レモンドロップワールズエンド
悲鳴や怒号がたくさん聞こえる。
迎えに行くから、そう言った彼の言葉を信じて、彼女は裸足のままで走り出した。
暗い色をした雲がずっと太陽を覆い隠している。日の照らない暗い砂利道を、息を切らして彼女は先へ先へ進んでいく。靴は既に擦り切れて役に立たなかったので放り捨てた。硬いものなど踏んだことない柔らかな足に石が食い込んでひどく痛んだが、そんなこと構わなかった。
混乱を極める人間たちの中で、彼女だけがその瞳に確かな光を携えていた。神様なんていらない。世界なんてどうだっていい。私は、彼と生きて行きたい。
あの日彼がくれた飴のようなレモン色の雨が、頬にぽつりと流れた。
彼女は世界の均衡を保つ存在として、物心つくより前から、森の中にあるとても広いおうちで、たくさんの人に囲まれ生きてきた。部屋には大きな姿見、やわらかなソファ、天蓋付きの寝台、大きな暖炉。部屋の広い窓からのぞく庭は手入れが届いており、様々な植物がいつの季節も目を楽しませた。そのおうちに住んでいるのは彼女だけではない。とてもたくさんの人と一緒に住んで、寝て、起きて、だけど彼らは彼女に会うと決まって頭を下げてしまうので、顔を見たことはない。彼女が知っているのは、彼女の世話をする召使と、たまに訪れる「お偉いかたたち」と、このおうちで一番えらい修道長と呼ばれていた人だけだ。
毎日手を引かれて大聖堂の壇上に立ち、大勢の人間が彼女に祈りを捧げる。物心ついた時にはすでにそうするのが当たり前だったので、そのことに疑問を抱いた事はなかった。
君はこの世界の救い手なのだと、君がここにいれば世界は平和であり続けることができるのだと、修道長はいつも彼女に言っていた。この世界について、神様のことについて、自分の役割について、全て修道長から与えられた本で学んだ。だが、知識は教わっても、彼女は疑問を持つ事を教えられなかった。自分がその役割を負う意味、神様がそれを課す意味。そして、そもそも世界とは何なのか、均衡とは何なのか、自分は一体何者なのか。彼女にとって、”おうち”だけが世界の全てであり、知識が正しいと教えられることを当然疑うはずはなかった。
そんな、喜びも悲しみもなく、ただの人形のように過ごしていくはずだった日々。これからも当たり前に続いていくはずだった日々。彼女の日常に訪れた一つの出会いが、世界の終焉への始まりだった。
それは彼女が初めて一人で庭を散歩していた時のことだった。茂みが不自然に揺れて、一人の青年が飛び出してきた。見慣れない服装だ。色味がなく、毎日おうちで共に暮らしている人たちの白く柔らかなものとは全く違う窮屈そうな服だが、全く見覚えが無いわけでもなかった。何度か会った「お偉いかた」が似たような格好をしていた気がする。他人に対して警戒をする必要のない環境で生きてきた彼女は、「お会いするかたには失礼のないように、まずあいさつをしなさい」としか教わっていなかった。初対面のかたに失礼があってはいけない。驚いてしまった事の謝罪と、挨拶と、自分の名前を伝え、彼女は丁寧に頭を垂れた。そんな彼女を見て、青年は安心したように笑い、自分の名前を返した。昼下がりの日差しが木の葉に透けて、とても爽やかな日だった。
秘密だよ、と言って彼は語り始めた。
この世の中は間違っているのだという。世界が平和であると言うのは、市民から搾取して生きているこのおうちの人たちだけ。世界が崩壊するだとか、ありもしない脅しを使って、このおうちの人たちが世界を支配し続けている。自分たちはそんな世を正しい方へ導くために革命を起こすのだ、と。
彼女は”革命”を知らなかったが、不満を持っている彼が何か行動を起こすのだという事は伝わった。だが考える事を知らない彼女には、その本当の意味がわからなかった。何度か会った「お偉いかた」と同じ、正規軍の制服を着ている彼が、革命を起こすと言っている意味を。
そして彼は続けた。君も彼らに利用されている被害者だ。世界に縛り付けられている君を、必ず救ってみせる。いつか必ず迎えに行くから。
よく理解できなかった彼女に、彼は笑って頭を撫で、レモン味の飴を手渡した。だが、彼女は初めて見た飴というもののやり場に困った。白くて、硬くて、丸くて、淡く黄味を帯びたそれを持て余していると、彼は、女の子は甘いものがすきでしょう、と言って彼女の口に放り入れてくれた。優しい甘さがゆっくりと口の中に広がっていく。初めて食べた飴というものに、彼女は確かに感動を覚えていた。これまでの人生を、喜びも悲しみもなく生きてきた彼女にとって、それはとてつもない衝撃だった。
彼と別れて部屋に戻った時、勝手な行動をした彼女をおうちのひとたちは咎めた。一人で庭にいたのか、そう聞かれて、彼女は思わずそうだと答えた。彼女はその日、初めて嘘を吐いた。
