act1-5
着慣れない濃紺のスーツに身を包み、きちんとネクタイを締めて革靴を履き、普段であればあまり気にしない頭髪を整髪料で固定した白夜は一向にペースを落としてくれない心臓の鼓動に押されるようにその場所に立っていた。
ベヘモス魔法士事務所。
魔法士業界において連盟から一、二を争うほどの信頼度を持ち、同時に魔法士序列八位が代表を務めている魔法士事務所。
今まで一度たりとも自分から足を向けようとは思わなかった場所の入り口付近でどうにか呼吸を落ち着けてエントランスに足を踏み入れる。
「申し訳ございません。本日の業務は午後九時を持って終了させていただきました。アポイントメントをお持ちの方もそうでない方も、後日もう一度足を運んでいただけるようお願い致します」
スピーカー越しに流れてくる女性の声。それを右から左へ聞き流して白夜は受付へと足をすすめる。当然、不審に思った警備員が彼に対して声をかけて進路を塞ぐように取り囲むが、彼が懐から取り出した一枚のカードを見るなり顔色と態度を豹変させて道を開ける。
「お久しぶりですね、白夜様」
タイミングを見計らったように正面のエレベーターが開き、姿を見せたひとりの女性がスカートの端をつまみながら恭しく頭を下げてくる。
「アディリシア・エーレンベルク」
白銀の髪を肩口で切りそろえ、メイド服のスカートをつまみ上げながら一礼してきた女性を見て、苦々しく白夜はその人物の名前を口にする。梟と並び皐月夜空を補佐する副官。加えて言うなら梟が担当しているのは諜報活動であり、彼女が担当しているのは主に戦闘行動。
「折角起こし頂いたところ申し訳ございませんが、代表は多忙故にどなたともお会いにはなられません。それが例え弟君である白夜様であっても」
丁寧な物腰とは裏腹に怪しく赤い瞳は光を放ち、この場を立ち去れと雄弁に語っている。
「俺はお前と問答してるほど時間的余裕がない。一度しか言わないからよく聞け。今から俺は兄貴に会いにいくから邪魔をするな」
「残念ですが、ご期待には添えません」
奥歯を強く噛み締める白夜に対し、アディリシアは一歩も譲る気がない。それを物語るように彼女の周囲には魔法で作り上げたと思われる無数のナイフが出現し、彼女を中心とした円形に配置されたナイフは一度彼女が命令を下せば一斉に襲いかかってくることだろう。そんなことは彼だって百も承知。兄である夜空とすんなり何の問題もなく面会できるなど思ってもいない。
「俺と一戦交えてでもその場所は死守すると、そうとっても構わないんだな?」
「私としては白夜様と争う気はございません。ですが、立場上徹しなくてはならない場面というのは多々ございます故」
どんなに強力な魔法士であろうと体内に蓄積できる魔力量は有限であるため、使い続けるということは不可能。『月女神の夢幻牢獄』に別属性の転移魔法。本日大魔法に匹敵する魔法を使用してしまった白夜の魔力残量は心もとない。加えてアティリシアは彼と同じ神属性なので知覚に頼ることもできない。彼としては避けるべき戦闘。この後のことも考えればここで魔力を使うのは自殺行為に等しい。それでもこの場所から背中を向けるわけにはいかない。
「最悪ってのはこういう時に使う言葉なんだろうな」
背後にある人物の気配を察知した白夜は愚痴をこぼしてしまう。彼の背後に現れたのは戻ってきた梟。前門の虎、後門の狼では生ぬるい。四面楚歌や絶体絶命と言い換えてしまっても構わない。万全でない状態で自分と同格、それ以上の魔法士を同時に二人も相手取らなければならなくなってしまったのだから。
「何やら面白い、失礼、込み入った事態になっているみたいですね」
言葉とほとんど同時に行動を開始する梟。それに対してアディリシアの一挙一動を警戒している白夜はすぐに行動に映ることはできないため、反応が一瞬だけ遅れてしまう。それは魔法士の戦闘において致命的と言える。魔法を発動させるにしても、回避行動をとるにしても梟の攻撃の方が彼の動作よりも確実に早い。
