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泥はその日も朝から休む間もなく働かされていた。
丁度廊下の掃除をしていたそのとき、腹違いの姉に当たる辛観遥が近づいてきた。
「あんた、私が頼んでおいた買い物、行って来てくれた?」
「申し訳ありません。お母様から廊下の掃除を先に終わらせるよう言われましたので、これが終わり次第行ってまいります」
顔だけを彼女のほうに向け、手は休ませずに答えると、観遥は腹を立てて彼女に手を休めるように言った。
「あんた、自分が前妻の娘だからって、私を馬鹿にしているんでしょう。仕事の手ぐらい、休めて話をするのが礼儀でしょう」
私を馬鹿にしているのはあなたでしょう、と心の中で思いつつも、泥は黙って罵倒する彼女の前に立っていた。
するとそこへ、店へ行っていたはずの友夫人が現れた。
「観遥、なにをしているの。この娘の相手なんかしては駄目よ」
「いいえお母様。泥が私に口答えするので、叱っていたのですわ」
それを聞くと、友夫人は泥に近づいて、その頬をぴしゃりと平手打ちした。
「口答えするなんて、なんて生意気なんだろうね!お前なんか、いつでも追い出せるんだよ」
いつもならこの後、さらに小言が続くところであるが、しかし今日は違った。
「さあ、もう掃除はいいから、ちょっと私についてきなさい」
それを聞いて泥も驚いたが、観遥はもっと驚いた。
「お母様、泥は私の買い物に行くことになっているのですけど」
「買い物は、他のものに行ってもらいなさい。私はこの娘に仕事のことで急な話があるのだから」
そう言うと、友夫人はさっさと泥を自分の部屋へと連れて行ってしまった。
観遥は歯噛みする思いであったが、さすがに母親に逆らうことはできない。それでも二人が何の話をするのかきになったため、こっそりと母親の部屋の外で二人の話を盗み聞きすることにした。
一方、友夫人は泥を連れて自室に入ると、彼女は立たせたまま自分は椅子に座り、すぐに彼女に質問を投げかけた。
「お前、以前に舞を習っていたというのは本当かい」
「はい」
「嘘をついてもすぐにばれるんだからね」
「お疑いでしたら、虞先生にお聞きください」
虞先生、という名前を聞いて、友夫人は眉を動かした。
「虞先生、というのは、もしかしてあの虞操さんの事かい?」
泥が頷くと、友夫人もそれ以上疑うことはしなかった。
虞操は程でも有名な舞の名手であり、彼と亡夫との間に親交があったことは、彼女も聞いたことがあった。そのような関係から、亡夫が泥を彼に師事させていたと事は、十分にありえる話であり、あえて確かめるまでもないと思ったのである。
そこで友夫人はさらに質問を続けた。
「それじゃあお前は、中原の舞を舞うことはできるのかい」
その問いに、泥は首をかしげた。
「中原の舞と言いますと、秦踏でしょうか?」
「舞の名前なんてどうでもいいんだよ。舞えるのかい、舞えないのかい」
「秦踏でしたら、先生が舞うのを一度観た事がありますが、実際に習ったことはありません」
泥は慎重に答えたが、友夫人は勝手に話を進めた。
「観た事があるなら、真似事ぐらいはできるだろうね。今度、左大夫のお屋敷で宴が開かれるそうなんだが、その席で中原の舞を舞える舞妓が欲しいそうだ。お前が舞えるなら、うちは無駄な費用が掛からないで済むから助かるんだよ。いいかい、お前が左大夫の宴で中原の舞を舞うんだよ」
義母から舞のことについて質問を受けた時点で、そのような仕事をやらされるのではないかという予感はしていたが、まさか習った事すらない舞を、国の高官の前で舞うように命じられるとまでは考えていなかったため、彼女は思わず声を上げた。
「私……舞えません!」
「親の言うことが聞けないってのかい!」
友夫人は鬼の形相になって叱った。しかし泥も怯まず、自分の不安をはっきりと伝えた。言うべきことは言わねばならない。
「もしも私が適当な舞を舞って、そのことでおとがめを受けたなら、それは私の責任だけではなく、私を勧めた辛家の責任にもなりませんか」
それを聞いて、友夫人も思案顔になった。
確かに番頭の李忠の話では、それらしく見えれば良いとのことであった。しかしあまりにも適当では、不興を買うかもしれない。
「お前は、自分の舞いに自信がないのかい」
少し落ち着いた声で尋ねられて、今度は泥もいつもどおりに答えた。
「華踊なら、自信があります。ほかの舞いも、時間があれば覚えられるとは思います」
「ならば今日から宴の日までの間、練習すればなんとか形になるね。あちらからは、単なる余興だから、それらしく見えるなら、それで構わない、と言われているから、それだけの時間があれば大丈夫だろう」
これ以上の口答えは許さない、という口調であった。泥のほうも、自分が言うべきことは告げたし、舞いのために時間を使えるのは嬉しくもあったので、それ以上は反論しなかった。
