act1-17
ワインが血液と似ていると皮肉をこぼしたのは一体誰だったか。そんなことを考えながら夜空はワイングラスを傾けて自分の名前と同じ場所へと視線を向ける。
魔法士連盟が発表した作戦開始日時は一週間後。
今まで人生すべてを捧げてでも成功させたいと願っていた作戦に対する熱意は既に失われ、残っているのは魔法士としての責務を果たすという義務感だけ。素直でない弟ニコのことを口にすれば皮肉混じりの可愛くない言葉が帰ってくることはわかりきっている。
皐月白夜。
自分にとって唯一残された肉親にして今では恩人。自分が振り向くことも兄として振舞うことすら忘れ去っていたというのに、白夜はずっと自分を救うことばかり考えていた。その言葉がたとえ嘘だったとしても嬉しかった。過去にばかり目をとらわれて一緒にいる人間に対して視界を曇らせていたというのに、そんな自分を弟は文字通り救ってくれた。褒められた手段でない事は分かっている。事実関係が露見してしまえば連盟から何かしらの処罰が下されていたとしてもおかしくはなかった。
「お久しぶりですね、ミスター皐月。今宵はお招きいただき感謝いたします」
「あまりかしこまられても困る。それに序列で言えば君の方が俺よりも上位なのだから」
ワイングラスをテーブルに置き、立ち上がった夜空は目の前の人物に対して友好の意を示すべく右手を差し出す。彼の右手を握り返し、マルコは微笑してからエリシアが引いてくれた椅子に腰を下ろした。
「まぁ、僕としても知り合いのお兄さん相手に恐縮したくないしね。それはそれと、ご結婚おめでとうございます。挙式の日取りが決まったら教えてください。大輪の花と一緒に駆けつけますから」
「ありがとう。招待客のリストに君と君の従者も加えておくよ」
にこやかな雰囲気のはずなのにテーブルには誰一人として近づいてくる気配がない。誰も彼もがこの場所にいる二人を恐れている。魔法士序列二位と六位。いつ周囲に死を撒き散らすかわからない存在相手のそばで食事を楽しめる人間のほうがどうかしている。
「早速で悪いんだがマルコ君。話をさせていただいでも?」
「それは少しだけ待って頂きたい。もう少しで僕が呼んだゲストもこの場所に来てくれるから」
エリシアによって注がれたワインを楽しげにグラスを軽く回して一口だけ口にしたマルコの視線は入り口に集中している。その来訪者が来た瞬間に周囲が慌ただしく移動を開始したことは誰が避難できるものでもない。来訪者は魔法士序列六位、フェイ・ロンファ。彼女は目的の人物を見つけると同時に苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、それでも仕方なく二人のいるテーブルへと近づいてくる。
「このような場所で話だと? 貴様、妾を一体どこの誰だと心得ておるっ」
「どこの誰って、魔法士序列六位だと知ってるよ? ああ、今は名もない四桁台の魔法士が事実を公表していないからその座にいられるだけの女性だっけ?」
挑発としか取れないマルコのセリフを聞き流し、ロンファはエリシアの引いた椅子に腰を下ろして夜空を睨みつける。
「妾を負かしたのは貴様の弟らしいな、序列八位。だが勘違いするでないぞ。あれは油断していただけ。最初からあのような奴がいると知っていれば妾とてそれ相応の準備をしていたということを忘れるな」
「命を賭けた戦いが魔法士同士の基本だっていうのに。二度目がある? 想定の範囲外? 油断? どれもこれも負け犬の遠吠えにしか聞こえないのは僕の気のせいかなぁ」
「貴様は黙っておれ、序列二位。妾は今大事なことを口にしておる。次に会ったときは」
「何をするつもりだ、序列六位。内容次第ではこの場から無傷で帰すわけには行かなくなるが、それが貴女の望みか?」
