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雲洛邦が中に通されると、湯浴みをして新しい服に着替えさせられた。汚い格好のままで屋敷の中をうろつかれたくないからであろうが、別に断る理由もない。
やがて使用人が彼を呼びに来て、主人の部屋まで案内された。
「わしの名前は知っておると思うが、姓を左、名を弦直という。そちの名は何と申す」
「私は姓を雲、名を洛邦と申します」
改めて互いに名乗ると、前置きをせず左弦直は尋ねてきた。
「そちは先ほど、我が国が危ういと申しておったが、何をもってそう結論したのかな」
「程は小国の細を属国とし、氾江対岸の渠と対立しております。西の慶が渠と友好関係を結んだことで、程は対抗上、中原の大国である賢と組むことになったと聞き及びました」
雲洛邦が最近聞きかじった噂を口にすると、左弦直は頷いた。
「確かにその通りだ。渠の動きをけん制するためにも、賢との同盟が最善との結論に達したのだ」
「そこでございます。賢は虎狼のような国、かの国と結ぶなら、我が国の滅亡は免れられませぬ」
左弦直はそれを聞いて何を大げさな、と鼻で笑った。
「確かに賢の先代は中原諸国を併呑して、そこをほぼ統一してしまった。だが当代の王は温和な人物と聞いておる。危険はあるまい」
しかし雲洛邦はそれを否定した。
「そこが危ういのでございます。確かに今しばらくはよろしいでしょう。しかしまた再び覇気のある王が即位したならどういたしましょう」
「それならば共に渠を撃ち滅ぼせばよい」
「渠を賢と二分できるとお考えですか」
その問いに、左弦直は考え込んだ。そこで雲洛邦は畳み掛けた。
「なるほど、一時的には分け合うかもしれませぬ。しかし渠という緩衝国を失ったなら、次に賢の圧力を受けるのは程でございましょう」
「そうならないための同盟だ」
それを聞いて雲洛邦はせせら笑った。
「程と細との関係が、今度は賢と程で繰り返されるのですな。いやその程度で済めばの話ですが」
「我が国が細のようになる……」
雲洛邦の話に左弦直は青ざめた。小国の細を滅ぼさないのは、今の程国王が軍事にあまり熱心でないからに過ぎない。細は毎年莫大な貢物を程に納め、さらに王子を人質としてここ開砂に置くことで、程の機嫌を損ねないようにしながら、国を保っているのである。
そのような時の事は考えたくもなかった。しかし雲洛邦は容赦しなかった。
「程が国を傾けて財を貢げば、賢もあえて攻め滅ぼすことなどしないだろう、などという夢物語をお信じにはなりますまい。なぜなら、賢は程を併呑したならすべて自分のものになるのですから」
「では渠が滅ぶなら、次は必ず程の番だと?」
「先ほども申しましたように、賢は程との同盟など、塵ほどにも重視しないでしょう。あくまでも渠を滅ぼすまでの一時的なものに過ぎませぬ」
「だが賢と結ばねば、いかようにして我が国は渠に対抗できるというのだ」
左弦直が呻くと、雲洛邦は笑った。
「渠は程にとって脅威とはなりませぬ。かの国との対立は長いですが、どちらも決定力にかけております。慶は南に渓雷族がおりますから、渠と連動して程に大軍を送ることはできませぬ」
それまで脅すような話をしていたのが、一転して楽観的な話になり、左弦直は安堵の息をついた。
「では渠の件は放っておいて構わないと申されますか」
いつの間にか、左弦直の言葉は敬語になっていた。
しかし雲洛邦はそんなことには構わず、彼の安堵をあっけなく打ち砕いた。
「それも得策ではございませぬな」
「な、なぜです」
「賢はすでに南華の富に目を向けております。かの国が大軍をもって攻め寄せたなら、渠は滅びましょう。そのとき、程はいかに振る舞うか、面白いところですな」
面白いどころの話ではない。そうなれば、それこそ賢が程を滅ぼすのに何の躊躇もしないであろう。
「先生――」
とうとう、左弦直は雲洛邦を先生と呼び始めた。これで彼は落ちたも同然である。
「先生は、ではどうしたらよいとお考えでしょう」
「簡単な話です。程も慶と渠の同盟に入ればよいのです」
あっと左弦直は驚いた。本当に簡単な話である。しかし程の朝廷で渠と同盟を組むなどと言う発想を口にするものは誰もいない。
「慶と渠の同盟に我々が参加……」
「左様。先ほども申したように、此度の慶・渠同盟は単なる不戦同盟に過ぎず、互いに背後の不安を抱えているので相手に援軍を送るのは難しい。しかしそこに程が入るなら、渠はもとより慶に対しても渓雷族の側面を突けますから、双方の後顧の憂いがなくなり、より強固な連携が可能になります。そのときは賢も簡単に手出しはできないでしょう」
左弦直は唸った。
雲洛邦の話は明確で論理立っていた。だが正しいからと言ってすぐに実行できるわけではない。程の朝廷には渠に対する敵愾心が強い。彼が渠との同盟を説いたところで、耳を貸すものなどいないだろう。下手をすると自分が失脚する可能性もある。
そして雲洛邦はそのことも見抜いていた。
「まあ、今の程の朝廷でこの話をしたところで、聞くものなどいないでしょう」
「ですが先生は、渠との同盟がなければ我が国は滅びると……」
「その通り。しかしそれは朝廷で論じられることもない。故に程は累卵のごとき危うさであると嘆いたのです」
そこまで聞いたとき、左弦直はがばとひれ伏した。
「先生、なにとぞ我が国のために働いてはくださいませぬか。先生なら、皆を説得できます」
「いえいえ。私のような無官のものが話したところで、今更聞く耳など持ちますまい」
門の前で、自分の言葉を聞くものがいないと大声で泣いていた者と、同一人物とは思えないような淡白さで、雲洛邦は左弦直の申し出を退けた。しかし彼はそんなことに気付きもせず、さらに言い募った。
「で、では私が王に推薦いたします」
「左殿は、皆の嫉妬の矢面に立つ覚悟がおありかな」
表情も変えずに雲洛邦が聞くと、左弦直は唸った。
彼を王に直接推薦し、王が雲洛邦を召し出せば、渠との同盟も決まるかもしれない。しかしそのときは雲洛邦だけでなく、彼を推薦した左弦直も批判と嫉妬の対象になるのは目に見えている。
「ここは慌てずに、あなたの力を増すことです。賢も一年、二年のうちに攻め寄せることはありますまい。朝廷内にも、渠との同盟を胸に秘めているものは必ずおることでしょう。そうした者を味方に付けなさい。その上で一気に事を運ぶのです」
「ですが私一人では、誰が何を考えているか、見当もつきませぬ。どうか先生の知恵をお貸しください。」
「私は程の未来を案じこそすれ、自身を前に出すことは望まぬのですが……」
前半はともかく、後半は彼の本心であった。
「仕方がありませんな。こうしましょう。私はこの家の客になります。左殿はここで宴を開いて程の高官を招待し、私をその場に置いてください。あとは私が判断いたしましょう」
それを聞いて左弦直は喜んだ。
「もちろん、先生が客として私の家に留まっていただけるなら、大助かりです。すぐに宴を手配いたします」
こうして雲洛邦は、まんまと左弦直の食客という立場に納まることに成功した。住む場所にも食事にももう心配することはない。