その日から泥は使わなくなっていた離れで練習するように言われた。ただし昼間は今までどおり家事を行い、実際に練習できるのは夜だけであった。
雲洛邦は、左弦直が出仕している間のほとんどを、街に出かけて過ごしていた。そこで出会う様々な人物と世間話をしながら、いろいろな噂を集めるためである。さらに毎晩、左弦直からも朝廷で交わされる噂を聞きだしていた。
一般に、噂は物事の一面しか捉えていないことが多いので、できるだけ多くの噂を集めた上で、そのなかに含まれる事実を見つけ出さなければならない。そして彼はこの能力に長けていた。
辛家の店を最初に訪れた三日後、彼は再びそこへ向かった。頼んだものが揃えられそうか確認するため、というのが表向きの理由であるが、やはり店の番頭とのやり取りで噂を仕入れることも目的であった。多くの人を相手にする店の者は、大抵の場合、噂話をする機会も多く、噂の収集にはうってつけなのである。
彼が店を訪れると、すぐに番頭の李忠が出てきた。
「これはこれは雲様、よくいらっしゃいました。御用がございましたら、ご連絡いただければすぐにお伺いしましたのに」
愛想良く応対する李忠に対して、雲洛邦は鷹揚に答えた
「いやいや、わたしは街を散歩するのが好きなものでね。ついでに寄ったのだよ。ところで先日頼んだものは、用意できそうかな」
「ええ、大丈夫でございます。衣装もそろっておりますし、舞妓も先日お話したとおり、事が運んでおります」
と、ここで李忠は少し不安そうな顔になり、小声で雲洛邦に聞いてきた。
「実を言えば、舞妓になる泥様は、秦踊は一度観た事があるだけだそうです。記憶を頼りに練習しているようですが、どこまで似せられるか、今のところ誰もわからないのですよ。先日の話では、大体それらしければよいとの事でしたが、このような状況でも大丈夫でしょうか」
雲洛邦はその話を聞いても全く気にした様子を見せなかった。
「ああ構わんよ。実際のところ、来る方は誰も本当の秦踊など知らないだろうから、私が『これが中原の舞です』といえば疑いもせんだろう」
それを聞いて、李忠も安堵した。
「そういえば、今日は主人はいらっしゃるかな」
「生憎と、今日も出かけておりまして、留守にしております。主人もお会いしたいと申していたのですが」
実を言えば、雲洛邦は友夫人の留守を見込んでこの店に来ていた。間違いなく留守であることを確認すると、雲洛邦はさも残念である様子を装いつつ、番頭と世間話を始めた。
「どうですか、最近の商売は」
「ええ、おかげさまでうちはそれなりに繁盛しておりますが、近頃はいろいろときな臭い噂も耳に入りますからね」
「ほう、どういう噂かな」
「先生もご承知かと思いますがね、我が国が賢と同盟するという話が出ているそうじゃありませんか」
「ほう、そんな噂があるのかい」
もちろん、雲洛邦はそのことを知っているが、まだ公にはなっていない話でもあり、わざととぼけた。
李忠も相手が大夫の客である以上、簡単に同意するとは思っていない。もしも雲洛邦の態度が硬化するようなら、別の話題に変えたであろうが、話の続きを聞きたい様子であったので、持ち出した話題を続けた。
「まあ、噂と言えばそれまでですがね。ただ賢との同盟は渠との戦争のためだという者もいるんですよ。そうなりゃ若いもんは駆り出されるし、品物の入りは悪くなるし、いいことはありませんね」
「そんなものかね。戦争で儲ける者もいると聞くが」
雲洛邦がさらにとぼけて尋ねると、李忠はとんでもないと頭を振った。
「そんなうまい汁にありつける奴なんて、ほんの一握りですよ。うちだって今じゃあ都で一、二を争う店ですがね、なんだかんだ言って、ここ暫くは大きな戦争なんてなかったじゃないですか。戦争のときに伸びる店と、何事もないときに伸びる店というのがあるんです。辛家は国のお抱え商人ではないですし、売り上げが落ちるだけでいいことはないですね」
実を言えば雲洛邦は、ここ数日の散歩で入った店で、同じような話題を振っていた。そのうちの幾つかの店で賢との同盟の噂が出、戦争が近いのではないかという予想を口にした。そして同じように、戦争にはなって欲しくないと願っていた。
「しかし程と渠は敵同士だから、いつかは雌雄を決する必要があるとは思わんかね」
「私は思いませんね。別に身内が殺されたわけじゃありませんし。ここだけの話ですが、今だって渠の商人とだって取引はあるんですよ。ただ、今のままじゃあ表立ってできないので、いろいろと抜け道を使ってこっそりとですがね」
やはりその答えも同じであった。
渠との同盟を目指す左弦直と雲洛邦にとって、都の人々がそれを内心で望んでいるということは大事なことであった。そのことだけで朝廷を動かすことはできないにしても、少なくとも自分たちの主張は『民の声』を汲んでいる、という大義名分ができるからである。
雲洛邦はそのあとも暫く李忠と世間話に興じてから店を出た。