まさに一触即発。ウエイターたちはその場所から放たれる濃厚な殺気に当てられてテーブルに近づくことすらできない。この場所にいる魔法士は従者も含めれば五名。そのうち三名が序列の一桁に名前を連ねていると知れば貸切りにしておいたほうが経営者としては正解だったかもしれない。
「だがまぁ、白夜は既に守られるだけの子供でもなければ自分で自分の立ち位置を明確にできないほど優柔不断でもない。俺の目の届かない場所でなら許可しよう」
「弟が物言わぬ肉の塊になる可能性があるというのに、つくづく貴様は非情な男だな」
「信頼していることの裏返しだよ。戦った貴女には釈迦に説法かもしれないが、一度でもあいつと戦えばもう一度相手にしようとは思わないはずだ。あいつの戦いは相手を殺すのではなく、相手の心をへし折るからな」
反論しようと思えばいくらでもできるが、ロンファはあえて言葉を飲み込む。魔女主義を掲げている自分が敗北を喫し、その相手が自分よりの明らかに格下の男だというのに夜空の言うとおりもう一度挑む気にはならない。勝てる勝てないの問題ではなく、殺し殺されるという問題でもないのに。
「それで、いい加減妾をこの場所に招いた用件を口にしたらどうだ? 序列二位、貴様も知っているとおり妾も暇ではない」
「お生憎様、僕も招かれた側だからその件に関しての答えは持ってない。答えを持っているのは夜空さんだよ」
両手を挙げてアピールするマルコに対し拳を握り締めて怒りを押し殺すロンファだったが、夜空の次の言葉を聞いて怒りをすっかり忘れさってしまう。
「用件は簡単だよ。白夜を序列一桁に加える、もっというのであればシム・ティケルトの襲名を俺はさせたくない」
「へぇ、夜空さんはてっきり僕と同じようにシムの襲名を望んでると思ってたんだけどなぁ。さっきの言葉、明確な敵対ってとってもいいのかな?」
「取りようによってはそうなってしまうかもしれないな」
瞳を細めて相手を値踏みするマルコに対し、夜空は一歩も引かない。評議会の筆頭に敵対することは死を意味する。それを理解していないほど夜空は愚かではない。むしろマルコの実力を体験している側。
「はぁ、夜空さんがシムの身内であることを心の底から恨むよ。今いくつかの方法を模索したけど、どうやっても僕はシムに嫌われてしまう」
「懸命で何よりだ。さすがの俺もこれ以上馬鹿な真似をして兄としての立場を低くしたくないからな」
「序列六位よ、貴様の考えにも序列二位の考えにも妾は口を挟むつもりはない。だが、理由ぐらいは口にせよ。妾が序列の四位に敗北したのではなく、無名の魔法士に敗北したといういらだたしい結果を受け入れるのだから相応の対価をよこせ」
問われた夜空はワイングラスを一気に傾けて中身を飲み干し、音が立つことも気にすることなくテーブルに叩きつけた。その衝撃でワイングラスは砕け散り、破片と一緒にわずかばかりに残っていたワインがテーブルクロスに色を加える。
「俺は自分で言うのもダメな兄だ。あいつは、白夜は俺のことを見ていてくれたというのに。俺は気づけずに過去にばかり目を向けていた。それだけじゃなく、俺はこの先あいつの兄という生き方よりも愛した人間の夫としての生き方を選ぶことになる。だからだろうな。あいつを魔法士同士のくだらない権力争いの場所に引き込みたくない。それが兄として生きられなかった俺が唯一譲れない過保護だ」
魔法士連盟の決定機関に位置付けされている評議会。一見、知らない人間からしてみれば一位が空座ということもあって筆頭である序列二位が権力を握っているように思われがちだが、それは大きな間違い。一位と四位がいないため一桁台の七名による多数決によって方針が決定されるため、その場所では投票権利を持つ一人でしかない。今は中立を謳って常に無効票を投じ続ける九位がいるからこそ均衡が保たれているだけであって、そこに一人加わればいい意味でも悪い意味でも均衡は崩れる。
