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夜、左弦直が帰ってくると、すぐに|雲洛邦《うんらくほう》が呼ばれた。
「先生のおっしゃられたとおり、関丞相と馬大夫を誘いました。しかしお二人とも、出席を断られてしまいました」
「何とお誘いしたのですか」
「いえ、ただ私の家で宴があるとだけいいましたが……」
「それだけですか」
「あとは出席予定者を伝えました」
それを聞いて、雲洛邦はほとほと呆れてしまった。この人物は悪人ではないが、所詮は人の良いお坊ちゃんである。出自の良さだけで高位についているのだろうが、よくその地位を保っているものだと別の意味で感心した。
「あなたが最初に誘った方々は、言わば丞相や馬大夫の政敵ではありませんか。宴の理由も言わずに誘ったところで、断られるに決まっているでしょう」
どうやら言われてみて初めてその事実に気付いたようである。左弦直は青くなった。
「どうしたらよいでしょう。こんなことに気付かないなんて……」
逆に言えば、この気のよさがこの男の持ち味である。あくの強い男では、もともとこの計画は難しいのである。
「仕方がありません。太尉と大将軍もお呼びしなさい。彼らにも声をかけたことが伝われば、丞相や馬大夫もあなたに他意はないことが判るでしょう。それから、宴の理由を聞かれたなら、『我が国を支える方々との、親睦の宴を開こうと思いました』と返事なさい。これなら、出席する人が多少気に入らなくても、簡単には断れますまい」
あなたのような単純な人が下心あって宴を開くなんて、あまり考えませんよ。
雲洛邦は心の中でそう付け加えた。しかしそんなことは知る由もない左弦直は、さっそく明日にでも、もう一度彼らを誘いましょうと喜んで請け負った。自分が程のために奔走しているんだ、という熱意で胸が一杯のようであった。
翌日もいつもどおり、雲洛邦は街へと出かけていった。もちろん新しい噂を探すためである。
ぶらぶらと世間話をする相手を物色していると、突然、背中に何かが触った。
「大声を立てるなよ。そのまま何事もないかのように歩いて、そこの茶屋に入れ」
はっきり言って、喧嘩は苦手である。後ろからなので姿は分からないが、声の位置や感じからしても自分より背の高い、若い男のようである。雲洛邦は黙って男の言うとおり、茶屋に入った。
男は一番奥の、衝立で遮られた席まで行くと、そこに座るよう雲洛邦に指示した。そこの席を選んだのは、恐らく他に聞かれたくない話をするためであろう。
言われるままに椅子に座ると、その男も卓を挟んで向かい側に座った。
改めて男を観察すると、思っていたほどごつい男ではなかった。どちらかといえばすらりとした美男子であり、知的な印象さえ受ける。しかし軟弱かと言うとではなかった。日焼けした顔と袖から見える手は、明らかにこの男が外で力仕事をしていることを表している。
雲洛邦が口を開かず、ただ自分を観察しているだけであるのを知ると、その男は再び口を開いた。
「最近、お前は辛家の店に出入りしているようだが、何を企んでいる?」
――なるほど、辛家の店でのことがこの男の関心事か。すると辛家の競争相手が差し向けた嫌がらせか、それともどこからか私が三国同盟を画策しているのが漏れて、それを邪魔しようとしているのか。どちらにしても、今は何とかこの場を切り抜けねばならない。少なくとも茶屋に連れ込んだと言うことは、すぐに命を奪おうということではなく、話し合う余地があるからに違いない。
とりあえずそう判断した雲洛邦は、できるだけ気の弱い風を装って、彼に返事を返すことにした。
「企むって、何のことを言っているんですか。私はただ、あの店を通して仕事を頼んだだけですよ」
「仕事を頼んだだけ?それは何の仕事だ?」
雲洛邦は相手の様子を観察しつつ、目まぐるしく頭を回転させていた。
