縁側の想い出
中庭を奥へと進み生垣を超えた先、奥の庭に面した座敷の障子が開け放たれた縁側に両足をだらりと投げ出すように隆清は座っていた。隆清はただなんとはなく池に木の葉が浮かぶのを見ていたが、雅貴の頭が生垣から覗くといつものようにぱあっと笑顔になった。
「雅貴!」
その声はかつての幼少の頃の隆清と変わりなく、先程までの苦いような気分が少し和らいだ気がして雅貴はふっと息を吐いた。
「お待たせいたしまして申し訳ございません」
廊下を渡らず中庭から現れた雅貴に驚きもせず、隆清は縁側に腰掛けたままで足をぶらつかせながら。
「かまわない。急に呼び立てたのはわしのほうだ。」
と笑顔のまま答えた。
「恐れ入ります」
雅貴は頭を下げると隆清に近づき、その前に膝まづこうとしたその時。
「待て。」
少し咎めるような表情をして隆清は雅貴をとどめると、自分の左隣をぽんぽんと叩いた。
「は?」
一瞬その意図を汲み取れずそのまま立ち止まってしまった雅貴を嬉しそうに清隆は見上げた。
「雅貴はここじゃ。」
そしてもう一度嬉しそうに笑った。
「は。しかしながら。」
屈託ない笑顔の清隆ではあるが、さすがに雅貴といえども殿と並び縁側に腰掛けるのはためらわれた。それでも見上げる隆清の楽しげな表情につい心が弾んだ。少し我侭でやんちゃな若君は十数年前のままの瞳をしている。
かつてもっと幼かった頃。この奥庭や城内を探検しては走り廻っていた日々を懐かしく思いながら雅貴は微笑んだ。
・・・先頭に一番小さな若様。その後ろを私と純人がいつも控えていた。あれはまだ10にもなっていなかったか。いやもっと幼かったかも知れぬ。書庫にもぐりこんで埃だらけになり乳母殿にため息をつかせたり、遊び疲れて蔵の片隅で眠ってしまった若様をおぶって奥屋敷まで歩いた日、一つ一つが穏やかに思い出される。
「雅貴はよう座れ。」
もう一度幼き若様の声がして雅貴はにっこり笑った。
「では、仰せのままに。」
「うむ。」
雅貴はもう一度軽く一礼すると、隆清の隣に同じように足を投げ出し縁側に腰を下ろした。幸いそれを咎める者は誰もここにはいなかった。
なんとも奇妙な事になっている。
広間を通り過ぎ奥座敷への廊下を渡って奥座敷の手前の角まで来た純人は、隆清と雅貴の声に足を止めた。聞き耳を立てるつもりはなかったが、座敷に近づく機会を失い、様子を伺っていた。
本当に殿は何をなさるやらわからぬ、と苦々しく思いながらも自身も幼少の頃の記憶を抱えていた所であったので、2人の空気を壊す事もできずにいた。
・・・さて私はどうしたものか。
「かようにそなたと並び池を眺めるのもいさかたぶりであろうな。」
隆清の問いに雅貴が低く優しい声で答えた。
「さて、いさかたぶりでございましょうか。ゆうに10年は超えておりましょう。」
「昔は毎日ここにこうしておったろう。いつの間にやらそなたは城に来ぬようになった。」
投げ出した足をぶらぶらさせながらこちらを見る事もなく発した拗ねたような隆清の言葉が、つい可愛らしく思えて雅貴はまた微笑んだ。
「申し訳ございませぬ。」
「心がこもっておらん。」
足元を見つつそう言う隆清はそれでもどこか嬉しそうでもあった。
雅貴が城に現れないようになったのは雅貴と純人が元服すると決まった雅貴が16の年で、隆清はまだ元服もしていなかった。純人は元服すると即隆清のそば仕えに取り立てられたが、雅貴は父とともに登城する事もなく日々は過ぎた。他の家臣が子息共々祝いの席に着いた隆清の元服式でさえも現れなかった。
そうするうちに巷では阿南の若様の噂は流れてはいたが、城内にいる隆清がそれを知る事はなく、ましてやこのように肩を並べるなど幼少期の頃よりあろうはずがなかった。
「わしはずっと雅貴も純人と共にわしのそばにいるものと思っていたのだが、そうではなかったな。昨年父上が倒れられ家を継いだが、純人との間でもそなたの名を口にすることは無くなってしまっていた。」
・・・純人が私の名を口にしなくなったのは若の知らぬ理由がある。雅貴はそう思ったが口には出さず、穏やかな表情を崩さずにいた。
その沈黙をどう思ったか、隆清はくすっと笑った。
「そなたの父には毎朝顔を合わせておるのにな。不思議とそなたのことを尋ねてはいけないような気になっていたのだ。」
「私は家督も継がぬ放蕩息子でございますゆえに。」
