動機と包囲
「く、あっ!」
思わず、と言った様子で、苦悶の声がコクピットの中の灯里の口から漏れる。
輝も、万が一の事態を考慮して灯里がハッチから飛び出たりしないよう注意を払ってはいたものの、それでも衝撃を殺しきることは不可能だった。
体か、頭かを打ち付けてしまったかもしれない――しかし、そうなったこと自体も彼女が襲い掛かってきたことが原因だ。仕方のないことだと自分を納得させ、輝は落下したマフツに駆け寄って行った。
「マフツ、大丈夫!?」
「この程度で壊れるほどヤワではないわ。それより、輝こそ大事ないか?」
「う、うん。僕は大丈夫。ちょっと痛いけど、動けるよ」
とは言うものの、輝の肩口からは未だに血が溢れ出している。
このままでは危険だ――と思うのと同時に、マフツは僅かに安心を抱いていた。
――――やはり、輝はジャバウォックなどではない。
ジャバウォック――マフツの言う「怪物」であるならば、この程度の傷は瞬時に修復される。
そうはならなかったということは、輝は少なくともジャバウォックではないということだ。
図らずとも、それは輝をジャバウォックであると断定し、糾弾していた灯里の手によって成し遂げられたと言える。
「――――さて」
気を取り直すように、マフツは仰向けに倒れた紅の≪ラシェミ≫へと――否。そこから這い出す灯里へと、視線を向ける。
「そこを動くな、娘!」
その瞬間、マフツの手から放たれた光が幾多に分岐し、その衣服を刺し貫いた。
「っ――――」
縫い付けるように、縫い止めるように――放たれて分割した光は、数本の刀へと姿を変えていた。
抜き身の日本刀だ。いずれも、その刃には翳りの一つも無い。ただ、そこに在るだけで圧倒的な存在感を放つかのような逸品である。
輝に使わせたものとも、あるいはマフツ自身が用いたものとも異なり、光の刃は存在していない。服が燃えかねないからだ。
マフツは、しかしそれを惜しげも無く使い捨てにしていた。それは、彼女の力によって何度でもこの世界に「鏡像」として現出できるからに他ならない。
「……実に如才ない。私がこうして逃げ出すだろうことも、想定通りか?」
「そもそも逃げる以外に選択肢が無いじゃろう、貴様」
身動きの取れない灯里へと近づき、その行動を封じるべく突き立てられた刀を、一つ一つ光の粒子へと還していく。
そして、最後に残った一本をその首へと突きつけて、冷たく告げた。
「立て」
一方、灯里はまるで動じた様子も無く、その言葉に従って粛々と立ち上がった。
「それで、何用かな。これでも私は忙しいのだが」
「忙しいと言うならこのような魔境に平然とやってくるでないわ、戯けが」
そのマイペースさに、苛立たしさを滲ませるマフツ。
致命的な窮地は脱したとはいえ、それでも現状は良いとは言えないからだ。安穏としていればジャバウォックに感知され、いずれは襲い掛かられることになるだろう。
「貴様は一体何者じゃ? 確か、松山製鋼の代表取締役――などと名乗りおったな。いつ、どこでこの鏡界のことを知った? あのロボットは一体何のためのものじゃ?」
「そう矢次早に言われても困るのだが」
「…………」
苛立ちがそのまま刀を握る腕に伝わっていく。みしりと音を立てる柄が、その力の入りようをそのまま示唆していた。
その事実に気付いたのだろう、灯里は軽く溜息をついた。
「有体に言えば、私は松山製鋼という会社の社長をしている。この……鏡界――か。この場所のことを知ったのは六年ほど前。私の親が、ジャバウォック共に殺されたことに起因する。そしてこの≪ラシェミ≫は、鏡界を調査するためのもの。疑問に対する回答はこれで全部だ」
「…………」
およそ完璧と言えるその回答に、マフツは思わず口を噤んだ。
言いよどむことなく、躊躇いなく放たれる言葉の数々――その言葉一つ一つに、しかしマフツはどことなく胡散臭さを覚えた。
事実を語っているにしても、その言葉言葉は、いささか躊躇いが無さすぎる。
「嘘臭いか?」
「そうじゃな。儂もあの怪物共を見て長いが、奴らが強硬手段に出る例は少ない。あくまで、鏡界に落ちてきた者を食らうことが奴らの生態。こと現界においては数秒と己の身を維持できぬ存在でもある。貴様の言うておることは、決して鵜呑みにはできん」
「成程。しかし、事実として奴らは、それでも私の両親をこちらへ引きずり込んだのだがな」
「………………」
数時間前ならば、マフツもその証言を一笑のもと伏していただろう。
しかし、今は輝という実例を知っている。消滅を覚悟で輝をこちらの世界へと引きずりこんだジャバウォックを知っている。
だからこそ、その言葉を鵜呑みにできない以上に、一考に値する言葉であることもマフツは承知していた。
「……ど、どうやってこの鏡界に入ってきたんですか……?」
