10
左弦直という人は、大夫という高位にありながら、出自のよさから来る出世欲の薄さのため、朝廷では目立たない人物であった。
その目立たなかった人が、最近やたらと声をかけ、自分の屋敷で行う宴に人を誘いだしたのだから、人目につくのは当然であった。そしてその話が左弦直も、雲洛邦すらも思わぬ展開を見せ始めていた。
夜遅くに帰ってきた左弦直は、雲洛邦が起きていることを確かめるとすぐに彼の部屋へと向かった。
「先生、大変なことになりました」
この時点で雲洛邦は、左弦直にとって大変なことであっても、たいしたことではないと高をくくっていた。
しかし次に彼の口から出た言葉は、まさに驚くべきことであった。
「私の屋敷で行われる宴の噂が主上の耳に入り、主上もお忍びで参加されることになったのです」
「主上が?それは間違いないのですか」
「はい。私が直接、主上からお言葉を賜りました」
これは雲洛邦にとっても予想外であった。しかし内心の驚きは表に出さず、改めてその理由を尋ねた。
「私が先生のおっしゃったとおり、親睦のための宴を開く、と言ったのを、誰かが主上に伝えたようです。常々、臣下が反目しあうことに心を痛めておられた折でもあり、そのように反目しあうものが同じ席につくのは喜ばしく、自分も参加したいということでした」
「そうですか。主上もお越しになられるなら、うまくいけば主上ご自身の意向も伺えるかもしれません。結構ではありませんか」
実際、雲洛邦にとっては願ってもないことである。
「あくまでもこの宴は親睦のためのものです。主上が大夫の屋敷を訪れたとなれば、大夫の株も上がりましょう。それに一応、お忍びなのですから、あまり気負うこともありますまい」
そう左弦直をおだてると、彼もその気になった。それまでは主上を自宅に迎えるということで動転していたが、むしろそのことを誇りに思えるようになったのである。
「そうですな。では私は主上をお迎えしても恥ずかしくない宴を準備します」
左弦直は再び慌しく彼の部屋を出て行った。
一方、雲洛邦も事態の急転をどう生かすか、思案にふけった。
翌々日、雲洛邦は例の茶屋へと向かった。
いつもの席には既に高休舛がいた。
「老人を待たせず、先に来ているとは感心ですね」
雲洛邦の言葉に、彼は鼻を鳴らした。
「お前の来るのが遅いだけだ」
「わたしもいろいろと忙しいのですよ」
「忙しいのはお前だけじゃない」
「それはそうと、私の計画に少々の変更が生じました」
「三国同盟はやっぱり無理なのだろう」
その声に少し落胆したような印象を感じ、雲洛邦はおや、と思った。
「別に三国同盟の件は私にはどうでもよいのですよ。ここだけの話ですが、実は左弦直の屋敷に主上もいらっしゃることになりました」
「王が?」
「ええ。ですから、うまくいけば左弦直の宴の時点で、泥さんの蒼楼夢が叶うかもしれません」
「それは……」
高休舛が口ごもるのを見て、さらに不審を感じた瞬間、後ろから声を掛けるものがいた。
「その程度のことで三国同盟を放り出してもらっては困りますね」
その声に振り向くと、そこに自分と同じくらいの老人が立っていた。声に聞き覚えがあったが、誰だか思い出せなかった。
「お前さん、以前にあったことあったかな」
「耄碌したね、洛邦。科挙同期の敏だよ」
そう言われてやっと思い出すことができた。
「おおそうだ。お前も老けたなあ。分からなかったよ。何年ぶりかな」
「かれこれ三十年ぶりかな。だがそんなことはどうでも良い。お前がちんけな詐欺師から足を洗って、大きな事をしようとしていると聞いたからわざわざ会いに来ましたよ」
「それは残念だね。私は別に大きな事をしようとは思っていないよ。たまたま今手がけていた仕事をやるには、多少、国を引っ掻き回す必要があっただけさ」
「だがやりかけた仕事をそのままにされては困る」
「私は困らない」
「休舛は高大人の部下です。その部下を使っておいて、こちらへの見返りなしというのはおかしいでしょう」
「私は彼の妹の夢を叶えてやるといっただけです。別に協力を強制したわけじゃあない」
「そんな言い逃れは聞けないな」
「言い逃れではないけどね」
「どちらにしろ、私たちの三国同盟案を使う以上、その責任は取ってもらいたいものです」
その言葉を聞いて雲洛邦は不機嫌そうに頭を掻いた。
「確かに最初にこの案を出したのはお前さんだったか。使用料位は支払うのが礼儀かな」
「話の判る男で助かるよ」
「だがそういうことなら、休舛はしばらく私のほうで使わせてもらいますよ。なにしろ本気で三国同盟を成立させようと言うのですから」
「構いませんよ」
雲洛邦はため息をついた。
「とうとうこんな立場に追い詰められてしまいました。休舛さん、恨みますよ」
「私は高大人の配下だからな」
「まあいいでしょう。どうせ宴の席だけで泥さんの夢を叶えるのは、私も多少、不本意なところがありましたから」
「やはり国家を相手に大きな仕事をしてみたかったというのでしょう」
兼敏がそう聞くと、雲洛邦は首を振った。
「今のまま、泥さんが主上の後宮に入ったなら、辛家が外戚になります。彼らは私の計画とは関係ありませんから、そんなうまい汁は吸わせたくはないということです」
「なるほど、それはその通りだ」
雲洛邦の意見に高休舛が頷いた。
結局、雲洛邦は兼敏の言うとおりに三国同盟を成立させる方向で動くことを約束した。
「ところで休舛さん。泥さんとひそかに会う方法はありませんかね」
「ないことはないが、何のためだ」
「いえね。泥さんが主上の前で舞う事になるなら、それを前提とした入れ知恵をこっそりしたいと思いましてね」
この男はあくまでも「泥のため」という前提で動くつもりなのか。そう思い、高休舛の方がかえって驚いた。彼としても妹をあの家から助け出したいと言う思いはあるが、そのことと三国同盟はどうも結びつかない。
「ひそかに、ということであれば二、三日、時間が必要になる。準備が出来たらこちらからお前に連絡しよう」
「お願いしますよ。なんだか今日は疲れました。明日、もう一度ここで会うことにしましょう」
そういい残し、雲洛邦はさっさと店を出てしまった。
「あの男、本当に信頼できるのでしょうか」
どうしても高休舛には彼の本心が掴めなかった。
「信頼はしないほうがいいな。どこで何をするか分からん。だが少なくとも最後まで楽しめそうだ」
兼敏のその顔は、本当に楽しそうであった。