「なるほどね、夜空さんの考え方もある意味では共感できる。確かにシムはあんな場所に来るべき人間じゃない。あそこは決して人間が脚を踏み入れていい場所じゃない。あそこは魔法士だけがいるべき場所だ。そこはよくわかってる。わかってはいるけれど、僕も譲れないよ」
一人の人間の今後を巡って視線で火花を散らせる二人。そんな二人に進んで関わることはロンファのいつもの立ち位置ではない。だが関わらずにはいられない。
「二位に六位、貴様らの考えはわかった。その上で妾はあえてこの場所で断言しておかねばならぬ。妾は貴様らのどちらの側にもつかぬ。決めるのは当人、保護者気取りが話し合って解決する問題ではあるまい。抱き込む相手は各々で考えるが良い」
そこでロンファは、この件はもはやこれまでと態度で表して席から立ち上がって扇子を広げて口元を隠す。
「だが将来の義兄に対してあまり良い印象を与えぬのも考えものか」
「聞こえづらかったので聞き返して悪いが、それはどういう意味だろうか?」
「次に会った時に何をするか訪ねておっただろう? そのことの答えをこの場で述べただけだ。妾の生涯の伴侶として貴様の弟、皐月白夜を夫に迎え入れる。妾をキズモノにした責任は取ってもらわねばなるまい」
「「えっ?」」
扇子で表情がわからないように顔全体を隠しながらも真っ赤になった耳を隠しきれていないロンファの言葉を聞き、なぜそのような結論に至ったのか理解できない夜空とマルコはその場でテーブルを叩きつけるようにして立ち上がる。
「君、魔女主義掲げて全世界の男は塵芥以外には見えないって公言してやまなかったはずだよね?」
「女尊男卑をこの世界の基準にしようとしているレベルの男嫌いであるはずの貴女が?」
「うっ、うるさいわっ。妾とて甲斐甲斐しく、何度も見舞いに足を運んだ相手を無下にするほど人でなしではないわ。そっ、それに白夜は特別なのだ。白夜の前では妾も序列六位の魔法士ではなく一人の人間としていられるのだ。これが嬉しくないわけなかろうがっ」
扇子で顔を隠すことすら忘れて、真っ赤な顔で大声を上げるロンファの姿を誰が予想することができるだろう。序列の一桁台で最強の魔法士として知られている彼女。彼女を一人の人間として見ることのできる人間は言葉通りの例外を除いてまずいない。魔法士は貼り付けられたレッテルで世間に認知され、誰にだって魔法士として接せられる。兵器、人殺し、悪意ばかりが際立つ視線を向けられて平然としてなんていられない。平然としていられるようになった頃には心が摩耗して諦めてしまっていた。それなのに白夜の拳は彼女の顔にだけでなく心にも届いた。
「白夜は妾が出会ってきたどんな魔法士とも人間とも違う。手の暖かさを感じたのは、随分と久しぶりだったわ。あの瞳を向けられて何も感じない奴はいないはず。白夜は人の痛みも孤独も、もっと言えば自分の汚い部分を見せても見せかけの同情や憐れむことをせずに手を伸ばしてくれる。一緒に悩んでくれる。妾はそれがとてつもなく嬉しかった」
「だが残念だな」
「同感だね、その願いは叶わない」
つい先程まで主張をぶつけ合っていたというのに、ロンファの目の前で二人の男はがっちりと握手を交わした後に人差し指を向けてくる。
「ただでさえシムの周りには彼を慕ってやまない人物がわんさかいるんだ。倍率が恐ろしいぐらい高いんだ。女性だからといって割り込めるほど簡単じゃないんだ。そしてなにより、そんな羨ましい立場を誰かに譲ってたまるものかっ。僕の目が黒いうちは決してシムとの入籍なんて認めてやるもんかっ」
「白夜の人間関係に口を突っ込むのは流石に兄としても気が引けるが、今回は別だ。貴女に関わって白夜が無茶をしないわけがない。これは断言できる。そして、弟に迫る危険は排除しておくことが兄としての義務。断固として認めん」
「だったら、意地でも認めさせてやるわっ」