――今の質問は、文字通りに依頼している仕事の内容を知りたいのか、それともすでにその内容を知っており、出方を伺うためのものか……。
雲洛邦は長年の経験から、後者であると判断した。それなら嘘をついても相手に余計な不信感を与えるだけであり、得策ではない。
瞬時にそう結論すると、事実を簡単に述べることにした。
「とある宴の余興のために中原の舞いを舞える舞妓と、その衣装を用意してもらったのです」
「舞妓なら、専門の座がある。なにも店を通さずともそこへ行けばよかろう」
――舞妓をどこから雇うかにこだわると言うことは、少なくとも政治的な問題で呼び止められたわけではないようである。すると辛家への妨害か、縄張りの問題か、その辺が理由なのであろう。
「この街には余り詳しくないもので、店を通したほうが楽だったものですから」
「ではなぜ数ある店の中で、辛家の店を選んだのだ」
――つまり辛家の店を選んだことを問題にしているのか。ということはやはり辛家の競争相手が足を引っ張ろうとしているのであろう。
「亡くなられた辛家の旦那と、以前に交流がありまして、それで辛家の店を選んだのです」
それを聞くと、相手は鼻で笑った。
「詐欺師が何を言っている。お前が親父と付き合いがあったはずないだろう」
その言葉を聞いて、雲洛邦は舌打ちする思いであった。言われてやっと、この男が噂話で聞いていた、辛家の家出した長男であると判ったからである。
しかしその一方で、家出した長男がなぜ実家の心配をするのか、という興味がわいた。噂では、南華全体でも一、二を争う大侠客である高遂の元で、かなり重く用いられているらしいと聞いている。
とにかく、正体がばれているからには、これ以上芝居をしても仕方がない。
「なかなかお詳しいようですな。確かに私は詐欺師です。ですが今のところ詐欺の対象は、辛家ではありませんよ」
「ふん。俺としては、お前が今の辛家に詐欺を働いたところで別に構わん。ただ、妹を巻き込むのが許せんのだ」
「なるほど、確か泥というお嬢さんは、あなたと同腹の妹になるんでしたな」
「そうだ。親父が死んで以来、あの家で使用人のような扱いを受けていると聞いた。だから俺が連れ出してやろうと思っていたんだ。だがお前の話を聞いたので、まずはお前の真意を問い質しにきた」
「ふうむ、妹を助けてやりたいと言う気持ちはよく分かります。だが止めたほうが良ろしいでしょうな」
男の質問には答えず、雲洛邦はまず彼の行動を諌めた。案の定、男は怒った。
「お前の意見など聞いていない!お前の計画など俺には何の関係もないんだからな!」
「そりゃ当然でしょう。だがあなたは妹の気持ちを考えたことはおありかな?」
「当然だ。あんな家、早く出たいと思っているに決まっている」
「そうかもしれません。ですがどうやって出ることを望んでいるでしょうな。逃げるように、こそこそと出たいと思っていますかな」
それを言われて、男は返答に詰まった。
「ふむ、やはりすぐに妹を連れ出さず、わざわざ私に声を掛けただけに、少しは分かっているようですね。お前さんがあの家に押し入って妹を連れ出しては、彼女も裏社会で生きてゆくしかないでしょう。少なくとも、生まれ育ったこの辺には近寄ることもできなくなりますな。実のところ、私は彼女とはそれほど親しいわけじゃないので詳しいことは知りません。ですがはたしてあなたの妹はそんな世界で生きることを望んでいるでしょうかね」
「……確かに泥は、裏社会で生きることは望まないだろう」
男は渋々、そのことを認めが、それでも雲洛邦を睨みつけて言葉を続けた。
「だが、だからといって泥をあんな家にいつまでも置いておく訳にはいかんのだ。それよりもお前、泥とはどこで知り合ったのだ。いったい、何を企んでいる」
雲洛邦は顔色も変えずに即答した。
