確執と譲歩
「帰るぞ」
「帰らないよ!?」
マフツの判断は早かった。灯里がそこにいることを認めるや否や、即座に車を戻す用意を始めていたのだ。
そうなるのもやむを得ない――というより、マフツの思考としては自然であることは輝もまた理解していたが、そもそもこの日は輝の入学式である。今後、それこそジャバウォックの脅威を除いた後に普通の生活を送るためにも、帰るわけにはいかなかった。
加えて言うなら、そもそもそういった旨を口にしたのはマフツである。先にそれを告げた彼女自身がその事実を忘れているあたり、かなり気が動転しているらしい。
「何だってよりにもよってヤツがここにおるのじゃ!?」
「通ってるだけじゃ……」
「曲がりなりにも社長じゃろうあやつ!?」
「高校生社長、って肩書きがあると便利だから、とかじゃないかな……」
適当なことを口にする輝。ただし、その推測自体は一概に的外れとも言い難い。
年若いうちから社長業に就く者もいるが、会社の行方というものは世の中の景気に左右されるものだ。経営そのものが上手くいっても何か、外的要因によって倒産に追い込まれることもある。そうなった時のことを見越して、学歴だけはしっかりと付けておくのが無難であろう。
「宣伝効果も見込めるじゃろうがな、ならば何故わざわざ来るのじゃ! 必要単位だけ取っておればよかろうに!」
「が、学業に励むのは悪いことじゃないよ……」
「入学式に在校生など来んものじゃろう!?」
「……あっ。そういえば」
私立校ならばともかくとして、一般的な公立高校というものは入学式の日に在校生が登校することは滅多に無いと見ていい。来るとしても、精々が在校生の代表か、校歌を斉唱するに際して吹奏楽部の生徒が来るかかと言ったところだろう。
「生徒会長さんとかかな?」
「社長の上に生徒会長なぞそんな非ィ現実的な存在がおってたまるか!!」
「事実は小説より奇なりとかそういう……」
「あってたまるくゎ!」
――――どうしよう。見たこと無いくらいマフツが怒ってる。
輝は戦慄した。
より正確には、マフツは狼狽のあまりにただ適当なことを喚いているようなものだが、それでも輝は未だ見たことの無いマフツの一面に、ただ唖然とする他無かった。
「……ていうか、マズいよマフツ……後ろからすっごいクラクション鳴らされてるよ……」
「むぅ」
そんな中でも、時間は進んでいる。学校に入るか入らないかというところで延々と口論しているうちにも、マフツの車の背後では、数台の車が進行を待っていた。これでは、一度Uターンして帰宅する――ということも難しい。仕方が無さそうに、マフツは車を前に進めた。
「いやーよく来た!」
――――そして響き渡るのは、どこか勝ち誇ったような灯里の声だ。何をもって勝利とするのかはともかく、彼女はマフツの姿を見るが早いか、その顔にやや意地の悪い笑みを浮かべていた。
「轢いてくれようか」
「ダメだよマズいよ!」
鬱陶しい、とマフツの瞳が訴えかけていた。客観的に見て、灯里が鬱陶しいことをしていることは間違いなく、輝はその蛮行を止めはしても、彼女の思いまでは否定できなかった。
大きく、重たい溜息が漏れる。流石にこの期に及んで無視し続けるのは無理だと判断したようだ。
「何じゃ貴様」
校門に横付けし、ほんの僅かに窓を開けて一言。怒気を孕んだその言葉は、しかし灯里を威圧するにはやや不足があった。
経緯はどうあれ、一度は会話して互いの腹の内を探り合った仲だ。悪意を向けることにも向けられることにも、互いに慣れ切ってしまっていた。
「何だとは御挨拶だな。そちらこそ何なんだその格好は。コスプレ趣味でもあったのかな?」
「戯け。趣味であるものか。必要じゃからやっとるだけじゃ。貴様こそ何をしておる」
「教員に頼まれて在校生代表の挨拶に来たのさ。何せ現役の社長だからね」
その性質上、灯里は大きなネームバリューを持つ。松山製鋼自体が決して小さくない会社であることも相まって、高校という枠組みの中では有名人になっているだろうということは、想像に難くない。教師からの信用もあることだろう。
マフツは思わず、事実を認められないというように表情を歪めた。他方、その視線を受けてなお灯里は微笑みを絶やさずに輝へと向き直った。
「一日ぶりかな。少し早いが、入学おめでとう」
「あ、ありがとうございます」
「礼なぞ言わんでもよいわ」
「失礼だな貴女は」
「貴様に礼節をを説かれとうないわ」
「…………」
思わず、輝は苦虫を噛み潰したような顔をした。そんな輝の表情を目にしたせいか、灯里とマフツは言い合うことをやめた。
割合純真な心の残っている輝に、この惨状を見せるのは酷だと悟ったのだろう。二人して、その表情はどこか気まずいものを匂わせていた。
「後で話がある」
「儂もじゃ」
――少なくとも、輝がいる今話すべきことではない。そう認識し合い、二人は己の赴くべき場所へと向かって行った。
* * *
それから数分。輝が体育館へ向かった後、マフツは後者の裏庭で改めて灯里と対面していた。
どうやら、入学式の挨拶は大急ぎで済ませたらしい。妙に息が上がっているのは、同じく大急ぎで駆けてきたせいだろう。
「――軟弱者めが」
「……うるさい……!」
マフツも輝も、人間よりも遥かに身体能力の高い存在だ。鏡界探査のために多少は鍛えているとは言っても、それはあくまで普通の人間の範疇に過ぎない。全力で走れば疲労もするだろう。その事実を改めて認識し、マフツは軽く息を吐いた。
