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次の日、雲洛邦が再び茶屋を訪れて、昨日と同じ一番奥の衝立の向こうの席をのぞくと、すでに高休舛がそこにいた。しかし雲洛邦は別に驚きもせず彼の前に座った。
「一応確認しますが、ここにいるということは私に力を貸していただけると思ってよいのですね」
「一応な。但し俺はあくまでも高親分の舎弟だ。お前と協力するのは、妹の件だけだということを忘れるな」
「もちろんその通りです。私だって別に部下が欲しいわけではありませんからね。それで私からの頼みと言うのは……」
雲洛邦はすぐに本題に入ろうとしたが、それを高休舛は遮った。
「そのまえにお前の計画とやらを聞きたい。どうやって泥を蒼楼に送り込むのだ」
「最初の予定を大雑把に言いますと、辛家との繋がりを作ったうえで、泥さんを合法的に左大夫に引き取らせます。さらに大夫の程における地位を押し上げて、その上で頃合を見て大夫の養女として王の後宮に入れる、という流れになるでしょう。舞に来ることになったおかげで、左大夫が引き取る段階まではかなり楽になりそうですがね」
「どうやって、左大夫の地位を押し上げるのだ?昨日、計画は動き出しているといったが、それが関係しているのだろう」
「ええ。左大夫に渠、慶との三国同盟を勧めたのです。彼はすっかりその気になって、他の協力者を探すために、彼の屋敷で宴が開かれるというわけです」
それを聞いて高休舛は唖然とした。
「程と渠の同盟なんて、そんなことは無理だ。この二国は建国のときからの敵同士だ。それに程は賢との同盟を進めていると聞いているが」
それを聞いて雲洛邦は笑った。
「もちろんその通りです。無理なことをやり遂げる。だからこそ功績も大きい。多少の無茶も通せるようになるということです」
しかし高休舛は首を振った。
「やはりお前には協力できん。そんな無理な計画に乗っても泥を幸せに出来るとは思えん」
彼の言葉に、雲洛邦の方も呆れたような声を上げた。
「やれやれ、お前さんはまだ若いのに、ずいぶんと頭が固いですね。いいですか、渠を激しく憎んでいるのは、少なくとも程では一部の高官だけですよ。庶民は戦争を望んでいませんし、建国以前の経緯なんてどうでもいいんです。むしろ同盟によって南華全体が安定することのほうが、よほど助かるわけですよ」
「俺たちにとっては、政治的な安定が必ずしも良いことではないのを忘れるなよ」
「分かっています。しかし統一されているよりも幾つかの国に分かれているほうが、ましでしょう」
「どういう意味だ」
「この同盟の胆の部分の話です。三国同盟による安定は、中原の賢に対抗するための、唯一の手段だと言うことです。これがなければ、南華の国々は個別に撃破されて、賢による強力な統一国家が登場するでしょう。どうです、これでも私の話を夢物語と退けますか」
「ふん。口先では何とでもいえる。昨日の話では、私の協力がなければ五分五分と言っていたが、私が協力したところで何になると言うのだ」
高休舛は馬鹿にした様子で雲洛邦に聞いたが、雲洛邦は別に怒りはしなかった。むしろ内心では喜んでいた。
――やはりこの男は使える。昨日の私の話をよく聞いて、もう実践している。私の話をすばやく判断し、その価値を認めながらも、そのそぶりも見せずに、自分が何をすべきかについて、私に聞いてきている。
「お前さんには、とりあえずこの国を含む各国の情報を仕入れてもらいたいのです」
「各国の情報?」
「そうです。今のところ私は、左大夫からの情報のほかは、都の中を歩き回って人々が噂する話の中身から推測するしか、情報を仕入れる先がありません。しかし外交問題を扱う以上、他の国の知識も仕入れなくてはなりません。この点、休舛さんなら、もっと広く確実な情報を知っているでしょう」
「お前の計画のために情報を提供しろ、というわけか」
「もちろんそれだけではありません。ですがそれはまた追々お願いします。ああそれから」
そういいながら、雲洛邦は懐から古い手紙らしきものを差し出した。
「これをあなたに預けておきます」
