鏡界と機人
「この世界は、鏡界と呼ばれておる」
荒野を歩くその最中、マフツはそんなことを輝に明かした。
「きょうかい……?」
「『鏡』、の、世『界』と書いて鏡界――おい、儂が考えたわけではないのじゃから、安直だなどとコキ下ろすでないぞ」
そんなこと思ってないよ――と、困ったように輝は苦笑して見せる。
実際、馬鹿にするような意図は輝には無い。状況を把握することにすら苦慮しているというのに、説明してくれる相手を無碍になどしていいわけがなかった。
「あの化け物は?」
「儂もよくは知らん。だが、あれがこの世界を滅ぼした。生物という生物を食らい尽くしてな」
忌々しげに、マフツは荒野を睥睨する。
その言葉は即ち、この光景を作り出したのが、先にマフツが討ち倒した黒点の怪物であることを示していた。
「口が無いけど……」
「何を些末なことを気にしておるか」
「ご、ごめんなさい」
謝りながら、輝は先程見た黒い怪物を思い出す。
黒い、アメーバ質の流体とも呼ぶべき存在だった。五メートルを超える球体という大質量にも関わらず、当然のように宙に浮くという非常識さ。唐突に目玉が「生えて」くるという異質さ。そして何よりも、その異常な存在を瞬く間に葬り去った、マフツの存在――。
成程、確かに些細なことだ。納得したように、輝は軽く頷いた。
「あの、マフツは何でここに……? 僕も、何でこんなところに……」
「鏡界から出たら説明しよう。今は早くゼロポイントへ向かわねばならん」
「……そのゼロポイントってところに行ったら、元の世界に戻れるの?」
「うむ。歩いてもすぐの場所じゃ。ま、しばし待て」
そうして、二人は無言のままに歩いていく。
マフツの言う「ゼロポイント」の意味は輝には分からなかったが、それでもこのまま進めば元の世界に戻ることができるという保障を貰うことができ、輝は僅かに安心を得られていた。
怪物が闊歩する死の荒野において、マフツの存在は希望の光に等しい。少なくとも、この状況について詳しいことだけは確かである。その彼女がすぐに、と明言したならばその通りなのだろう、と輝は確信を持っていた。
「…………」
「…………」
言葉も交わさぬままに黙々と歩き続ける。
そうしていて、どれだけの時間が過ぎたか。一定のペースを崩すことなく歩き続けているうちに、輝は視界の端に建築物の残骸らしきものを捉えた。
「ふむ、見えてきたな」
どうやら、その残骸こそがマフツの言うゼロポイントというものらしい。その言葉を聞き、輝は安堵の溜息をつく。
「急ぐぞ。いずれ怪物共が嗅ぎつけてくる。その前に――」
「…………?」
促されるまま、足を前に向ける、と。その瞬間、輝は顔をしかめた。
砂を踏む音と風の吹きつける音だけが響く荒野の中で、しかし――別種の音が、いくつか。
「……あれ?」
「どうした、輝。何かあったか?」
「あ、う、うん。今何か、音が聞こえて」
「音じゃと?」
訝しげに周囲を見回すマフツに、しかし輝の視線は正面だけを捉えている。
――――電気が発生する音。
――――鉄同士の、擦れ合うような音。
――――巨大な「何か」が、荒野を踏みしめる音。
正しく、それを認識できたのは輝だけだった。
マフツは、超常の現象を知るからこそ、その存在に疑問を抱いていた。
故に、直後の反応は異なって当然である。だが、二人が同時に漏らした言葉は、これ以上ないほどに「それ」を正しく捉えていた。
「「ロボット――――!?」」
人型の、巨大ロボット――――。
その存在を示すならば、それ以外の言葉は無いだろう。
先程の怪物の倍はあろうかという巨躯。銀を主体とした色彩。右腕には、その巨躯に見合うサイズを持つ――後付けで接続されたものと思しき、謎のノズルが見て取れた。
「何、あれ」
