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 船を降りた老人は、開砂(かいさ)の大通りから外れた中通りを歩いていた。

 中通りといっても小さな店が軒を連ね、道が狭い分大通りよりも混雑している。

 一見したところ白髪白鬚の老人は山水画に描かれる仙人のようにも見えるが、それにしては顔つきがやけに荒んでおり、服もぼろぼろであった。

 そんなどこか超然とした雰囲気で歩いている老人に気を止める者など、誰もいない。いや、むしろ避けている様子であった。しかしそんなことはいつものことであり、老人は気にもしていなかった。

 これでも若いころには目標があり、前途に希望を見、何物も恐れずに邁進できると考えた日々もあった。しかし夢が砕け散った日以来、彼は人生を捨てた。

 だいそれた目的などを持つこともなく、ただ自分の才能を食い散らかし、酒に溺れ、舌先三寸で人を騙し、あちこちの街を放浪して歩き、度々死ぬ目にもあった。それでも幸か不幸か、実際に死ぬところまではいかず、ただ徒に歳を重ねてきた。

 別に生に対する執着があるわけではない。ただ死ぬのも億劫だっただけである。

 しかしその彼も相手がいなければ、食べ物をせしめることも出来ない。開砂(かいさ)の街に入ったときには、丸二日間何も食べていなかった。

 彼が疲労のために、ある店の脇に座り込むと、すぐにその店の主人が出てきた。

「こんなところで休まれちゃ困る。これをやるから、どっかにいってくれ」

 主人がそう言って、小銭を老人の前に数枚投げ出し、店に戻ろうとすると、彼の後頭部にその小銭が帰ってきた。

「いってえ!こいつ!」

 怒った主人が振り向くと、老人が彼の前に建っていた。

「そなたの落とした小銭だ。返しておく」

 そういい残し、老人はそこを立ち去った。

 人生を捨てたという彼も、自尊心は捨てていなかった。つまり物乞いをしてまで命を繋ごうと思ったことはなく、このときもその気はさらさらなかったのである。

 しかしすでに立っていることも覚束なくなっていた彼は、雑踏の中で倒れてぼろ雑巾のように踏まれるよりはと、人気のない裏路地の方へ足を向けた。



 丁度そこを通りかかり、起きたことを一通り見ていた(でい)は、一つ溜め息をついてから再び歩き出した。

 彼女は決して不器量というわけではかったが、かといって人目を引くほどの美人というわけでもなく、また来ている衣服も辛うじて彼女のいる屋敷の品位を損なわない程度のものだったので、街を歩いていてもほとんど目立たず、まれに彼女に気付くものがいても、ひそひそと噂話をするだけで、あえて声をかける者もいなかった。

 (りん)家の屋敷でも、裏口を叩いて用件を済ませる間、彼女に個人的に関心を払うものなど誰もいない。

『人はこうも変わるものなのだろうか……』

 (でい)は心の中でつぶやいた。

 ほんの三年前までは、都でも一、二を争う大店である(しん)家の一人娘だった彼女を、皆が持て囃した。しかし実の母が亡くなり、父親の辛定堅(しんていけん)が妾だった女性を家の中に入れたときから、状況は変化していった。

 首尾よく辛家の後妻に納まった友安礼(ゆうあんれい)は、すでに辛定堅(しんていけん)の子供を産んでいた。娘が二人に息子がひとりの計三人である。

 友安礼(ゆうあんれい)は当然の如く、自分の子供たちだけを溺愛した。また父親もこれまで公に出来なかった子供たちを可愛がり、自然と(でい)に対する関心は薄まっていった。

 そうなると人々も、友安礼(ゆうあんれい)の子供たちをちやほやし始め、反対に(でい)に対する態度はぞんざいなものになっていった。

 それでも父親が生きているうちはまだ良かったが、昨年、父親が亡くなり、友安礼(ゆうあんれい)(しん)家の全てを取り仕切るようになると、(でい)は完全に使用人の一人となってしまい、今日に至っているのである。

 しかし彼女は、自分でも意外に思ったが、さほど自分を不幸だとは感じていなかった。少なくとも住む家もあり、食事も仕事をきちんとこなしていれば、死なない程度にはありつける。

 父が再婚したときから、この日のあることを予想していたとも言える。しかしそれよりも、昔、おばあさんから戦乱の続く中原では住む家もなく、食べ物も碌にない人々が大勢いる、という話を聞いたせいかもしれない。飢えをしのぐために親が子を煮て食べるという話は、今思い返しても吐き気がする。

 そしていま見た老人の姿は、そのような話を思い起こさせるのに十分であった。自分はそこまで酷い状態じゃない、という思いが、今の境遇を受け入れる助けになっているのは、おそらく気のせいではないだろう。

 それでもやはり寂しさを感じることはある。ありえないと分かっていても、いつか再び自分の境遇が好転する日を夢見ることもある。

 しかし虐げられたものにとって、夢は唯一許された自由ではないか?

 (でい)は家路を歩きながら、童謡を口ずさんだ。そしてその歌詞にあるように、王の賓妃として蒼楼に迎えられる自分を思い描きながら、気を紛らわさせた。


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