様のゴニョゴニョとした内緒話の後に出た御沙汰に従った。そして……
「止めてちょうだい」
馬車に乗って町の中を流していたトシコは、急いで御者に声をかけた。
危険なことに、走っている馬車の扉に手をかけて付いて来ようとした者がいるのだ。
「まあ……エディ王子……いえ、エディさんではないですの」
どこの命知らずだと思って見てみれば、それは確かにエディだった。顔を真っ赤にして馬より鼻息を吹いている様子の彼にはもう王子時代の涼やかさはないけれど、トシコに向かって白い歯を光らせ、精いっぱいの笑顔を見せてきた。
「マーガレット……会いたかった」
「……はあ」
「どうしてた? 寂しかったかい? ……いや、正直に言おう。それは俺だ。俺はどこにいても、マーガレットのことを一日たりとも忘れたことなんてなかったんだ」
前髪をかき上げながら彼は言った。かき上げた髪はサラサラと流れることはなく、撫でつけられた汗のせいで天に向かってそそり立ったままになっていた。
「幸せな婚約……その破棄……辛かったろう、マーガレット。もういい、もういいんだ。こうしてまた会えたんだから。……結婚しよう」
「え、よくわからないのですが……あなたにはポーリン嬢がいたんではなくて?」
フッ、とエディは笑った。なんだか余裕ぶってみせる、ムカつく笑みだった。
「ポーリンのことなら、気にしないで。だって、俺の一番はキミなんだから。二号を認められるキミなら、俺を幸せにできる。そうだろう? さあ、俺を連れて帰っておくれ。今の生活は辛いんだ! ねえマーガレット、この際、ポワトリン家への入り婿でもいいから」
「いや確かに私は妾も良いと言いましたけど、義務を果たしたらと言いましたよね? 妾の生活まで保障して初めて、甲斐性と言えるんですよ? ヒモ希望はありえないでしょう」
「ふおおおん!!」
正論を吐かれたエディは海老反り、天に向かってシャウトした。
「ポーリンもお前もぉっ! 結局金かーッ!」
「家庭を築くってそんなもんですからね。私だって毎日のやりくり考えてますのよ。夫はよそ様よりは金に不自由ない身分とはいえ……」
「夫? お、夫!? なんで!」
「なんでと言われましても……国王と話し合った結果ですが」
ポワトリン侯爵家は娘とエディ王子の婚約につき、多大な結納金を払っていた。
それを今返すのは、国の財政的に痛い。もう綺麗に使ってしまった後なのだ。王様は困ってしまい、代わりに「うちの第一王子はどうだ」と言い出した。
「というわけで、私、王妃になりますの」
「はああ? 俺そんなの聞いてない!」
「聞いてないっていうか、あなたはもう結婚してますし王宮出てますし関係ないですし。私、来週には結婚式ですわ。それにしても、誰ですかしらねー国庫をこんな能天気に食いつぶしたのは。お陰で質素婚なんですが……」
トシコはじっと、放蕩息子として名をはせていた元・第二王子を眺めた。
エディは刺さる視線から逃げて地面に蹲り、我が身の不幸を嘆くフリをして泣き声を上げた。ウソ臭かった。そしてしゃくりあげるその合間にふと静かになる演出を挟み、か細い声で問いかける。
「……じゃあ、俺を二号にしてくれる?」
僅かに顔を上げて縋る目を投げたエディは、涙に濡れた悲劇の王子のつもりだったが、トシコから見れば「ヤバい女を妾にしてしまい被害を受けた母に土下座して詫びる父」のように映った。今クッキリと前世の記憶、長万部敏子としての記憶が脳裏に思い出されていた。
「ダメです」
きっぱりと断り、御者には車を出すように言った。
「私は貞淑な女性なので」
記憶の中で父が土下座していた。
襖の向こうで両親が話し合っているのをコッソリ見ていたあの日からしばらくして、父は家に帰らなくなった。
母は「お父さんはなくなったのよ」と言っていたが、葬式も出していなかったので子供心に死んではいないと思っていた。
「あいつに色々と開発されて尻でしかイけない体になってしまった。退職して舞台に上がる約束までしてしまったが俺には逆らえない。別れてくれ。母さんやトシコに累が及ぶといけないから」
という父の言葉を理解したのは、やはり大人になってからだった。
正確には、繁華街の怪しい建物に出ていた看板に、女王様に踏まれる半裸の父親が載っているのを目撃してからだ。「資本主義の豚」と名前がつけられていた父を見て、母の言葉は「お父さんは(人では)なくなったのよ」という意味だったことも、併せて理解した。
父の退職金は母がもらった。高齢だった祖母を看取り、父の家も母のものとなった。
貞淑で従順な母は忍耐強くもあり、結果、粘り勝って平和に暮らした。父も父で人生に喜びを……悦びを……? 感じ、生きたのならば何よりではないか。
トシコを乗せた馬車が去り行く後ろで、浮気者エディはポーリンに必殺乱舞を叩きこまれていた。折れた前歯が夕日を受けてキラリと輝いた。
その拳に、愛がある。あれはあれで、お似合いの二人なのだ。
どうかお幸せに、とトシコは祈った。私は私の夫と幸せになります。
トシコは昭和の女。どこまでも貞淑な女性であった。
お読みいただき、ありがとうございます。
評価、ものすごくうれしいです。ありがとうございます。
感想、はげみになります、ありがとうございます。
楽しんでいただけたなら、幸い。
ウィークリー異世界転生一位いただきました!
重ねてありがとうございます。
新作も書きました。もし気に入っていただけたら、こちらもついでにいかがでしょうか。
「ブービートラップ・彼方からの手紙」
https://ncode.syosetu.com/n0983ii/