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 (しん)家の屋敷裏口へ通じる路地に入ったとき、(でい)はぎょっとした。そこに人が倒れていたからである。

 都の外に出たなら、道端によく人が倒れていると聞いたことはあるが、実際に倒れているのを見るのは始めてだった。恐る恐る近づいてみると、先ほどの白髪の老人である。

 ぴくりとも動かないので、死んでいるのではないかと不安になった。

「生きてますか」

 声をかけてみると、突然、目が開いてこちらを睨んだ。

 驚くと同時に、相手が死んではいないことに安心した。しかし老人はすぐに再び目を閉じてしまった。

 (でい)はどうしようかと迷ったが、屋敷の中に入れるわけにはいかなかった。義母は貧しい人に情けをかけられるような人ではない。万一見つかったなら、自分だけではなく、この人にもかえって迷惑をかけるだろう。それに先ほどの剣幕を見ても、この老人が自分のような者の情けを受け入れられるとは思わなかった。

 暫しの間思案すると、(でい)は老人を残して裏口から屋敷へと入っていった。


 (でい)が声をかけた老人は、文字通り死ぬほど腹が減っていた。声を出したくてもその力すら出なかった。

 街の中に入れば、なんとか飯にありつけるのではないか、などと甘い考えを抱いたことを後悔していた。路地に入ったところで、好奇の目で見られるのには変わりない。

 どうせ死ぬなら、もっと世間を騒がせる死に方か、または誰にも気付かれないところでひっそりと死にたかった……。

 そんなことを考えながら、再び意識が遠くなった。


 どのくらいそこにいたか判らないが、ふと食べ物の匂いが漂ってきたことに気付いて、老人は意識を取り戻した。

 ゆっくりと目を開けると、自分がいる場所は変わらないようであったが、すぐそこに、粗末だが膳にきちんと揃えられた料理が置かれていた。

 起き上がり、それを食べようと手を伸ばした時、その膳の前に、先ほどの少女がいることに気付いた。

「お前が持ってきてくれたのか」

 伸ばした手を空中で止めたまま尋ねると、少女は無言で頷いた。

 老人はすべてを射抜くような目つきで、少女を観察した。お世辞にもきれいとはいえない身なりであったが、顔立ちだけは整っている。

「この家の者か」

「はい」

 答えてから、少女は少し躊躇し、そして恐る恐る話し掛けた。

「あなたは道士さまですよね。実はお願いしたいことがあるのですが、私はお金を持っていないので、一食分の食事で申し訳ありませんが、代金の代わりと思いまして」

 おそらくここの屋敷の下働きの娘であろう。そう判断した老人は、とりあえずその少女が持ってきた食事を頂戴することにした。

 黙々と食べ続ける老人の前で、少女も黙って食べ終えるのを待ち続けていた。

 無言のうちに食べ終えた老人は、膳を彼女に返すと、改めて自己紹介をした。

「私は姓を(うん)、名を洛邦(らくほう)という。そなたの言うとおり、私は全土を旅する道士だ」

 少女――(でい)は、以前も道士を見たことがあったが、こんなに汚くはなかった、と思った。しかしそうは口にせず、別のことを尋ねた。

「道士様がなぜ、このようなところに倒れておられたのですか」

 老人は、うむ、とひとつ頷いてから答えた。

「今、私は世の真理を追究していたのだ。つまり人は死に近づくとどうなるか、ということだ」

 雲洛邦(うんらくほう)と名乗った男は、思いつくままに適当なことを話し始めた。ただし彼自身にはこの時、別にこの娘を騙そうという気はさらさらなかった。長年の間、口先だけで生きてきたので、そうすることが染み付いているだけである。

 そして目の前の娘は、彼の話に対して、ただ頷くだけであった。

 雲洛邦(うんらくほう)は少女の様子から、彼女が自分の嘘に気付いていると判ったが、構うことなく彼女に話を振った。

「さて。粗末とはいえ食事を頂戴したからには、礼の一つもしないと言うわけにもいかんな。娘よ、名はなんという」

「姓を(しん)、名を(でい)といいます」

「珍しい名だな。さては燭雲(しょくうん)の出身か?」

「母がそうですが……なぜわかったのですか」

「娘にそのような悪名を付けるのは、燭雲(しょくうん)の古い風習だからな。で、都へは母親と一緒に働きに来たのか」

 雲洛邦(うんらくほう)がそう言うと、(でい)は寂しそうに笑った。

「そうではありません。私はこの屋敷の主人の長女です」

 (でい)は事実を言った。しかし雲洛邦(うんらくほう)はすぐには信じなかった。

「見栄を張らなくても良い。これだけの屋敷の娘が、そんな粗末な身なりをしているはずはなかろう」

「いいえ。私の母は、父の最初の妻だったのですが、私が幼いころに亡くなり、今は別の女性が父の妻なのです」

 雲洛邦(うんらくほう)はそれを聞くと、そういう事情もあるかと思い直した。確かに衣服は粗末とはいえ、物腰や話し方は、女中のそれではなかった。どちらかといえば、立ち居振る舞いに上品さがあり、礼儀作法や舞踏などを本格的に学んだことがあると思わせた。

 そう得心すると、彼女の言葉を信じる気になった。そして彼はさらに尋ねた。

「それで、そなたの望とはなんだ」

「望みですか」

 一瞬、(でい)はなんの事かと思ったが、すぐに自分が最初にそういったことを思い出した。

 実を言えば、彼女は別に老人に対して望みがあったわけではない。ただ、彼が食事を食べやすいように、そういう体裁をとっただけである。

「そうだ。何でも言ってみなさい」

 そう促されて、(でい)は改めて雲洛邦(うんらくほう)の様子を観察した。ここで自分が何かほんのささやかな願いを頼んだとしても、それを叶えられる力を持っているとは思えなかった。

 それならいっそ、最初から夢のような願いをしたほうが、この老人に気を遣わせないだろう。

「……蒼楼の夢です」

 蒼楼とは、時代が下ると遊郭の俗称となったが、この時代においては、天子の後宮の佳名であった。つまり天子の后になりたいという願いをしたのである。

 そのような大それた願いを言ったことで、怒って立ち去るであろうと思ったが、雲洛邦(うんらくほう)は別に怒りもせず、頷いた。

「若いのだから、そのくらいの大きな望みを持たねばいけない。よし、儂がその蒼楼の夢を叶えてやることとしよう」

 そういって立ち上がった雲洛邦(うんらくほう)は、(でい)に一礼して立ち去っていった。

 (でい)のほうは、雲洛邦(うんらくほう)が立ち去る姿を唖然として見送ったが、すぐに我に返り、残った食器を持って屋敷に入った。

 ”蒼楼の夢を叶えてやろう”

 その言葉を反復し、思わず吹き出した。彼女はその話を本気にするほど世間知らずではなかったが、かといって、頭から無視できるほど大人でもなかった。自分が助けた老人が、いつか国王の使者として自分を迎えに来る。なかなか楽しい夢ではないか。

 (でい)は老人の話を自分の空想の世界に織り込むことにした。


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