夜を染める花火は特別な夏
「ねえ、上田君。重いでしょう? 私も持つわ」
「いいよ、平気だよ。それに、清水さんも荷物持ってるじゃん」
「上田君は重いペットボトル何本も提げてるのに、私はポテチとか軽いものばかりじゃない」
「俺は男だからね、いいのいいの」
コンビニを出た後、そんな会話を交わしながら、傍らを歩く清水さんの横顔を俺はそっと盗み見る。
可愛いよなあ。
緩くウェーブのかかったミディアムヘアは紺色のカチューシャで何気にアレンジされているだけなのに、お洒落で様になっている。膝上のカーキ色のハーフパンツから細長い足がすっと伸びていて、シンプルなロゴ入りの白いTシャツさえ彼女が着るとスタイリッシュだ。
「清水さんは大学どう?」
「友達もできたし、講義もバイトも順調よ」
「バイトは何やってんの?」
「大学近くのダイニングカフェでウエイトレスを週四日」
「それじゃ毎日忙しいんじゃないの?」
「うん、今日は初めてシフト代わってもらっちゃった。せっかく久しぶりにこのメンバーで集まるんだもの」
「そうだな。卒業式以来だよな」
清水さんと俺は高校三年生の時のクラスメイト同士。
大学は違うけど仲の良かったグループのメンバー男女八人が、みんな夏休みに入った今夜、近場の海で花火大会をしようと集まった。
その中で、くじを引いて負けた俺と清水さんは晩飯と飲み物の調達係として一緒にコンビニの買い出しに行ったのだ。
「くじ運悪いね」なんて清水さんは苦笑したが、俺は内心、ガッツポーズを決めていた。
これには裏がある。
仲間が彼女にだけ内緒で、あらかじめくじを仕組んでくれたのだ。
仕込み通り、俺と清水さんがコンビニの買い出しに決まって、悪友達は密かに「頑張れよ」と背中を叩いてくれた。全く、持つべきものは気の良い友だ。
「それにしても今日もあっついなあ」
「でも、夏の夕暮れって綺麗よね。ほら、海の向こう。陽が沈みかけてる」
清水さんの言葉に海辺の水平線に目をやる。
水平線上は大きな太陽が今、正に沈もうとしている。
雲のない西の空には夕焼けの茜の色に染まる黄昏時。
チラリとわからないように清水さんを眺めると、黄金色の夕陽に映える横顔がとても綺麗だ。
高校時代も可愛かったけれど、制服ではない私服姿の彼女はちょっと見ない間に大人びていて、すっきりと垢抜けている。
海から吹いてくる潮の匂いを含んだ風に清水さんの髪が靡く。潮風が清水さんの柔らかく長い髪を浚う。
その髪を一筋、掬ってみたくて。それはきっと、さらさらとしていて、シャンプーのいい香りが……。
そんな妄想がよぎる自分を慌てて打ち消す。
「ねえ、清水さん。入り江の方から回っていこうよ」
「え? 遠回りにならない? みんな待ってるわよ」
「すぐそこだし。ちょっとくらい遅くなったってわかりゃしないよ」
「そうね。あの入り江、静かで落ち着けるから私も好き」
そうやって、俺たちは少し遠回りして入り江の方に回った。
なんかドキドキする。
これもみんなが立ててくれた作戦通り。
けれど、いざ二人きりになると意気地のない俺だ。
清水さんは自覚がないようだけど、彼女は高校時代、男女問わず人気が高かった。入学した頃から、彼女の存在を知らない生徒はいないほどそれは可愛かった。
そんな彼女を俺は最初、遠くから眺めるだけだったが、三年で同じクラスの美化委員になり、彼女と二人で教室内や校内外の掃除などをした。
彼女は綺麗好きで、いつも見えないところで校内美化に努めていた。ゴミ拾いも清掃も黙って率先してやっていた。毎朝、誰より早く登校して、教卓上の花瓶の水替えも厭わなかった。
可愛くて、性格も優しい清水さん。
俺は彼女に強く惹かれるようになっていった。
美化委員会の一番の想い出は、夏休みの清掃活動でこの海に来たことだ。暑いさなか、浜辺のゴミ拾いはしんどかったが、終わった後にみんなで飲んだコーラの美味しかったこと。
そして、この夕焼け染まる大きな夕陽を見た。
あの時はみんなと一緒だったけれど、今日は清水さんと二人きり……。
夏の黄昏の海辺はロマンティックこの上なくて、かえって俺はどうしていいかわからない。
俺は内心の動揺を抑え、言葉を探した。
「高三の時のあの体育祭、覚えてる?」
「ああ、あれ盛り上がったわよね! 私、チアガールやって楽しかったあ」
「清水さん、チアリーダーだったもんな」
「あんな大役、やれるかどうかすっごい緊張したけどね」
「でも、練習頑張ってたろ。応援団演技、すごく上手かったよ」
「え、本当? ありがとう!」
清水さんは、それは嬉しそうに笑った。
そうして高校時代の想い出話に華を咲かせ、俺たちは他愛ない話に興じている。
思った以上に清水さんは楽しそうだ。
