幼き頃の名を呼べば
朝。雅貴が目覚めると、久佳はすでに身支度を整え寝所も片付け離れの座敷に座っていた。
「いつの間にか眠ってしまったようで申し訳ありません。」
雅貴が姿を見せると、そう言って久佳は頭を下げた。空はまだ白み始めたばかりで、母屋も下働きのものが朝餉の用意でもしている音が聞こえるのみである。
「・・・早いな。」
雅貴はそのまま煙管を咥えると火鉢の灰を起こし火種から火をつけた。
どうやら早々から、久佳が火をおこしてくれてくれていたらしい。
「眠れたかえ。」
ふうっと煙を吐きながら雅貴が問うと、久佳は少し恥らうように笑った。
「はい。ありがとうございます。恥ずかしながら、寝所へ行く前あたりから記憶があまりございませんでして・・・。失礼がなければよいのですが。」
昨夜、雅貴に問われるまま勤めの話や仕える家の話などに答えていた久佳であったが、さすがに酔いが回っていたのか何を話したのか記憶が曖昧であった。目の前の杯は雅貴によりいつも満たされてしまい、満たされると何とはなく口にしてしまい、結果としてかなりな量を口にした気がする。
そしてとうとうぐらりと久佳の上体が傾いだのを見て、雅貴に寝所へ促された・・・様な気がする。
・・・何か余計なことを言ったのではないか。
「失礼・・・ねえ。」
雅貴が思い出すようにふっと笑うので、久佳は更に不安になって必死に記憶をさかのぼってみるが思い出せるのは雅貴の微笑のみである。
「確かにかなり酔うておったようだ。」
酔っていたからこそ、久佳の口は滑らかだったのだろうと雅貴は思った。酔っていなければ仕える家の話など、いかに雅貴に問われようと実直な久佳が答えることはなかっただろうと思えた。
「私は楽しかったが。」
意味深な雅貴の笑みに、久佳の不安は増すばかりだったがやはり思い出せないことばかりである。
「何をいたしましたか。」
半ば決死の覚悟で訊ねては見たが、雅貴はにっこりと笑うと煙管を咥えゆっくりと煙を吐くと優しく答えた。
「・・・教えてやらぬ。」
戸倉家に戻るという久佳と別れ城に向かった雅貴であったが、昨夜の楽しさとは反対に登城するのはなんとも気がすすまないものであった。
城まで来たものの、表門の前で立ち止まりため息をつく。
殿はともかく純人に呼ばれて出向くなど、なんとも気が乗らない。さりとて、使者として遣わされた久佳の面目も考えれば子供のような事も言ってもおられまい。
「ほんに面倒な事よ。」
もう一度ため息をつくと登城する者達の姿に目をやるが、逆にちらちらと雅貴に視線をくれているものがいるのに気づき更に気が重くなった。
殿の直々の呼び出しであるから裏門へ回る訳にもいかず、傍目には周りの視線など意に介さずという体で雅貴は門をくぐった。
「・・・雅貴殿?」
その姿を見て雅貴の名を呟いたのは将希であった。
最近は武道場には出向かず、それでも登城はしていて望月家にあてがわれている部屋にいるが、何をしているというわけでもない。父は毎朝の詮議がなくなり登城の必要もなくなったため、屋敷にいるのも気の重い将希は毎日登城しているだけである。
日々の詮議がなくなったここ数日、目に見えて城内に登城しているのは若い者が多くなった。まだ役付きではない者は定刻に集まったりすることはない。武道場で剣を交える者や、各々部屋に集い意見を戦わせる者もいるようである。元々は幼少の頃学問所で同席だったものたちであるから、身分や家の役職に拘らない繋がりとなっているようで、それが清隆が「我等の」と表した何らかの流れになるのやも知れなかった。
・・・とはいえ、雅貴殿が登城するとは。珍しい事もあるものだ。
将希は幾分訝しげに思うも、ふっとため息をつき首を二回ほど大きく左右に振った。
「あの人の考えている事はわからん」
そう言うと背を向けて部屋へ向かう。
俺にはあの人はわからん。昔も・・・今も。
殿のお召しであるからは大広間で待つべきか。
雅貴はまずは中庭を抜け大広間へ向かってみたが、掃除でもしているのか茜色の小袖の奥女中達がいるだけであった。彼女らに見つかってしまうと更に面倒である。雅貴はすっかり葉の落ちた桜の幹にもたれるように潜んだ。
「殿が奥の間の座敷に来るようにとの仰せでございます。」
いつからそこにいたのか、大広間から武道場へ続く渡り廊下から純人の静かな声が聞こえて、雅貴はそちらへと視線を移した。
「・・・何故此処に私がいると思うた?」
純人は表情一つ変えず、静かに答える。
「阿南様の控えの間にお呼びに上がりましたが、どなたもいらっしゃいませんでしたので、お探ししたまでにございます。先日と同様大広間にお越しではないかと。」
「ほう。という事はそなたが呼び出したのは私一人という事か。」
雅貴は胸元で組んでいた腕をはずし、懐からいつもの扇を取り出すとそのまま天を唇に近づけ弄びながらいった。
純人はその扇をちらりと見たが、また、視線を戻し。
「私ではございませぬ。殿のお召しとお伝えしておりましょう?」
「まさかとは思うが。純人。」
ぱちりと扇を一枚開くと、雅貴は純人を咎めるように見上げた。
今まで露ほども表情を変えなかった純人は、雅貴がその名を呼んだ瞬間に驚いたように見開いた。
「本気でそれが私にまかり通ると思うてはおるまい?」
…くくっ。
見開いた目を一度閉じ、忍びやかに笑い声を漏らし純人は仄かに笑顔になった。
「そのように貴方に呼んでいただくのはいかほどぶりにございましょうか。」
・・・かつては毎日呼ばれていた。それこそまだ袴儀を済ませるかどうかという幼少の頃から。
懐かしい響きに浸りそうになるのを純人は首を横に振り払いながら答えた。
「しかしながら、私には何のことやら見当がつきませぬ。」
お互い仄かに笑みを湛えながら、しばし二人は見詰め合っていたが、先に口を開いたのは雅貴で。
「相変わらず食えぬ奴よ。」
扇を閉じると静かに懐に仕舞い、雅貴は清隆の自室のある奥屋敷へと身を向けた。
「殿がお待ちなのであろう。参ろう。」
純人はその背中に今度は本当ににっこりと笑顔を返した。
「お褒めの言葉と思うておきましょう。・・・雅貴。」
雅貴の動きが一度止まったが、純人を振り返ることはせず、中庭を奥座敷へとゆっくりと歩きだす。純人も渡り廊下から大広間を通り過ぎ奥座敷へと向かった。
「阿南の若様がいらっしゃるわ」
大広間にいた奥女中の一人が声をあげた。
「まあ、雅貴様が城中にお越しなんて。」
「ほんにいつも麗しくていらっしゃる事。」
「横顔がまた凛々しくていらっしゃる。」
それを聞きつけたほかの女中も縁側にやってきて密やかに嬌声を上げていたが、中庭を歩く雅貴には耳に入っていない様子であった。
・・・奴に名を呼ばれるのも久方ぶりの事だ。しかしその響きは懐かしさと共に、苦々しさがよみがえる。
奴が悪いのではない。すべては仕方のないことだとあの時わが身に言い聞かせたはずだ。
それなのにまだこのように心が乱されるとは。
「まだまだ修行は足りぬと見える」
雅貴は一人呟くと、ほんの少し足を速め中庭を通り過ぎた。