「なんだこれは?」
いわくありげな書簡を受け取り、高休舛は怪訝な顔をした。
「中身を見ても構いませんが、私が死ぬまでは世間には出さないでくださいね」
高休舛は書簡を開いて中身を確認した。そして読んでいるうちに、顔面が蒼白になった。
「こ、この手紙は本物なのかっ!」
「さあて、詐欺師の持っているものだから何ともいえませんな」
雲洛邦は相変わらず飄々としており、その表情から本心を伺うのは難しかった。
暫く高休舛は彼を睨み続けたが、やがて諦めて書簡を懐にしまった。
「これは俺が責任を持って預かる。それは約束しよう」
「それではこれで契約成立ですね。明後日、もう一度ここに来ますので、とりあえずはその時に、この国の大夫以上の官にいる人の情報をできるだけ多く教えてください。どんな細かい話でも結構です。それでは今日はこれで」
そういうと、雲洛邦は高休舛を残して店を出て行った。
高休舛が席に座ったまま暫くそこにいると、衝立の向こうから一人の老人が出てきて、彼の前に座った。年齢は雲洛邦と同じくらいであるが、彼にはない端然としたところがある。高休舛はその老人が雲洛邦との会話中、ずっとそこにいたことを知っていた。と、言うよりも、彼が頭を下げて来てもらっていたのである。
その老人の名前は兼敏と言い、高遂の元で食客となっている人物であった。博識であったが、それを誇ることはせず、高遂からも信頼されていた。
「今の話はどうお考えになりますか」
雲洛邦に対するのとは打って変わり、高休舛は丁寧な言葉遣いで聞いた。
「うむ、さすがは雲洛邦、老いたりとはいえ、その才は衰えていないようだな」
兼敏は雲洛邦のことを昔から知っているような口ぶりで答えた。しかし高休舛はそのことには触れず、彼の才というのが詐欺師としてのそれかと考えた。
「ではやはり口からでまかせですか」
「いやそういう意味ではない。なぜならあの男の言う三国同盟、あれは出まかせとはいいきれないからだ。少なくとも十年前なら、確実に意味があった」
「十年前なら?」
高休舛はその意味を考え、賢がそれまで渠の領地であった莱江以北の地を奪ったのが丁度十年前であることに思い当たった。
「お分かりかな」
兼敏は彼を試すように尋ねた。
「十年前に渠は莱江以北の地を失いました。しかしそのことと三国同盟がどう関係するかは、微才の私には分かりかねます」
「莱江は渠を縦断し、氾江へと注ぐ。賢はいつでも渠へと大軍を送ることができるようになったのだ」
それを聞いてやっと高休舛も兼敏の言わんとすることを理解した。
つまり今の状態では、たとえ三国同盟がなったとしても、賢が渠を掠め取るのを阻止するのは難しいと言うことである。そして今の渠が賢の領土になれば、慶と程は分断され、個別に撃破されるだけである。
「それではあの男の言うことはやはり信用できないと言うことでは」
「そこが難しい。今の賢は十年前のときとは代が変わり、腑抜けが君主に納まっている。すぐに渠の攻略に動くことはない。今、三国同盟が成立するなら、渠が全軍を挙げて元の領土を回復できるかもしれん。それなら十分、賢にも対抗できる」
「そうですか。では私はどうしたらよろしいでしょうか」
「少なくとも、あの男のやろうとしていることは、意味がないわけではない。今は言うとおりに動いてやれ。高大人には私から伝えておこう」
「ありがとうございます、兼先生」
「そういえば休舛、あの男から何かを受け取っていたな。何を受け取った」
「これです」
高休舛は雲洛邦から渡された書簡を懐から取り出し、兼敏に手渡した。
書簡を開いて一読した兼敏は、ため息をついて高休舛にそれを返した。
「どうやら雲殿は本気のようだ。死ぬまでは世間に出さぬように言ったのは、逆を言えばもしも志半ばで死ぬことがあれば、それを使えということだ。これはまた彼にとって、切り札ともなる」
「それでは、これは本物ですか」
「私が見る限り、それは本物だ」
それを聞いて、高休舛は雲洛邦に対する見方を改めた。少なくともこの書簡を自分に託したのは、彼が自分を信頼していることの証と言える。その信頼には応えなければなるまい。