「べつにたいした経緯じゃありません。たまたま、辛家の屋敷の裏口で行き倒れていたら、泥さんが私に夕食を出してくれたのですよ。そのときに、何か望みはないかと聞いたところ、彼女は蒼楼の夢を希望した、ただそれだけの話です。舞の件は偶然です。左大夫の屋敷で行われる宴に、中原の舞を舞える舞妓が必要だったので、辛家の店に偵察がてら頼みに行ったんですよ。そうしたら番頭から泥さんが舞を舞えるというのでお願いしただけです」
それを聞いて、男は毒気を抜かれたような顔になった。
「それだけって、そんなはずがあるか!お前がただそれだけで動くなんて……」
「別に信じないのなら、私は構いませんよ。所詮は詐欺師のやることです。お前さんはお前さんの好きにするがいいでしょう。ご存知と思いますが、私は今、左大夫の屋敷で客になっています。泥さんにはそこで舞を舞ってもらうことになっていますが、別に彼女じゃなくても私は困らないのですよ。ただあなたが余計なことをすると、彼女の蒼楼の夢は一生、叶わないでしょうな」
彼が困らない、と言ったのは事実である。少なくとも、舞を見せる相手は舞を舞う人物が誰かなど、関係ないからである。
「お前の言っていることは矛盾している!お前の目的は泥に蒼楼の夢を見させることじゃないのか」
「ま、確かにそうでした。しかし蒼楼の夢など簡単に実現できるものではありません。その準備を既に始めていますが、この準備は動き出したら止めることができません。むしろ泥さんのことは、そのついでにすぎなくなるのです」
淡々と語る雲洛邦を前に、男は最初の勢いをすっかりなくしてしまった。
「お前はそんな気持ちで、泥に蒼楼の夢を約束したと言うのか……」
「別に向こうは私の約束など本気にしてはいないでしょう。もう忘れているかもしれません。大体、行き倒れの老人が蒼楼の夢を約束したところで、誰がそれを信じますか」
「だがお前はそのために動いているんだろう」
「詐欺師の自尊心、と言うほどでもありませんが、あんな娘にまで恵んでもらうようでは、私もそろそろ潮時だと思っているんですよ。だからまあ、私にとっても丁度良いきっかけだったと言うことです」
分かったような分からない答えに、男は苛立った。
「俺が大夫に、お前が詐欺師であることを教えてやる。そうしたらお前は野垂れ死にだ」
「別に構いませんよ。どうせ泥さんに食事をもらえなければ、あの場で死んでいたであろう身です。泥さんの実兄に引導を渡されるのも、何かの縁でしょう」
男は進退窮まった。
この雲洛邦という詐欺師を信用するのは、余りにも無謀である。しかし、もしもこの話が事実なら、妹を幸せにできる機会をみすみす潰すことになる。
暫くの沈黙の後、男は口を開いた。
「お前は泥に蒼楼の夢を見せることを約束した。お前は本当に、その約束を実現させることはできるのか」
「さあて、なにしろ相手が大きい。簡単にできるとはいえません。今のところ五分五分と言うところでしょうか。ただ……」
「ただ?」
「私の味方になってくれる、信頼できる人、できれば世情に通じている人がいれば、七、八分まで確率は上がるかもしれません」
それを聞いて、再び男は沈黙した。
一方、雲洛邦は男の様子を楽しげに観察していた。この男はなかなかいい。高遂に目を掛けられていると言うのも良く分かる。今はまだ若いが、磨けばかなりの才能を発揮するだろう。
「お前さんに一言忠告してあげましょう。決断はすばやく出来るようになりなさい。考える時間が必要なときも、さも決断は済んでいるような余裕を見せなさい。そうでなければ、私の役には立てませんよ」
「誰がお前の味方をするなどと……」
「ではお前さん一人で妹をどうやって助けるのですか。まずは私に乗りなさい。もしも私が裏切れば、そのときは私を殺せばいい。お前さんなら簡単なはずです。お前さんは、今はまだひよっこです。まず私の耳目となり、どうやって口先一つで人を動かすかを学びなさい。そうすれば、いままでよりも一層、高の親分の役に立てるようになるでしょう」
