終章
左弦直との話し合いが終わり、雲洛邦は自室へと戻った。
そして椅子に座り灯を燈すと、机に向かって書を認め始める。暫くの間、静かな中に紙の上を筆が動く音だけがかすかにしていた。
すると、机の上の灯が不意にゆらりと揺らめいた。
「きたか」
彼は自分の背後の気配に、そう声をかけた。
「今日の分でございます」
相手は耳を澄ませば辛うじて聞こえる程度の小さな声で返事をすると、懐から手紙を取り出して彼に手渡した。
雲洛邦は、自分が関史軒の手の者に見張られていることを自覚していた。そのため、ここ暫くの間は、できるだけ兼敏や高休舛、孫安韓といった者たちと外で会うことを控えることにしていた。
とはいえ、大事なときでもあり、彼らと全く連絡を取らずにいるわけにもいかない。しかしこの点で彼は全く心配していなかった。彼らは裏の世界の住人であり、いろいろな才能を持つ者とつながりがあるからである。
そして今、彼の前にいるその男も、そうした者の一人であった。
雲洛邦は何も言わず、その手紙を受け取る。その日は兼敏からのものであった。
そもそもこの男が来たのは、孫安韓からの、辛家の友夫人が疑いを持っている可能性について書いた手紙を持ってきたのが最初であった。そこには泥がひと月ほど戻らないことと、その間に友夫人が黙っているはずはないこと、そうなれば本当に泥を所望しているのが大夫ではなく、国王であることも探り出されるだろうということが記されていた。
そこで雲洛邦は、それに対して打つ手を手紙に認め、男に持ち帰らせたのである。
今回、兼敏から届いた手紙には、まずその策の経過について記されていた。
その内容に満足した彼は、孫安韓宛の手紙で伝えたとおり、二、三日中に自分がここを去って慶へ向かうこと、代わりにこの屋敷に高休舛を寄越して欲しいことを記した。
それを男に手渡すと、来たときと同じように静かに部屋を出て行った。おそらく屋敷の者は誰もこの男が来ていたことを気付きもしないだろう。
雲洛邦は兼敏への手紙を出した翌々日には、左弦直の屋敷を出発した。
左弦直はさすがに早すぎると止めようとしたが、他国への働きかけは早いほうが良いと言われては、彼もそれ以上留めることはできなかった。
「先日もお話したように、私の代わりのものが、ここに来ることになっております。後のことはそのものにお尋ねなさい」
左弦直だけに聞こえるよう、そう囁くと、あとは振り向きもせずに立ち去ってしまった。
兼敏も高休舛も、彼を見送りに来ることはなかったが、それでも彼らの意を受けた別の男が彼の見張りとして、さり気なく合流することになっていた。とはいえ、その男の名前は今のところ雲洛邦も知らされてはいなかった。
彼は左弦直のつけてくれた李班という若い従者と共に港へと向かい、すぐに上流の麦蓮行きの船へ乗り込んだ。その男も同じ船に乗っているはずであり、そのうちに向こうから接触してくるはずであった。
しかし船室で待っていてもそれらしい男が近づいてくることもなく、船は静かに川面を滑り出した。
それでも雲洛邦は気にしなかった。結局のところその男のことは兼敏の差し金であり、彼が望んでついてきて欲しいといったわけではないからである。
やがて夕刻が近づき、船は武湛の港へと入った。この時代、基本的に一般の船は昼間走行し、夜は港へ停泊する。乗客も船を降りて港にある宿屋に泊まる。
雲洛邦も船を下りると、手ごろな宿屋で簡単な食事を取り、すぐに部屋へと入って寝ようとしたが、その日、彼は珍しく眠ることが出来なった。
そこで彼は宿屋を抜け出して外の風に当たることとした。
丁度新月にあたるその日は、星が降るように綺麗な夜であった。ぶらぶらと桟橋のほうへ近づくと、氾江もいつも以上に穏やかである。
暫くその様子を眺めていた雲洛邦は、思わず苦笑した。
「結局のところ、俺は長いこといじけていただけだったのか」
若い頃は兼敏や比禁といった友人達と共に、国の高官目指して切磋琢磨したこともある。しかし彼らが慶、渠との三国同盟案を提出したことが、今の関史軒の父親にあたる当時の丞相の勘にさわり、彼らは程の朝廷を追い出されることとなったのである。
それ以来、彼は自暴自棄となり、詐欺師として自らの才能を喰い散らかして生きてきた。政治向きのことには興味がない振りをし、ひたすら避けてもきた。