穏やかに微笑み、池を見つめながら雅貴は答えた。
「殿に尋ねられたとて、父もお答えのしようがなく困りましたでしょうな。」
「放蕩息子・・・とな。」
雅貴へ向かい直り、隆清は胸元から覗き込むように雅貴を見つめた。その真直ぐな視線に、雅貴が少したじろいだその時、隆清の顔にぱあっと明るく笑みが広がった。
「それは何というか、楽しそうな響きであるな。」
「・・・は?」
隆清の言葉の意味を図りかねて雅貴は首を傾げたが、隆清は変わらず真直ぐと見上げてにっこりと笑った。
「いや、何とも羨ましいというか楽しそうであるぞ。」
「楽しそう・・・ですか。」
「うむ。ことに雅貴。」
「はい。」
「放蕩息子とはどんな事をするのだ?」
・・・何もしないから放蕩息子なのではなかろうか。
どんなことをすれば放蕩息子になるのか、などと考えたこともなかった。それでも自嘲するように雅貴は答えた。
「おそらくは、私のように家督も継がず藩の仕事もせずにただ日々をすごしているような者を、世間は放蕩息子と呼ぶのでございましょう。」
「ただ日々を、のう。」
隆清は雅貴の言葉を繰り返してつぶやくと、彼もまた自嘲するように笑った。
「ただ日々をすごしている者は放蕩息子と言うのか。なればわしも放蕩息子になれようか。」
「殿はただ日々をお過ごしにはなっておりますまい。」
諭すようにいった雅貴の言葉に、隆清は首を振って。
「ただ日々を過ごしておったのだ。・・・雅貴、この国は平和であろう。」
中庭の向こう、生垣のさらに向こうを見つめるように遠い目をして隆清は言った。
「はい。何よりでございます。」
「だからわしは日々をただ過ごしていることにすら気づかず同じ毎日を繰り返していた。」
・・・この国は平和である。確かに、それはもう退屈なほどに平和で。
昨日と同じ今日が来て、今日と同じ明日が来る。季節は移り変わろうともまた同じ朝が来る。
本当にこれほどに有難く、けれどこれほどに怠惰なことがあろうかと思う。
隆清の声に何らかの苛立ちに似た物を感じ、雅貴の心に引っかかった。
そして、身を潜めていた純人の心にも。
・・・一番そばにいた私には言えなかった事なのだろうか。
隆清の表情は見えないが、声に寂しさのような響きを感じて純人はさらに出て行く機会を失っていた。
「しかしながら、殿はそれにお気づきになった。」
同じく中庭の池の向こうを見つめながら、雅貴は静かに優しく言った。
「だからあのような祭り事を言い出されたのでしょう?」
「嫌になったのじゃ。」
すねたような声で隆清はつぶやいた。
「毎日同じく朝が来て、同じ話をただ退屈に聞いているだけの日々が怖くなった。」
あまりにもうんざりとした顔で隆清が言ったので、思わず雅貴はくすくすと笑ってしまった。
「ご心中お察し申し上げまする。」
「笑い事ではないのだ雅貴。ほんに毎朝同じことの繰り返しで・・・」
むきになって訴える隆清に、さらにくすくす笑いながら雅貴はうなずいた。
「わかっております。それに・・・殿のご心中をよく存じております者が、ほらもう一人。」
「もう一人?」
「はい。」
ぽかんと雅貴を見上げた隆清ににっこりと微笑んで見せてから、雅貴は振り返り廊下の角の奥へといつもの微笑をたたえたままで言った。
「わが幼馴染殿がそこに居りましょう?」
・・・いつになく苦虫を噛み潰した表情の純人が廊下角の障子の陰から姿を現し、ひざをついて頭を下げた。
「純人ずっとそこに居ったのか。」
隆清が雅貴の肩越しに声をかけると、純人はもう一度頭を下げた。
「お話中でございましたゆえに、お声をかけるのをお待ちしておりました。」
雅貴はまた中庭に向き直り純人に顔は見せないが、その後姿にちらりとにらみを利かせながら純人は答えた。
・・・ほんにこの人は昔からそういう意地の悪さがあった。今も少しながら肩が震えているのは笑いをこらえているのであろう。
「まあよい。純人もこっちへ来て座れ。」
隆清はそんな純人の様子を気にもかけず、今度は自分の右側をぽんぽんとたたいた。
二人と同じように並べという事なのであろう。
「いえ私はここで。」
そう答えた純人に変わらず中庭に顔を向けたまま雅貴は言った。
「相変わらず無粋な男だねえ。」
「雅貴っ。」
思わず声を上げた純人を見て、隆清ははじけるように笑った。