片岡さんの話
片岡さんは商社マンでね。
よく残業して帰っては嫁さんに文句を言われて、みたいな生活をしてたのね。2歳になったばかりの娘は可愛いけど、産後すっかりヒステリック気味になった嫁さんの相手するのはしんどくて仕事に打ち込む時間が余計に長くなって。
その日も、翌日でもいい仕事を残業でやってたら結構遅くなっちゃったらしくて。
とはいってもまだ同じオフィスにも働いてる人がいるから、片岡さんだけが遅くまで仕事をしていたわけじゃないらしいんだけど。
さすがに日付をまわる前に帰らないと、またひどく文句を言われる。そう思って急いで車に飛び乗ったのよ。
そこでしまったなとなったのが、その日がいわゆる「プレミアムな金曜日」だったことで。
この時間になると、いつも通勤で使ってる繁華街の道はすごい混むのね。
カーナビが渋滞情報を表示してたし、舌打ちして山を越える道のほうにハンドルを切ったんだって。
山道は電灯が少なくって。FMラジオも途切れがちでブツブツ、ブツンってノイズが乗ったりしていて。
家庭環境もだけど仕事で疲れてたのもあって、片岡さんは盛大にため息ついたりしてさ。
山道は行き交う車もほとんどいなくて、でもちょっと遠回りにはなるから家に着く頃には日付は変わるかどうかってところでさ。
嫁さんが妊娠してから吸わないようにしてたタバコが無性に恋しくなって、でもまわりにはコンビニもないしで余計にイライラしてたのよ。
最近じゃ帰るのが遅れなくても不機嫌だったりするから、娘は可愛くて仕方ないけど、嫁さんのヒステリーを延々と浴びせられるのに関してはかなり参ってたみたいでね。
だからスマホの着信にも気付かないフリをしてさ。着信のランプがトンネルの橙色の灯りと混ざり合ってるな、みたいにボーっと考えてたんだって。
それでちょっと気がそれちゃってたんだろうね。トンネルを出たところでいきなり何かが車の前に飛び出してきたとき、反応が一瞬遅れちゃったんだって。
ブレーキペダルを思いっきり踏み込んで、すごい音を立てながら後輪が横滑りしてさ。でも全然避けきれなくて、ドンッと軽い衝撃が車越しに伝わって。
撥ねられた何かは嘘みたいにポーンって吹っ飛んで、ドサッ! て落ちて。
人を撥ねた。その恐怖で、片岡さんは自分の心臓がドッドッドッドって爆音を奏でてるのを聞いたらしいのね。
背中にじっとり気持ち悪い汗が浮かんでさ。
「やばい。どうしよう。救急車? 全く動かない。死んでる? まさか殺してしまった?」ってもうパニックになっちゃって。
蒼白になってるところに、ドアをバンッて強く叩く音で我に返ったらしい。
音のした側を見ると、骨ばった顔の中に目だけが真っ赤でギョロッとしてる老女が運転席のドアを手のひらで叩いてて。片岡さんを睨みつけるみたいにしながら、バンッ、バンッて。
あ、これやばいやつだ、って本能的に思ってさ。必死で目を合わせないようにしてたら、片岡さんが轢いちゃったモノを老女が引きずってきたのね。
「□□病院連れてけ!」って怒鳴るので、片岡さんはもう必死でカーナビで検索掛けて。
そしたら少し行った先で道が枝分かれしてるらしくて、その道を進むと山の中にどうもその病院があるらしいことがわかったんだけど。
老女が車の前で通せんぼするように立ち塞がってるので、気が動転してた片岡さんはピクりとも動かないソレを病院に連れてくことを約束しちゃったんだって。
トンネルの橙色の灯りに照らされたソレは寝袋というか、ズダ袋っていうの? 映画とかで見る、ほら、死体を入れておく袋みたいな感じっていうか、そんな大きい黒っぽい袋でさ。
老女がわざわざソレを車の前に投げ込んだんじゃないか、って片岡さんは思ったけど、ぐったりしたソレを後部座席に積み込んだのね。
そしたら老女がニマァ…って笑ってさ。真っ赤な目がギョロギョロ動くもんだから、人っぽいものを轢いちゃったショックと、早く老女から離れたかったのもあって、車を発進させたのね。
幸い、その病院は遠くないみたいで。
後部座席に死体が乗ってるとか、殺人の罪に問われたらこれから先どうしようとか、娘の誕生日に一緒に苺を食べたこととか思い出して頭の中がぐちゃぐちゃになってさ。
でもまた事故を起こすわけにもいかないから、ハンドルに齧り付くくらいの勢いで車を走らせたんだって。
で、病院に着いたんだけど、これがどう見ても廃病院。
灯りなんてなーんもないの。病院前のエントランスもコンクリの隙間から生えた草だらけでさ。そこで車を止めて、片岡さんは途方に暮れちゃって。
