銀眼と白髪
――――その日、松山輝が目を覚ますと、そこは何処とも知れぬ砂礫の荒野であった。
「……どこ、ここ」
はて、何なのだろう、この物理的に不可解な現象は――と、まず輝の脳裏に浮かんだのは、そんなのん気な思考だった。
夜かと見紛うほどに、分厚い雲に覆われた空。生物がいた痕跡すらも窺えないほどに荒らし尽くされた、草木も生えぬ荒野。周囲には何らかの破壊の爪跡が見て取れるが、それが何によって作られたものか、輝には理解が及ばなかった。
唯一理解できるのは、この場所が日本という国内のどこでもないという事実だけだろう。呆然とした様子で荒野を見つめるその瞳には、驚きと恐怖の色が浮かんでいた。
(――――ホントにどこ?)
ここは死後の世界だったりするのだろうか――などと、益体も無い考えが浮かんだ。
日本の学生である輝にとって、このような退廃的な風景は馴染みが薄いものだ。少なくとも、輝が住んでいるのは、ある地方都市の駅にほど近いマンションだ。死後の世界でも考えなければ、このような光景はありえないものである。
「……ええ、っと」
途方に暮れたように、輝は周囲を見回す。
整備されたような道も、獣の行動によって自然に作られたような道も見当たらない。まったくの、無人の荒野だった。
ごう、と吹き付ける風が砂塵を巻き上げていく。
「わっ……ぷ」
姿勢を低く――腕で目を覆い、口を閉じて風が過ぎ去るのを待つ。
そうして、数秒ほど。いつしか風も止み、巻き上げられた砂塵も掻き消え、輝の視界には再び、砂礫の荒野が広がっていた。
先程とほぼ変わらないその光景に、ただ、一点。
(――――あれ?)
黒い、染みがあった。
輝には、ひどく異質なものに感じられた。事実として、それは紛れも無い「異常」だった。
宙に浮かぶ黒点――それ以外に、その存在を表現するものは無いだろう。少なくとも、輝にとってはそう認識する以外に無かった。
故にこそ、その存在が動いたその時、輝は思考を手放す他にできることは無かった。
「……あ」
あれは、まずい。
早鐘を打つ心臓が、輝に警告を告げる。
何故そう感じたのかは定かでは無かった。だからこそ、その感覚に従うべきか否かを判断しかねてしまった――そして、まともに動けずにいた。
「!」
――――視られた。
ぎょろりと、黒点に孔が穿たれた。それは、まるきり人間のそれと似た「眼」の形をしており――輝を確と捉えていた。
「っ……」
高まる心臓の鼓動に同調するように、黒点が蠢く。
その躯体は、徐々に巨大化していた。輝は、そのように捉えていた。
だが、正しくは違う。近づいているのだ。まっすぐに――輝の方へと向かって。
「わ、わ、あ……ッ!」
今度は、衝動に従った。そうしなければ死ぬ――と。何の根拠も無く、輝はそう確信していた。
もつれかける足を押し留め、迫り来る黒い「何か」から逃れるべく背を向ける。
だが、速力が違う。初動が違う。元より黒点は輝を捉え、追うつもりでいたのに対し、輝は逃げることが思い浮かんだのは、黒点が接近してからのことだ。当然、すぐにでも追いつかれることは明白である。
「あ、わ、あああ……!!」
いざ走るにしても、ただ走るだけでは加速が足りない。
数秒と経たず、怪物は輝の背後にまで迫り、その体を取り込むべくして――――。
「そこまでじゃ」
声が、輝の背後から降り注いだ。
「えっ……!?」
驚きに声を発し、僅かに背後に視線を向けたその瞬間――――剣が天から墜ち、黒い怪物を両断した。
「呆けておるな! 走れ!」
「へ……え、あ、は、はい!?」
降り注ぐ声に従い、輝は走り出す。その意図はともかく、この声の主が怪物を何とかしようとしていることは確かだった。
走り、逃げ行くその最中、時折背後を確認する。その中で、輝は幾多にも重なりゆく閃光を見た。
一つ、二つ――と、重なるごとに黒い怪物がその身を分け、切り口から爆炎が噴き上がる。
遠く離れてなお、その様子は輝にも認識できた。それほどまでに巨大な怪物と、そして――巨大な剣だったのだ。
輝の身の丈よりも遥かに巨大な、輝く刀身を持つ両刃の剣。莫大な熱量を放つそれは、ただ一人の少女の細腕に振るわれ、輝の身長の四倍はあろうかという怪物を、何の苦も無く滅してのけていた。
「なん、なんだろう」
理解の及ばない現象に、思いがけず輝の口から言葉が漏れる。
焼け落ちる残骸を、輝は呆然とした様子で遠くに見据えた。
「――大事ないな?」
その時、輝の頭上から声が聞こえた。そして、一人の――和装の少女が、輝の眼前に降り立つ。
――――綺麗な子だな。
不意に、そんな考えが輝の中に浮かんだ。
同年代の、平均的なそれよりもいくらか低い身長の輝より、更にもう少し低い身の丈。どこか、心を映す鏡面を思わせるような、澄んだ銀の瞳。濡れ羽色の、どこか色気を含んだ黒の髪。破壊の痕跡だらけの荒野に似つかわしくないその和服は、その外観から生じる神秘性を高めていた。
「おい、大事無いかと聞いておるのじゃが。いつまでも呆けておらんと返事せんか」
その古めかしい言葉遣いに驚き、呆気にとられた輝は、その言葉でようやく現実に引き戻された。
「あ、う、うん。ごめんなさい。大丈夫――です」
「……ん? 何じゃおぬし。見たところ童か? 白髪のせいで分からなんだが」
と、少女は輝の頭部を指差して示す。
事実、輝の頭髪は、一目でそれと分かるほどに白い。
原因は輝自身にも理解できないが、気付いた時には既にこうだったのだ。通常、ストレスによる脱色ならば後から生えてくるものは、本来の地毛の色になるというのが一般的ではあるが、輝の場合はどれだけ髪が伸びても一向に白髪以外生えてはこなかった。
なるほど、遠目から見れば老人に見えなくもない――と、輝は納得を示した。
「おぬし、名は?」
「ま、松山輝です」
「ヒカルじゃな……これでは男か女かも分からんのう。儂のことは……マフツと呼ぶがよい」
と、一言告げた少女――マフツは、そのまま輝に背を向け歩き出す。
「あ、ちょ、ちょっと……」
「説明は後でする。ついてこい。さっさとここを脱出せんと、おぬしも食われるぞ」
「食われ……」
マフツの言葉に、思わず身震いを起こす輝。それだけ、先の経験が心に焼き付いていた。
普通の人間が命の危機を感じるようなことなど、普通に暮らしていればそうは無い。それが、何処とも知れぬ荒野で、何とも知れぬ怪物に唐突に襲われたのだ。いくらそうなる直前にマフツが食い止めたとは言っても、死の恐怖を間近に感じたその直後でもあるのだから、身震いの一つも起きても仕方がないことではあった。
「安心せい。そうはさせんために、儂がおるんじゃ。お主のことは守り抜こう」
強い自信と自負を感じさせる声音で、マフツは輝にそう告げて笑いかける。
安心感を覚えたように体を弛緩させる輝に、続けてマフツは一言、発した。
「――守護者とは、そういうものじゃからな」