既に勝敗は決まっていた。男の沈黙が、何よりもそれを証ししている
「そういえば、お前さんの名前を聞いていませんでしたね。名前は何というのですか」
「休舛と呼ばれている」
「辛休舛ですか」
「今は高姓を名乗っている。高休舛だ」
「では休舛さん。私はもう帰りますが、一週間ほどあとに程の高官の主だった人が左大夫の屋敷に集まります。表向きの目的は親睦です。ですがこれは私が左大夫を巻き込んで進めている準備の一段階です。そしてこの場で泥さんが舞を舞います。もしも私を手伝っていただけるなら、明日、もう一度この店に来てください。私からお願いしたいことがあります」
そう言い残して立ち去る雲洛邦を、高休舛は一瞬、呆けて見つめていたが、止めようと思い直して慌てて後を追った。
しかし茶店の外へ出ると、そこには人だかりが出来ており、雲洛邦もその人垣に阻まれて先に進めないでいた。
「なにがあったんだ?」
「ただの喧嘩のようです。まあ、暇人のあつまりですよ」
喧嘩と聞いた高休舛は、雲洛邦のことは脇に置き、騒動の中心へと進んでいった。
それを見た雲洛邦は、彼が血気早い性質なのかと、少し失望した。
それでも何となく気になった彼は、自分も様子を伺うために人ごみを掻き分けた。
やっとのことで中の様子が見られる位置まで移動した彼は、高休舛が喧嘩に参戦するためではなく、喧嘩の仲裁をするために騒動に加わったことを知った。
残念ながら既に仲裁は終わっており、どのような仲裁をしたかを彼自身が見ることは出来なかったが、見物人が不満を口にしながら立ち去っていくところを見ると、派手な立ち回りを期待していた、彼らの望みは果たされなかったのであろうことは、容易に想像できた。
高休舛はすぐに雲洛邦を見つけると、彼に近づいてきた。
「邪魔が入ったが、まだ俺の話は終わっていない」
「私が今日話せることはもうありませんよ。それよりもなぜわざわざ喧嘩の仲裁を買って出たのですか」
「立場上、誰が起こした喧嘩かを確認したかったし、確認ついでに仲裁しただけだ。まあ、俺と関係はなかったがな」
その返事は彼が高遂の元でかなり重要な立場にあることを匂わせていた。しかし雲洛邦はそのことには言及せず、さらに別のことをたずねた。
「それにしても早かったですね。いったいどんな手品を使ったんですか」
「何も難しい話じゃない。双方の言い分を聞いてやって、代わりに白黒つけてやるだけの話だ。まあ、口でいってもわからない奴はそれなりに痛い目にあうことになるが、今日はどちらも口先だけだったから、あっさり引き下がったな」
「なるほど、簡単ですね」
雲洛邦はそう答えたが、しかしそれが簡単な話ではないことはむしろ彼のほうが良く知っていた。
実際、双方の話を聞いて、両者が納得の行く結論を素早く出すことは、至難の業である。それをやってのける当たり、彼が腕っ節だけではなく度胸もあり、また頭も切れる証拠であった。
雲洛邦は自分の彼を見る目が間違いなかったことを確認でき、満足した。
「それよりも先ほどの件だ」
「そう焦らないことです。別に逃げようというのではない、考える時間をあげようというのです。聞きたいことがあれば、明日、この店にもう一度来なさい」
そう言われて、高休舛はそれ以上、その場で追求できなくなった。別に彼が凄んだわけでも、脅したわけでもない。しかし雲洛邦がそう言ったとき、彼は先ほどまではただのちんけな詐欺師にしか見えなかった相手に隠された正体不明の凄みを感じ取り、受け入れざるを得ないと思わされたのである。
それは言わば、一流の武道家が、一見隙だらけに見える相手に打ち込めない時のようなものであり、結局その場は、ただ黙って見送るだけであった。