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『神無月の停滞』
魔法を便利な道具だと勘違いした者たちによって引き起こされた悲劇。大都市丸々一つが時間を拒絶するように凍結させられ、どれほどの高温をもってしても溶かすことがかなわず時間の檻に三千万人以上が閉じ込められた魔法災害。当時から十年経った今でも一人の救助者を出すどころか原因の解明にすら至っていないこの悲劇に対し、誰もが黙祷を行っているであろう時刻に一人の青年がつまらなそうに喫茶店へと足を踏み入れた。
素肌の上から着たパーカーにジーンズといったラフな格好、白髪混じりの黒髪を軽く右手でかき、深く跡がついて消えなくなってしまったくまを気にすることなくテーブル席に腰掛けた青年はウエイトレスに注文するでもなくその場でソファに体を預けて天井を仰ぐ。
「お久しぶりですね、皐月白夜君。息災で何よりです」
「あ~」
気のない返事を返し、瞳だけ動かして白夜は周囲を伺ってみるが彼に声をかけてきた人物に気づいている様子はない。
そのまま葬式に直行できそうな黒のスーツに今時珍しい七三分け。にこやかに人あたりのいい笑顔を貼り付けているだけで眼鏡越しの瞳は決して笑っていない。それどころか細められた双眸は隙あらば獲物の喉元を食い千切る獰猛さを醸し出してさえいる。
「相変わらず礼儀とは無縁ですね、君は。少しぐらいお兄さんを見習って身につけたらどうですか?」
「あのさ~、俺、あんたと馴れ合うつもりはないからとっとと要件だけ話してくれる?」
無礼以外の何ものでもない態度をとり続けている白夜が先を促せば、男性の右眉がほんの少しだけ上下する。
「世間話にすら付き合っていただけないとは、いやはや、随分と嫌われてしまいましたね。嫌われるような事した覚えはないんですが」
「無自覚なのか、それともはぐらかしてんのか。どっちもタチが悪いが、とりあえず嫌われたくないって小さじ一杯分ぐらいでも思ってんなら、とっとと引っ込めろよ」
「やはり、バレていますか」
白夜の言葉に思うところがあったのか、男性は両手を挙げてその場で降参のポーズをとる。ただそれは形だけであり、相変わらず細められた双眸は猛禽のごとく彼の一挙一動を見逃すまいと警戒している。
「そんで、要件は何? こっちだって暇人ってわけじゃないんだ。手短に済ませようよ」
パーカーのポケットに両手をつっこみ、男性へと向き直った白夜はウエイトレスに注文を頼むとほぼ同時にテーブルに右肘を立てて掌に顎を載せる。彼が右手の指に絡ませた鎖の先、懐中時計が視界に入った瞬間に男性は額に脂汗が滲んできたことを実感する。
「実力行使も辞さないと? この場合、そう受け取らせていただいてよろしいでしょうか?」
「いちいちへりくだって聞いてくるなよ。ただでさえあんたの表面だけ取り繕った笑顔と敬語には嫌気が差してるんだ。もう一度だけ言う。梟、とっとと要件を話せ」
内側からこみ上げてくる殺意に身を任せて目の前の青年を亡き者にしてしまえればどれほどの幸福感を得られるだろう。心の天秤を大きく傾けながら梟と呼ばれた男性は思考するが、
「人の言葉が聞こえないなら、耳はいらないよね」
他人事のように軽く口にした白夜の言葉で心臓を直接掴まれる。内側からこみ上げてきた殺意はなりを潜め、代わりに顔を見せた恐怖が天秤を大きく傾ける。喉がやけに乾き、脂汗が頬を伝って落ちてくる。
「失礼、取り乱しました。本日はお返事を頂くために参上致しました次第です」
「返事? 何の?」
「かねてより兄君は貴方様のお力を必要としておいでです。首を縦に振って頂くことは叶わないのでしょうか?」