遠慮がちに、マフツの背後から輝が問いかける。
その問いかけに、僅かに灯里は優し気な表情を覗かせ――即座に、元の何を考えているかも窺い知れぬ微笑に戻った。
「それは、どういう意味かな?」
「特別な能力が無いといけないって、マフツが言ってました。僕も、そういう能力がある、って」
「ふむ――では、何故その『特別な能力』が無ければこの世界に入って来られないのかな? わざわざ明言するということは、それだけの理由があるはずだが」
「……あちらの世界で言う超能力者や魔法使いがかつて住んでいたのがこの鏡界という世界じゃ。そうした能力を持つ者は、それ故に『鏡界の存在』と誤認され……鏡界に入り込むことができるようになる」
「ふむ、そういうことなら私も同じ手を用いている。≪ラシェミ≫の装甲材にこちら側の物質を用いて誤認させているのだからな」
灯里はそう言いつつ、自身の乗っていた≪ラシェミ≫を指で指し示した。
「そんな物質が簡単に手に入るわけが無かろう!?」
「ジャバウォックは外界に出ると、何らかの要因で死亡し、その肉体は塵に還る――――が、その『塵』は、果たして消滅するものなのか?」
「……!」
マフツは、改めて鏡界に入る直前のことを思い返す。
輝を引きずりこもうとする怪物。確かにそれは生命を維持できずに塵と化した。マフツはそれを振り返って確認する余裕は無かったが、その痕跡は確かに今も残っている。
「最初はちょっとしたパワードスーツを作った。この世界を調査しなければならなかったから、精密動作ができるものを選んだ。しかし――その最中、私たちはジャバウォックに遭遇した」
「……それで?」
「命からがら、逃げ出したさ。犠牲者も出た。だが、だからこそ……調査をやめるわけにはいかなかった。そこで私たちは、ジャバウォックに対抗でき、かつこの世界の調査を可能とするものを考え――人型のロボットに行き付いた」
「いささか思考が飛躍して――いや、まあよい。事実、効果はあるようじゃしな……」
費用面、あるいは資材の面さえ解決できるならば、あの≪ラシェミ≫のような鏡界探査機の存在は、ジャバウォックとの戦いにおいて、人類側に趨勢を傾けるに足るものだと言えよう。
とはいえそれも決して簡単なことではない。費用、資材、武装――それらの問題を解決したとして、さて誰がこのようなものに乗るか、という問題が浮上する。
知的探求心は、よほど倫理的に狂っている者でない限り命よりも優先されるものではない。
「しかし、何故貴様はその若さで社長などやっておる」
「大きな金を動かす必要があるから、親族に譲ってもらったよ。製鋼会社ならば多少おかしな合金を作っていたとしても、おかしな目で見られるようなことも少ないだろう」
「……改めて聞こう。何のためにじゃ。好奇心とは言うまいな」
「言っただろう、親を殺されたと」
不意に、灯里の目に仄暗い色が灯る。
「生きているなどとは思っていない。恐らく、ジャバウォックに殺されたのだろう。この期に及んで否定などできんさ」
「敵討ちか」
「後ろ向きと笑うか?」
「……笑いはせん」
仇討ちも一つの選択肢だろう。それによって士気が高まることもあると、マフツは経験上理解していた。
だが、そうした意思のもと戦う者は、どうしようもなく危うい。己の死を厭わないからだ。
「――――さて、聞きたいことはこのくらいかな?」
「…………」
マフツは、輝の方へと視線を向けた。
聞きたいことがあるとするならば、自分よりも輝の方が多いだろうという確信があったからだ。
「……あの」
「……ああ、ちょっと待ってくれないかな」
「え?」
と。輝が口を開いたその瞬間、灯里は左手の腕時計を見た。
武器として扱うでもなく、本当に時間をただ確認するだけの行為だ。だからこそ、マフツもそれを咎めなかったし、その意図を聞かずにいた。
社長というものは、どうしようもなく責任を負う仕事だ。会議や他社との意見交換などもあるのだろうと思えば、時間を確認することも自然なことだからだ。
――――しかし、もしもその通りならばどれだけ良かっただろうか。
「そろそろか」
「なぬ?」
その言葉と同時に、周囲から複数の音が輝とマフツの耳に届いた。
金属を擦り合わせるような音だ。それが――三人を囲うようにして発せられている。
「……あ」
まずい、と感じ取った輝が周囲を見渡し始める。しかし、既にその行動は遅きに失した。
「――――ひとつ言い忘れていたが。私とて、何の備えも無しにここに来たわけではない」
――――そして。
その言葉に呼応するように、複数機の≪ラシェミ≫がその姿を現す。
いずれもその右腕を――火炎放射器を、三人に掲げるようにして。
「…………儂も耄碌したか……」
抵抗は、無意味だろう。
その事実を認識したマフツは、強く歯噛みして刀を光の粒子へと返還した――――。