電話と配慮
朝焼けが照らす大通りを歩く影が、二つあった。
一つは、憮然とした表情で淡々と歩いていくマフツ。もう一つは、不安げにその後を付いていく輝である。
「ね、ねえマフツ……やっぱりマズいよ……」
「何がじゃ」
「だって、僕のこと調べてくれてたのに、逃げ出すなんて……」
「あれは彼奴らが勝手にやったことじゃろう」
ふん、と敵対心を露にしながら、マフツは一つ鼻を鳴らした。
「何のための検査じゃかな。はっきり言って、信用に値せんわ」
「僕のこと教えてもらったし……敵、ってわけじゃないと思うよ?」
「そう言って取り入ろうとするような者はごまんとおる。輝の能力のことを知れば尚更じゃ」
「そうかなぁ……?」
元より彼女は、灯里を筆頭とした松山製鋼の人間を一切信用していない。しかし、自社の利益を理由に攻撃を受けた以上、そのスタンスは当然のものと言えた。
対して、輝は非常に警戒心が薄い。この期に及んでこのような考え方をするというのは、ある意味では純粋とすら言える。マフツにとってその純粋さは貴ぶべきものではあるが、同時に危惧するべきものでもあった。
「良い顔をして相手に取り入ろうとするのは悪人の常套手段じゃぞ」
「……悪い人って決めつけるのも、良くないことだと思うけど……」
「善人とも言えん」
その疑いの深さに、輝は軽く辟易したように肩を落とした。この調子では、どれだけ言ったところで聞き入れはするまい。
「……ま。何にせよ逃げ切ったんじゃ。奴らもそう簡単には手出しできまいて」
「そうかなぁ」
灯里の目を盗んで鏡界に突入した後、再び脱出点に到達するまでにそれほど時間はかかっていない。移動に複製した≪ラシェミ≫を使ったことを加味しても、精々数十キロ圏内というところだろう。その気になれば、数十分もあれば再び松山製鋼の社屋に向かうことはできるはずだ。
また、逆に松山製鋼の職員が輝たちを見つけることも決して難しいわけではない。もっとも、衆人環視の中で≪ラシェミ≫を持ち出すような真似をすることはありえず、少々の相手ならばマフツが排除できるのだが。
「しかし、輝よ。結局聞きそびれておったが、おぬし、どうやって生活費を工面しとるんじゃ?」
「おじさんが通帳くれてるんだ。そこに毎月何万円か入れてくれてるの」
「おじさん……おじさん……?」
足長おじさんという都市伝説じみた存在だろうか――と、マフツは怪訝な表情をした。
「死ぬほど怪しい存在じゃのう……」
「うん……」
これには、流石に輝も頷かざるを得なかった。世話になっているとかそうでないとか関係なく、その行動は不審者のそれと相違ない。顔も見せたことの無いような相手に継続して金を振り込み続けているのだ。一線級の変態と言われても驚きはしないことだろう。
「……そも、そういった相手なら輝の素性も知っておる可能性もあるのう」
「そうだよね……うん。そうかも。僕が、本当に何も知らない頃からそうだったから」
更に言うなら、その「おじさん」は十中八九、輝の正体を理解している。
何故、それを知ったのか。どうやって、それを知ったのか。疑念は尽きないにせよ、その事実だけはおよそ、間違いないと言える。
「となると、まず間違いなく鏡界のことも知っておる……」
その事実は即ち、鏡界の――ひいては、ジャバウォックのことも知っているということに繋がる。
そして、鏡界を知っているということは、異能者である可能性が高いということでもあり……。
「輝。その『おじさん』と接触はできんか?」
「電話、教えてもらってないし……かけてくるときはいつも非通知なんだ。だから、難しいかも――――」
その瞬間、輝のポケットから着信音が鳴り響いた。
二人の表情が更に怪訝なものに変わっていく。恐る恐る輝がマフツへと視線を向けると、彼女は電話を取ることを促すように軽く頷いた。
「もしもし?」
『やあ、私だ。おはよう』
「お、おはようございます」
その声がマフツにも聞こえるようにと、スピーカー機能が有効になる。
優しげな男の声だ。一切の悪意を孕むことなく、ただひたすらに穏やかな――ともすると、一切の「底」を窺わせないほどに、深淵から響くかのような――。
『今月分も振り込んでおいたよ。好きに使いなさい』
「ありがとうございます、おじさん」
『構わないよ。それと――――今、隣にいる人に代わってくれるかな?』
明確に、マフツの存在を認識している。
僅かな疑念と僅かな躊躇。しかし、ここで話に乗らなければ何も始まらない――と自らに言い聞かせ、マフツは一つ息を吐いた。
「何じゃ」
『賢所の巫女殿。こうして言葉を交わすことができ光栄の至りだ』
「――――儂の素性まで知っておるか」
『無礼は承知。しかし、接触を持たねば貴女はアクションを起こすまいと思ってね、こうして連絡させてもらった』
彼の言葉に、マフツは揺るがない。輝の言う「おじさん」から連絡が来ること自体は不測のものであっても、少し考えればその理由を推測することは簡単だった。
「誰が貴様の後ろについておる。アイジスか――よもや名無しか?」
『どちらでもない、とだけ申しておこう』
「……貴様は何者じゃ? 敵か、味方か?」
『少なくとも、今は味方だ。名は――ブージャム、とでも名乗っておこうか』
「無駄に迂遠な言い方はやめよ。儂も気は長くない」
『失敬。しかし、これもひとつの通過儀礼というやつだ。私個人としても明かしたいことはあるが、今ここで明かすのは悪手なのでね』
「……ふん、ならよいわ。どうせこれ以上訊いても答えんじゃろう、貴様」
『申し訳ない。が――こちらとしてもすき好んで黙っているわけではないということだけは分かってほしい』
どうじゃか、と吐き捨てて、マフツは無理やりに通話を打ち切った。
元より、輝は「おじさん」――ブージャムと名乗ったその男と長く会話すること自体が稀である。話したとしても事務的なことに過ぎない。それだけに、今回のこの会話は新鮮、かつ衝撃的なものと言える。
そもそも、彼は味方なのか? 敵なのか? 輝の中で疑念が渦巻いては、消える。輝の中に、それを判断するだけの基準は存在していなかった。
「……敵じゃろうな」
「敵なの?」
そうした一方、マフツはブージャムの立ち位置を既に大まかに定めていた。
「儂に自分の手の内を明かすことを『悪手』と言い切ったのじゃ。まず間違いなく敵じゃろう」
「……かなぁ。うん、かも……」
やや気落ちした様子で、輝はマフツの言葉を肯定した。
顔を突き合わせたことも無いとはいえ、やはりこれまで金銭的な援助を行ってきたのはブージャムだ。大なり小なり恩義を感じていてもむしろ自然ではある。落ち込んだとしても仕方のないことだと言えた。
「信用できる人、いないね……」
「そりゃあ、まあ……普通は、そうおらんじゃろう」
――世の無常を噛み締めながら、二人は再び輝の住まうマンションへの道を歩き始めた。