でも死体をそのままにもできないしで、あとはこの廃病院の中に置き去っておいたらコトが発覚しないかも、みたいな考えもあったんだろうね。
普通に考えたらあとからいくらでもアシがつくんだけど、疲れと恐怖で混乱してた片岡さんはそんな良からぬ思いからか、とりあえず袋を下ろすことにしたのよ。
そこで袋を抱え上げたときにバランスを崩して、地面に袋を落としちゃったんだって。
ガツンッ! ってすごい硬い音が鳴って。コンクリだからってそんな音するか? って思って。
袋はジッパーで止めてあったから、それを恐る恐る下ろしたら中のモノと目があったらしくって。
片岡さんは思いっきり悲鳴をあげて、また袋を落としたんだけど、中身はやっぱり微動だにしなくてね。
中は真っ赤に塗りたくられて、なんか首がもげかけてる、気持ち悪い人形が入ってたんだって。
人を轢いてしまったと思ってた片岡さんはもうめちゃくちゃホッとして。
気味悪い人形に散々ビビらされて、運ばされたことにも同時にすごいムカついてさ。
車の発進に邪魔になる位置に落としちゃったのもあって、思いっきり蹴りつけてどかしたのね。
そんで車に飛び乗って、□□病院から逃げるようにアクセルを踏み込んで。
口の中はカラッカラに乾いてて気持ち悪いし、置き去ってきた人形が追いかけてきてるような気がして何度もミラーを確認してさ。
あの老女にまた遭うなんて考えたくもなかったから、さらに遠回りになるけど下山する方向に車を進めて。
ラジオはずっとノイズ混じりでブツブツ言ってて。
たまらず片岡さんは嫁さんに電話を掛けたのね。電波は弱いけど一応アンテナは立ってたっぽいから。
ハンズフリーモードだからちょっとマイクは遠いけど、誰かの声が聞きたくてたまらなくなってね。
1コール、2コール。
コール音にもノイズが若干乗って。
「はい」
不機嫌そうな嫁さんの声が聞こえて、片岡さんはようやくちょっと不安が和らいだらしいのね。
今何時だと思ってるの、とか今まで何してたの、とか不満げに言うのを遮って、
「ユイは?」
って聞いたら呆れたような声が返ってきた。あ、ユイっていうのは片岡さんの娘さんの名前ね。
「とっくに寝たに決まってるじゃない。どうしたのよ、あんた」
「そっか……そりゃそうだよな」
「何かあったの? 仕事でやらかした? なんか変なことに巻き込まれたりとか」
「いや……大丈夫、大変なことは終わったよ。全部、終わった」
「そう……?」
普段ずっと不機嫌な嫁さんが心配してくれてるのが声音からもわかって、片岡さんはヒステリック気味な嫁さんに辟易してた自分をちょっと反省したらしいのね。
妊娠、出産に伴って嫁さんはそれまでずっと勤めてた職場をやめてるし、母親が主婦やってるとなかなか保育園には入れてもらえない地域なのよ。
それでひとりでずっと娘の相手を続けてくれてたんだから、疲れが溜まるのも当たり前だよなって思って。
「そうだ。明日はどっかに行こう。3人で。買い物なんかどうだ。ほら、こないだユイに引っ張られて服がダメになったって言ってたし」
「本当にどうしたのよ。あなたちょっと変よ? 土日はたいてい二日酔いとかだるいとかで寝てるのに」
やっぱり心配してくる嫁さんの声にノイズがザザって乗って、ラジオから音楽が流れ出して。
ようやく山を抜けたなって思ったところで、スマホの電池が危ういことに気付いたのね。
「あと30分もあれば帰れると思う」
「なんなのよ、もう。わかった、お味噌汁温めて待っててあげる」
そんなやりとりをして電話を切って、少し暖かい気持ちになりつつ片岡さんは家路を急いだんだけど。
マンションの駐車場に車を駐めたときにはもうすでに1時をまわってて。見上げた自宅の窓には電気が点いてなかったから「待ってるって言ったのにな」って少し落胆しながら片岡さんはエレベーターに運ばれて。
人形を轢いた車の凹みとかは明日日が昇ってから確認しようと思って、臨時出費になったら嫌だなぁってまたゲンナリしたりして。
玄関を開けても嫁さんは出てこなかったからまた溜め息をして、リビングの電気をつけたら、そこで嫁さんと娘さんが死んでたんだって。
ふたりとも首が捥げかけてて、頭もなんか凹んでて。まるで思いっきり蹴りつけられたみたいに。一面赤黒い血で染まってたんだって。
今日、留置所に差し入れ持ってったときに片岡さんから直接この話を聞いたんだけどさ。
片岡さんの真っ赤な目がギョロっとこっち見てニマァって笑うからすっげぇ気持ち悪くて、なるべくそっち見ないようにして相槌だけ打って逃げ帰ってきたんだよね。