笑った時にできる片えくぼが抜群に可愛い。
久しぶりに見る彼女の笑顔に俺は有頂天だ。
「そう言えば、清水さん。100メートル徒競走で転んだよな。あの時」
と、俺はそこで言葉を止めた。
「……あの時。上田君が私を救護室に連れて行ってくれたのよね」
恥ずかしそうに清水さんは言った。
あの時。
俺は、転んで足を挫き動けなくなった彼女の所に真っ先に駆け寄り、彼女を救護室に連れて行った。
救護室には誰もいなくて、俺は彼女の挫いた右足の状態を確かめた。彼女の生足に触れることには躊躇したが、清水さんの恥ずかしさは俺の比ではなかったに違いない。
本当は……。
俺はその時、清水さんに告白しようとした。
けれど、ちょっとのタイミングの差で、救護係が戻ってきて告白のチャンスを逃してしまったのだ。
俺の生涯の不覚だったと何度後悔しただろう。
低く低く、寄せては返す波音が聞こえる。
隣には俯き加減のまま、無言の清水さん。
波音と心臓の鼓動とが重なり合って……。
俺達はただ黙って波打ち際を歩いていた。
しかし、ふと。
清水さんは歩みを止めて言った。
「上田君。ねえ、海辺のこの時間帯って私、一番好き。ブルーモーメントて言うの」
清水さんはうっとりした様子で海をじっと眺めている。
その言葉で海を見ると、水平線上だけ辛うじてひと筋の茜色を保っているが、薄明の空は息をのむほど素晴らしい藍色に変化していた。
「空も海も。すっごく綺麗よね」
「ああ」
俺達は暫し立ち止まり、凪いだ海を眺め、空の群青色に吸い込まれていた。
しかし、そんな至福の時間はあっという間だった。
潮風に乗って切れ切れに、遠くで仲間達のはしゃぐ声が聞こえてくる。
清水さんとふたりきりの時間。
それももう終わりかけている。
何か。
何か、言葉を……。
彼女に。
このもどかしく、熱い想いを。
「清水さん」
「何?」
俺の隣で、斜め下から俺を見上げるその大きな瞳に俺は釘付けになる。
このまま彼女の隣にずっといたい。
可愛くて、愛おしくて、ずっと側にいたくて、もう離したくなくて……。
俺は。
彼女のことを──────
俺は一世一代の覚悟を決めた。
「ずっと好きだったんだ。……清水さん」
瞬間、彼女の動きがフリーズした。
「俺とつき合って欲しい」
俺は、彼女の大きな瞳を真摯に見つめて言った。
「上田君……」
彼女は一言呟くと、黙ったまま足下を見ている。
沈黙の間に間を一陣の夜風が通る。
その時間は『永遠』のようだった。
もはや寄せ返す低い波音さえ聞こえてはこない。
俺の頭の中は彼女のことだけで占められている。
彼女の表情が、気持ちがわからない。
俺は、不安にいたたまれなくなった。
「ダメかな、やっぱり……」
俺はぽつりと問うた。
気分は絶望的だった。
「……そんなことない。嬉しい……。上田君」
「え?!」
俯いていたはずの彼女がゆっくりと顔を上げた。
その瞳は心なしか潤んでいる。
「私も、本当は……。上田君のことずっと好きだった。上田君に朝一番に挨拶したくて毎朝、早く登校してたの。体育祭の時、救護室に連れて行ってくれた上田君、男らしくて。ドキドキして……。私、ずっと……」
見つめ合う。
互いの瞳に釘付けになる。
俺達は夏の夜の薄暮の闇の中、暫しただ佇んでいたが
「行こ。上田君、みんな待ってる」
照れたように笑んでそう言うと、清水さんは左手に持っていたコンビニのレジ袋を右手に持ち替えた。
俺は、自由な右手で彼女の左手をそっと握った。
初めて触れた彼女の手はすべすべして、しっとりとしていた。
この初めての距離感。
清水さんの甘い香りが鼻孔をくすぐる。
清水さんは耳たぶまで真っ赤に染めて、赤い表情をしている。
再び、俺達は見つめ合った。
長い睫に縁取られた彼女の大きな瞳がゆっくりと閉じられて……。
その時だった。
ヒューン……と音がしてバチバチバチ!!と大きな音が辺りに響いた。
宙へ向かってロケット花火が次々と飛んでゆく。
みんなが待ちきれないで花火を始めたみたいだ。
オレンジ色の弾道を描き、赤い火の粉が飛んで夏の夜の辺りを明るく染める。
その真夏の夜の情景に視線を奪われていると
「おーい、上田! 遅いぞ、お前ら」
「上手くいったかー?」
もうそこまで仲間が近づいてきていて、俺達を呼んでいる。
蒸し暑い夏の夜。
肌にまとわりつく空気。じっとり汗ばんだ掌。
でも、俺の隣には『彼女』がいる。
暗い漆黒の夜空に向けて放たれるロケット花火が、辺りを明るく彩っている。
今年の夏はきっと特別な夏になる──────
そんな予感を感じながら
「今、行く!」
彼女の小さな左手ぎゅっと握り締め、笑顔で待っている仲間達に、俺達ふたりは繋いだ手を大きく振った。