それが、いよいよ野垂れ死ぬかと思ったときに、泥に哀れまれたことで、彼は急に自分に腹が立ってきたのである。
“おれはこんな惨めそうな娘にまで哀れまれねばならないのか”
そう考えたとき、たかが小娘に哀れまれたまま死ぬわけにはいかない、という奇妙な自尊心が芽生えた。それゆえに、それまでは避けてきた政治の話に首を突っ込んだのである。
そして彼は、自分が思っていた以上に、国々を引っ掻き回すというこの仕事を楽しんでいることに気付いたのである。
実際、彼の若い頃の夢は、舌先三寸で国々を翻弄することであった。その夢がこの年になって実現しようとしているゆえに、興奮して眠れなくなっているというわけである。
すでに彼の頭の中には、左弦直や兼敏にも明かしていない、壮大な外交策の概略が練られていた。彼らには慶と渠に働きかけることしか話していない。しかし彼らの危機感を募らせるには、さらにその周りを動かす必要がある。
彼はまず慶のさらに西にある奉へと向かい、かの国に賢との同盟を説くつもりであった。元々、奉は慶と同盟を結んでいたが、最近になって両者の関係が疎遠になりつつある。そこで奉が賢と同盟を結ぶことになれば、慶は周りをすべて敵に囲まれることになる。
さらに彼はその足で賢にも向かうつもりであった。
賢の実力者である回丞相は、現時点では南華出兵を行う気配はない。しかしそのことは賢の先帝時代の覇業を知るものにとっては、不平の胤であるはずである。そこを説いて、不満の解消のために、将来的な出兵への伏線として、回丞相に屯田を勧めるのである。
内政を重視している回丞相も、国内の好戦派に将来の出兵に含みを持たせつつ、国力を上げることの出来る屯田であれば、採用する可能性は高いと彼は踏んでいた。
その上で渠と慶を巡り、国外の状況の危機感をあおることで、程を含めた三国同盟案を成立させようと目論んでいたのである。
もちろん、この概略はすべてがうまく行った場合の話であり、どこかで破綻する可能性のほうが高い。更にいえば、一番の問題は程が三国同盟を受け入れる可能性が一番低いという問題がある。
これは先に関史軒に語った言葉どおりの理由であった。王にはその気はないであろうというのが、彼の見解だからである。
程という国の王は専制君主ではなく、国内の実力者たちの盟主といったほうがよい立場にいる。ゆえに王一人が反対しても、他の大臣すべてが賛成であれば、自分の意見を押し通すことは難しい。
しかし今回の場合は他の大臣の多くも自らの立場を明確にしていない。このような時のために王がいるのであり、さら言うなら、王が三国同盟に反対するなら、丞相は必ず支持すであろうし、そうなれば三国同盟の話が流れてしまうのは目に見えていた。
しかし雲洛邦はそれでも構わなかった。国際舞台の上で自分の腕を思う存分に振るう機会がもてたというだけでも、彼は満足であった。成し遂げようとしていることの困難さも、どこまでやれるかを試す良い機会だと思えた。
そんなことを自問自答している時、後ろから声を掛けられた。
「洛邦殿、とお見受けする」
雲洛邦は振り向きもせずに聞き返した。
「敏殿の手の者ですか」
「いかにも」
そう答えた相手は、しかし自分の名前を名乗ることもせずに、黙ったままであった。
「一緒の船に乗ったのかと思っていましたが、この街で待っていたのですか」
気分の高揚していた雲洛邦は、相手の無愛想さを気にすることもせずに尋ねたが、全く違う返事が返ってきた。
「細の者があんたの命を狙っていたから、片付けておいた」
「ふうむ、細にとっては程が渠や慶と手を組んで安定するのは望ましいことではないでしょうからね。とはいえ、これほど早く手を打ってくるとはさすがと言いますか」
そう言ってから振り向いたとき、雲洛邦は初めて相手の殺気に気付いた。
「まだ、敵がいるのですか」
「敵はいない。目の前に仇がいるだけだ」
そういうと男は雲洛邦を刀で一突きした。
「お前は覚えていないだろうが、俺の親はお前に騙されたせいで店を追われ、一家は離散せざるを得なくなったのだ。これはその礼だ」
そこまで言うと、刀を抜き、そのまま彼を後ろの河に突き落とした。
従者の李班が左大夫の屋敷に戻ってきて、雲洛邦が行方をくらましたと報告したのは、それから5日後のことだった。
主人公が退場したので終章となっていますが、後日談があと2話あります。