「おやおや、これはエーレンベルクさん。一体何のおつもりで?」
「あなたこそ誰の許可を得て白夜様に殺意を向けているのですか、梟?」
先んじて動いた梟の右頬が軽く裂け、紅い雫がゆっくりと頬を伝う。白夜を窮地に追い込んでいる本人、アディリシアが梟の行動を制限するように魔法で作り出したナイフを投擲していた。
「私は代表よりこの場における全権限を一時的に譲渡されています。そして、私の判断は白夜様にこの場を去っていただくこと。そこにはあなたが加わる余地などありはしません。お分かりですか?」
アディリシアの周囲に展開されているナイフが微かに振動しながらその切っ先を白夜だけでなく梟に対しても向けている。傷を負った右頬にハンカチを当てている梟の悔しげな表情を見ればこれは彼に対しても想定外のことだったのだろう。これはあくまでも代表である夜空の意思を尊重しようとするアディリシアと、彼の障害になるものは肉親であっても排除しようとする梟の考えに溝があることを示している。
「白夜様、ご覧のとおり私は本気です。どうかこの場は引いてくださることを強くお勧め致します。私に白夜様を傷つけるという愚行をさせないでください。重ねて申し上げます。この場は引いてください」
たとえ同僚であろうと主の命令が下されれば容赦なくその引き金を引く。苛烈なまでの忠誠心と主の肉親を傷つけたくないという良心がアディリシアには存在している。それが理解できたからこそ白夜は賭けに出る。残された魔力はわずか、チャンスは一度だけ。失敗すれば病院送りになることは確実だろう。だとしてもここで踵を返すわけには行かない。過去から自分の兄を取り戻すために。
「兄貴はやっぱり凄いんだろうね。俺にはこんなにも俺のことを思って動いてくれる奴らを集められる自信なんてねぇや」
右手のブレスレットを外した白夜は懐中時計ごとアディリシアに対して放り投げる。これで彼は魔法を使用することができない。懐中時計を空中でキャッチした彼女はゆっくりと自分に対して近づいてくる彼に対して一礼し、全てのナイフを梟の行動を制限するために向ける。折角穏便に事を済ませられるような事態になったというのに不用意な行動で台無しにされてはたまったものではない。
「ご英断感謝致します、白夜様」
「英断なんて持ち上げんなよ。勝負に負けた俺が余計かっこ悪く見える」
ここで懐中時計を受け取って白夜は帰る。そこまでがアディリシアの読みであり望んだ展開、梟にしてみればつまらない展開だった。彼が懐中時計ごとアディリシアを自分に対して引き寄せるまでは。
「お前は強く美しい。だから兄貴じゃなく俺の従者になれ、アディリシア・エーレンベルク」
強引に唇を奪われたアディリシアだったが、数分後には陶酔したように顔を仄かに上気させ瞳を閉じている。白夜が用いたのは『誘惑』と呼ばれる催眠魔法。対象者と粘膜接触をすることによって短時間とはいえ接触した相手を自分の支配下に置くことができる。
「アディリシア、俺はこれから兄貴に会いにいく。それを邪魔しようとする者、俺に近寄ろうとする者全て排除し、この場所を死守しろ」
「我が主の御心のままに」
ゆっくりと唇を離した二人の間で唾液が惜しむように弧を描きながら落下していく。片方は振り向くことなくエレベーターへと乗り込み、残った方は梟に対し無数のナイフを向けて先ほどの命令を完遂すべくその場所を動くつもりがない。ここまで状況を作られてしまっては彼としても動けない。動けば白夜の思い通りになってしまう。
「動こうが動かなかろうが賭けは自分の一人勝ち。全く弟君にも困ったものですね」
その場で愚痴をこぼすことだけが梟にできる精一杯の抵抗だった。