梟は慢心に駆られた自分の心を叱咤し、恐怖を奥底へと強引に押し込んで言葉を口にする。先程までは表面だけだったが今は違う。本当に敬っているからこその敬語。目の前にいる青年は自分の半分程度しか生きていないがそれは瑣末なこと。彼は自分が忠誠を誓った人物の弟であり、その人物が行動を容認している。しかも彼が首を縦に振ればすぐにでも副官に取り立てられる。最初から自分とは立場が違う。
「本当に必要だと兄貴が判断したなら、兄貴が直接連絡を取ってくる。あの人はそういう人だ。本当に大事なことは人任せにしない、他人をいい意味でも悪い意味でも信用しない人。たった一人の肉親なのにドライすぎるって言うなよ? 俺もそうだけど、あの人も結構今の関係を気に入ってるみたいだから」
そこで白夜は立ち上がってこれ以上用はないと言わんばかりに背中を向けて歩いていく。そのせいで彼が注文した湯気を立て、芳醇な匂いが香るブレンドコーヒーは彼ではなく梟の目の前に置かれ、
「あんまり家族の問題に他人様が顔突っ込んでくるなよ? 俺の今言ったことが守れないようなら火傷じゃすまないからさ」
背中越しに軽く手を振って店から白夜は出て行ってしまう。それと同時に梟は彼の言葉の意味を理解する。コーヒーカップが下からその形だったと主張するようにゆっくりと縦に開き、中身がテーブルに広がって彼の太ももにも溢れてくる。慌てて店員がタオルを片手に近寄ってくるがその言葉が耳に届かないほど彼は動揺していた。コーヒーの熱さなんてまるで感じない。全身が自分のものであることを拒否した錯覚とともに。
喫茶店を出た白夜の視界に飛び込んできたのは政府関係者が黙祷を捧げている映像を映し出している巨大モニター。数多くの報道陣から向けられるマイクとシャッター音を受けながら会見をしている政治家を見ながら、彼はガードレールに腰を下ろす。
「あそこは変わらない。変わりようがない、か」
自分が慣れ親しみ、十年前から一切の変化を見せない街を見て少しだけ白夜の心がざわつく。あの場所には多くの思い出があり、思い出がそのままの形で残っている。今では関係者といえど一歩たりとも侵入を許されない特別進入禁止地区指定を受けてしまった場所。あの場所に行けば何か変わると子供心で考えなかったわけではない。だが自分が遠く及ばない知識や技術を持つ者たちがつきとめられることのできない原因を彼が理解できることもなく、時間はこうして経過してしまっている。思い出は過去に変わり、少年は青年へ。経験していないことをいくら言い聞かせられたところで、それは知識であり実感ではない。実感であったとしても、その実感でさえ時間の経過で薄れていってしまうのだから『神無月の停滞』と銘打たれたこの悲劇さえいずれは過去の一件として記されることになり、本当の意味で知る者はいなくなる。
「俺はこうして大人になったっていうのに、あいつらは子供のまんまなんだよな」
あの場所には自分の友達がたくさんいる。いたという過去形ではなく現在進行形で子供の姿のまま時を止めている。十年、白夜の身長は伸びて顔つきも若干ながら変わった。彼らに今出会ったところで自分のことを自分と認識してくれるかどうかさえ疑わしい。これが忘れられる悲しさなのだと実感し、彼は今も眠り続ける大切な人へと言葉を投げかける。答えが返ってくることは期待していない。雑踏にすぐさま飲み込まれてしまうことも分かっているのに口にせずにはいられなかった。
「琴乃さん、あんたが今の俺と兄貴を見たら幻滅すると思う。でもさ、人間ってやつは理屈じゃわかってても納得できないことってやつがあるんだ。俺は諦めを受け入れ、兄貴は諦めを拒絶した。どっちが正しいのか、怖いから聞かないけど。答えをいつか聞かせてくれるんじゃないかって希望だけは奪わないでくれよな」