「し、知らん! 何じゃ!? 鏡界は元より、外にもあんなものがあるなどという話は聞いたことが無い!」
狼狽するマフツとは対照的に、輝はロボットを見据えたまま、ごく冷静に思考を巡らす。
本来、人型ロボットというのは元の世界においては眉唾物として語られる存在だ。開発できたとしても、それは戦力上他の兵器よりも劣る存在と謳われていた。だとするなら、そもそもそのようなものが存在すること、それ自体がおかしな話ではある。
しかし、技術的に不可能ではない。潤沢な予算と、重量面や構造面の問題を取り払うだけの設備、資材があるならできないわけではないのだ。
――――じゃあ、あれは元の世界のものだ。
鏡界について詳しいマフツが知らないということは、つまりは元の世界のものに間違いない。その事実を認識し、却って輝の頭は冷静になっていた。
先程は、混乱していた自分をマフツが助けたのだから、今度は自分が――と、輝は僅かに決意を固める。
「!」
にわかに、ロボットの頭部から光が発せられた。
強化レンズに覆われた、アイセンサーが稼働している証拠だった。その理由のほどは二人には窺い知れなかったが――直後、ロボットの腕が、そこに備え付けられたノズルが向けられるその意味だけは、言葉が無くとも理解できていた。
――――純粋な敵意を。
「くっ!」
その唐突な行動に、一瞬、マフツの反応が遅れた。
腕に灯る光は、ロボットの行動に対応するためのものだろう。先程、輝を助ける際に使用した剣を再び現出するためか――あるいは、もっと別の方法か。いずれにせよそれを行うためには僅かなタイムラグがある。
ロボットの腕、そこに装着されたノズルの奥から火焔が覗く。そこから僅かに発せられる強い臭気がマフツの鼻腔を刺激する。
火炎放射器だ、と気付いたのはその瞬間だった。
マズい――と思考するその間にも、迫り来る炎は止まらない。
(殺られる――――!)
無念と悔恨が胸を衝く、その刹那。
腕が、跳ね上げられた。
「……は?」
ぽかんと、腕に光を灯したままに呆然と呟くマフツを他所に、彼女の脇を駆け抜ける、白い疾風があった。
それは跳ね上げられた腕を足場代わりに、瞬く間にロボットの肩まで到達し――そして。
その巨躯を、殴り飛ばした。
「はぁ!?」
そして、マフツは改めて、その正体を――――輝の姿を見た。
最高潮に達する混乱が、彼女の思考を定めさせてくれない。ロボットのことも当然にその通りだが、今この瞬間に見せた、輝の尋常ではない身体能力もまた、マフツにとっては混乱の一要因でしかない。
「逃げよう!」
「ぬぇ!? う、うむ!?」
輝の発した言葉が、マフツを現実へと引き戻す。
元より、二人の目的は「ゼロポイント」へと到達し、元の世界へ戻ることだった。目前でこのような異常な状況に陥りはしたが、その目的が変わるわけでもない。
ロボットを蹴り、輝はマフツの手を取って元の進行方向へと走り出した。
「どこまで行けばいいの!?」
「あの廃墟に入ればそれでよい! あとは儂が何とかする!」
常識では考えられないほどの速度で駆けながら、輝は頷く。
輝は人型ロボットを倒しはしたものの、あれではただ「姿勢を崩した」だけに過ぎない。火炎放射器は壊れたりしているわけではなく、その機能も依然、健在なままだ。
事実、マフツは走りながら、ロボットが腕だけを自分たちに向けているのを見た。
「急げッ!」
檄を飛ばすと共に、廃墟が近づく。それと同時に、背後からチッ、という火花が散るような音が発せられた。
握られた輝の手に力が込めらる。マフツの両腕に再び光が灯る。
二人の背後に、熱が迫る。
――――そして。
飛び込むようにして辿り着いた廃屋に火炎が到達すると同時、二人の体は光の粒子と化して消え去った。