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翌日、左弦直が出仕した後、雲洛邦は街へと出かけた。湯浴みをして着替えたので、昨日までの薄汚れた老人と同一人物には見えなかった。
彼はぶらぶらと街中を散歩しながら、耳は常にそこいらで交わされる噂話に集中していた。
やがて彼はふらりと一軒の茶店に近づき、店先の椅子に座った。すぐに中から店番をしていた女中が出てきた。
「いらっしゃい。なんにいたしますか」
「茶を一杯と、あと適当に饅頭でもいただこうか」
「あいよ。茶と饅頭だね」
女中は中に入ると、すぐに注文どおりのものを持ってきた。
「ああ、ごくろうさん。釣りはいらないよ」
そういうと、左弦直は多めにお金を渡した。それを見ると、女中は相好を崩した。
「ところで女中さん、私はこのあたりに来るのは初めてで良く分からないのだが、辛家の店と言うのはどこにあるのかね」
こんな気前のいい客の機嫌を損ねるようでは、茶店の女中として失格である。すぐに辛家の店の場所を教えただけでなく、彼がまだ聞いていないことまで話し出した。
「辛さんのところは去年、不幸がありましてね。旦那さんが亡くなられたんですよ。それでまだ子供も幼いと言うことで、後妻の友夫人という方が店のほうも取り仕切っているんですよ。このお人が、なかなか商才がおありで、辛さんのところはますますもって商売繁盛、いやはや、あやかりたいもんです」
「ほう、それで跡継ぎは先妻の子供ですか」
わざととぼけで聞くと、女中はけたけたと笑って話を続けた。
「そんなわけないじゃありませんか。友夫人は後妻といっても、以前から辛の旦那に囲われていましたからね。息子が一人と娘が二人いるんですよ。まあ先妻の高夫人も一男一女を産みましたがね。長男は若いうちに店を飛び出して行方知れずですし、娘のほうは、まあ旦那さんが生きてらしたころは良かったんですが、いまじゃ、ねえ」
それ以上はさすがに口に出すのは憚られる、という風情で女中は言葉を切った。
「そうでしたか。いや、昔、辛の旦那に少し世話になったことがあったので、礼をしたいと思っていたのだが、それは残念だ。ああこれは邪魔した侘びだ」
そういうと雲洛邦はもう一枚、小銭を女中に渡した。
喜んだ女中は、立ち去ろうとする雲洛邦に、さらに声をかけた。
「辛さんの長男ですがね、どうやら高の親分のところにいる、という噂もあるんですよ。まあ、あくまでも噂ですがね」
彼女にしてみれば、小銭の礼のつもりで以前に耳にした噂を口にしただけであった。雲洛邦の方も、ああそうですか、と頭を下げただけでその場を立ち去った。
雲洛邦が言われたとおりに道を行くと、果たしてそこには辛家の店があった。
彼が中に入ると、すぐにそこの番頭が出てきた。
「いらっしゃい。何の御用でしょう」
「私は大夫の左殿の元で客となっている雲洛邦というが、今度、左殿の開かれる宴で少し余興をしようと思ってな」
彼が左弦直の名前を挙げると、案の定、番頭はますます腰を低くした。
「はあ、さようでございますか。大夫の客人でございましたか」
「左様。それで余興と言うのは中原の舞踊などを見せたいと思っておるのだが、賢の舞を踊れる舞妓とその衣装は用意できるかな」
「賢の、でございますか。それはなかなか面白い趣向ではございますが、衣装はともかく舞妓の方はすぐには難しゅうございますな」
「完璧に踊れなくても構わない。それらしく見えれば、それでよいのだが」
「何時までにご入用でしょうか」
「ふむ、まだ正確な日時は決まっておらんが、早くても来週以降であろう」
「そうですか。それでは私のほうでも心当たりを当たってみましょう。まだ時間があるようですから、きっとご期待に添えましょう」
左大夫の客の機嫌を損ねては問題である。番頭は愛想良く応えた。
とりあえず用事の済んだ雲洛邦は、安心した様子で世間話を始めた。
「いや、本当に助かった。私もあちこち旅をしていたもので、この街のことは良く知らないのだが、こちらの店ならそろわないものはないと聞いたものでね。ご主人に礼を言いたいが、いまはおられるかな」
「あいにくと、出かけております。居りましたらすぐに呼んで来るのですが」
「そういえば、辛の旦那は亡くなられたと聞いたが、今はどなたがこちらを切り盛りしておるのかな」
「ええ、今は寡婦になられた友夫人が、店の主人となっております」
「そうであったか。寡婦の身で大変であろうな。子供はいないのか」
「おりますよ。ですが一番上の息子は家を飛び出しましてね。他はまだあまり大きくないですし……あ、そうそう、上の娘は昔、舞を習っていましたね。結構筋が良かったらしく、いろいろな舞を教えられたはずです。賢の舞も多少は知っているかもしれませんね」
上の娘とは、泥のことであろう、と見当をつけたが、相変わらず素知らぬ顔で話を続けた。
「ほう、そうか。しかし辛家の娘さんに来てもらうなど、ご主人が許されますかな」
「まあ、それはおそらく大丈夫でしょう。大きな声じゃあ言えませんがね、その娘は亡くなった旦那の前の奥さんの子供で、屋敷の中でもちょいと微妙な立場なんですわ。だから大夫の宴の余興で認められるなら、そのほうがあの娘のためかもしれませんな」
その言葉に雲洛邦は軽く考え込んだ。
泥が秦踏を舞えるのであれば、それに越したことはない。しかしあまりあからさまに彼女を指名すると不審がられるであろうし、かつ現時点で泥の舞の実力が未知数であることを考えると、ここは慎重に返答すべきである。
「なるほど、そういうことか。まあ私のほうとしては誰でもいいが、身元のはっきりした者の方が安心だ。もしもその娘が秦踏を舞えて、こちらの主人が寄越しても構わないというのなら、その娘に来てもらおうか」
「わかりました。話をしておきましょう」
「ああ、それから口止めするまでもないと思うが、左大夫の屋敷で行う宴は、ごく内輪なものだから、他のものには言わないように。私の余興が口伝で先に知られては面白くないからな」
「もちろんでございます。ありがとうございました」
雲洛邦は愛想笑いする番頭に見送られ、店を出た。
その後も街中を歩きながら、いろいろな噂話を集め、夕方に左弦直の屋敷へと戻っていった。