「……ッ、はぁ、はぁ……くそ、これでも鍛えているのだが……」
「鍛え方が足りぬわ」
「鍛え方の問題では……無い気がするのだが……」
「フン」
一言冷たく言い放って、マフツは片目を軽く瞑った。
「……今回の件、ただの偶然じゃろうな」
「偶然だとも。入学生の名簿を見て君らを待ち受けてはいたが」
「待ち受けている時点で狙っているようなものじゃろうが」
「そうとも言うが、そもそも私は昨日まで輝くんの存在すら知らなかったんだ。学校に関して言うなら、本当にただの偶然だよ」
通常、高校の受験が行われるのは現在より二か月から三か月以上は前のこと。マフツや灯里と出会うよりも前に、輝はそれを終えている。
そうなると、灯里がこの高校に既に在籍していたこと自体はただの偶然であろう。マフツは致し方なしに受け入れた。
「逆に、こちらから二、三聞いてもいいかな」
「……いいじゃろう」
「何故貴女がたはあの医務室から逃れられたのか。輝くんはともかく、貴女がこの学校に来た目的は何か……あと、その制服は」
「…………そうじゃな」
いずれの事項にせよ、この場で隠しておくのは良くないか。そう断じて、マフツはそれらの理由を一つ一つ語って聞かせる。
自身が「鏡」の化身であること、輝の生活圏内の鏡を封印すること。そして、封印のために学校に潜入する必要があったこと――――。
話が終わったのは、入学式が終わり体育館から人が溢れ出してきた頃になってからだった。
「……なるほど、そうか。道理で……」
「他言するでないぞ」
「したところで信じる者などいないよ」
鏡界を僅かでも知るからこそ、灯里はその事実をすんなりと受け入れることができたのだ。それ以外の人間が聞いたところで、狂人の戯言としか思われないことだろう。納得したように、マフツは軽く頷いた。
「……だが、しかし――やはり、我々に協力する気は無いかな?」
「当たり前じゃこの戯け。現実的に考えよ」
「まずは利害を考えてくれたまえ。私は復讐としてジャバウォックを殺したい。貴女は守護者の使命としてジャバウォックを殲滅せねばならない。最終的な目的が一致している以上、協力することが最効率だと思わないか?」
「常に裏切りのリスクを警戒するよりはマシじゃろ」
「貴女、思ったよりも陰険だな……」
「フン」
まず最初に敵対的な接触を受けた相手に対するマフツの敵意は、衰えるところを知らない。
納得のいく道理があるならばまだしも、灯里のそれはあくまで「自社の利益」であった。それは、マフツや輝の素性を知らないが故であるとはいえ、その行動は浅慮に過ぎるだろう。少なからず陰険なように見えることは紛れも無い事実とはいえ、その責任の一端は灯里にも存在していた。
「……浄玻璃でもおれば、貴様の言葉が嘘かどうかも分かったじゃろうがな」
「浄玻璃……閻魔大王が持つという浄玻璃鏡か」
「もっとも、死んでしもうたがの。ま、儂の知り合いなんぞ四、五人程度しか残っておらんが」
「重いことをサラッと言わないでいただけるかな?」
「重苦しゅう言っても仕方ないじゃろう」
「仇討ちをする気は無いのか?」
「意味が無かろうが、そんなもの。前も言うたかもしれんが、貴様の精神安定に儂を巻き込むな」
僅かな寂寥感を滲ませながら、マフツはそう言って強引に話を切り上げた。
「……ところで、もう一つ聞きたいことがあるのじゃが」
「協力はしないと言っておいてなかなか横柄じゃないか……いや、構わないが……」
「うむ。で――ブージャムという言葉に聞き覚えはあるか?」
「ブージャム? ――と言えば、『スナーク』だが」
「蛇?」
「いや、『スナーク』だ。蛇じゃない」
語感が似通い、また、馴染みのない名前であることも相まって、彼女の言葉はマフツに混乱と錯誤を与えてしまっていた。
スナーク――その言葉を一度聞いただけでは、確かにスネークと聞き間違えるのも無理はない。しかし、実際にそれが示すのは蛇でなく、架空の生物である。
「ある詩人の書いた『スナーク狩り』と呼ばれる詩のことだろう。この詩の中は、あるスナークはブージャムである……などと言われている」
「スナークが……ブージャム……のう」
その意味の殆どを理解できていないという風に、マフツは首を傾げる。
スナークとは何か。ブージャムとは何か。まず、そこから理解できていない以上、説明を受けても表面的にしかそれを捉えきれていないのだ。
それであっても、表面的に――何となくは理解できているのならば問題ない。彼女はそう結論付けることにした。
「まあよい。とりあえず、礼は言っておこう」
「どういたしまして。ああ、それと」
「何じゃ」
「貴女は今後も鏡界に行くのだろう? だとすると我々と出会うこともあるはずだ。今後、こちらから攻撃を加えることの無いように、貴女方の≪ラシェミ≫に何かパーソナルカラーのようなものでも塗っておいていただきたいのだが、いかがだろうか?」
「……フン。ま、そのくらいなら造作も無いことじゃ。ならば青にでも塗っておくから、よく部下に言い聞かせておけい」
「感謝するよ」
そして、それなりの譲歩を認めた二人はそれぞれ身を翻し、相手の顔を再び見ることも無く歩き去る。
合意は得られたとはいえ、あくまで譲歩の末にある合意だ。互いに未だ納得いっているわけではない。
それでも、あるいは輝がこの場にいれば互いに譲歩したという事実を評価していたことだろうか――そんなことを考えながら、マフツは学内の鏡を探しに向かって行った。