彼との出会いで、彼女には望みが生まれてしまった。彼女を取り巻くこの世界は正しくないのだと彼が言った。本当に正しいのか正しくないのか、それは彼女にとってどうでも良いことだった。ただ、これまで当然のように世界のすべてだと思っていたこの場所とは違う世界があるのだと彼女は知ってしまったのだ。ずっとここで過ごす事が世界の幸せのためであり、それが彼女の幸せであると大人たちから教えられてきた。だがあの日彼女は初めて、世界のためではなく自分のために生きる事が出来るのではないかと思ったのだ。
彼女の人生に初めての喜びをもたらした彼は、まだ幼い彼女にとって神よりも尊く彼女の生を照らすただひとつの光になった。あの日彼が語った言葉は、彼女にとって、世界を救うという彼女自身を救ってくれる道しるべに思えた。とたんに彼女にはこれまで過ごしてきた日常が色あせて見えた。だが、あの日の記憶はいつまでも色あせない。
あの光を追いかけてもいいだろうか。いつか迎えに来てくれると言った彼を。あの甘く優しい飴の味を。あの日からちょうど一年後の今日、彼女はこの世界を捨てる事を決めた。
まだ見ぬ世界への抑えきれない期待から、彼女はついに檻を飛び出した。期待のまま森に足を一歩踏み出した時、優しい日差しが、茂る木々が、踏んだ土が、彼女を守り育むものであった世界が敵意を向けた。鳥の囀りも消え、爽やかだった森の風が生ぬるく足元を吹き抜けた。豹変した世界にぞくりと肌が粟立ったが、ぴりぴりと突き刺さる拒絶感を振り切り、すくんだ足を動かした。遠くで森の異変に気付いた誰かが彼女を呼んでいる。いけない、と思った。このままでは彼女がいないと知られるのは時間の問題だ。もう彼女を縛るものは何もないし、あのおうちに戻ることは二度とない。蔦葉や枝で肌が傷つくのも構わずに足を速めると、やがて森を抜けた。
これが自分の役割だったのかと、体の奥まで届く大きな地響きを聞きながら、彼女は思った。ついさっきまで空の真上で照っていた太陽はいつのまにか消え、どす黒い雲がうごめいていた。全てを捨てた彼女にとって、神も世界ももはやどうなろうと知った事ではなかった。むしろ、嬉しいと思った。自分の役割もその意味も、おうちに居たよりたくさんの数の人間がいたことも、外の世界に触れて初めて知る事が出来たのだ。強烈な生の実感を彼女は感じていた。こんなに心が動くことはない。全ては彼のおかげなのだと思うと、喜びが胸に溢れて止まらなかった。早くこうすればよかった。迎えを待つのではなく、自分から彼のもとへいけばよかったのだ。息は切れもう靴もなくて体はたくさんの小さな傷でいっぱいだったが、自分の信じた光に向かって走るのは全く苦ではない。逃げまどう群衆の中で、彼女だけが喜びに満ち溢れた表情だった。
依然地響きは止まらず、雲は天を低く覆う。やがて薄暗い街に雨が降り始めた。あの日彼がくれたレモン味の飴に似た、薄く黄味がかった水滴がぽつりぽつりと落ちてきた。だんだんと雨粒は大きくなり、レモン色の雨はジョウロから花に水をやるようにさわさわと音を立てて降り出した。次第に強まる雨に打たれて、人々は違和感に気がついた。気のせいではない、雨が痛い。雨に打たれた肌がやけどをしたように痛むのだ。どんどん色の濃くなる雨は、群衆をより一層混乱へと叩き落とした。
混乱の坩堝に飲み込まれながら、彼女はなおも前を向いていた。本当は、迷いも恐れもある。初めて見る世界で、群衆は我先と自分を押しのけ進み、あの日と同じ優しいレモン色は自分を傷つけようと襲いかかる。彼女が立っていられるのは、あの日の彼の言葉が彼女にとってたったひとつの希望だからだ。全てを捨てた自分に頼るものはもうない。彼に会いに行けば、それで自分は報われる。自分は彼と生きていき、そして、永遠に幸せになるのだ。
レモン色の雨は弱まるばかりか、さらに強まっていくようだった。雨を避けるように人々は屋根を探し、うって変わって閑静になった街路を彼女一人だけが歩いていた。一向にやまない雨はすでに服の下までしみ込み、地面を流れる雨水が彼女のむき出しの足に纏わりつく。息切れする体が空気を欲して口を開けると、頭から流れた水滴が入り舌が痺れた。服もさえ溶かす程の雨に打たれ続け、彼女の体力は既に限界だった。足が重い。顔を流れるのは雨か涙かもうわからない。ついに人気のなくなった道で立ち止まった時、彼女はつぶされ破れかけた新聞が足元に転がっているのを見た。彼女は新聞を知らない。だがまるで何かに導かれるように、ほとんど動かない腕でそれを拾い上げた。
破れ溶けかけ、路上に捨て置かれたただの新聞をその時彼女が拾い上げたのは、まさに運命以外の何物でもなかった。
誰もが息絶えやがて全てが無に帰す世界で、一人の少女が墓標の横で眠るように寄り添っていた。
少女を咎める人も、責める人ももはやいない。
静かな二人の世界に、レモン色の雨だけがやさしく降りそそいでいた。
彼女も彼も、最後まで間違えた選択をしてしまいました。彼が正しいと信じた事は間違いだし、彼女が初恋を貫く事も間違い。
間違いを貫いた彼女は世界の全てを犠牲にして、彼に寄り添って最期を迎えるという自分の幸せを掴みました。
それは彼女にとっては正しい事なのです。