第七章 ~鳥籠~
アールマンが戦場に帰還し、カルマと〝勇者〟の死を両軍に知らしめたことで、既に軍勢としての形も保てていなかったエンピス軍の将兵はすぐさま投降を申し出た。軍の要であったディアンが敗れ、最大戦力とされていた〝勇者〟の死亡、更には大将であった国王までもが命を落としたことで、戦を続ける意義を見失ってしまったのだ。
イーヴィス軍はこれを認め、エンピス軍から武器を没収した後、負傷兵と一部の指揮官のみを残して残りの兵は自国へと撤退させた。その後にアールマンは死者の選別や輸送等の処理を部下に任せ、負傷した兵や捕虜と共にエルデ平原へと引き上げた。
「──と、そういう経緯なわけだ。結果的に対峙してから三刻も経たずに戦は終わった。規模の割に早く済んだな」
現在エルデ平原には、そこかしこにコルビンから運ばれた大量の薬箱が並べられ、招集された医師たちが治療のために奔走する光景が広がっている。
設置された数ある天幕の中、並べられた寝台の一つの上で胡座をかいたアールマンがまとめた言葉に、その膝に座っているユウリが頷いた。
彼らが話している相手は、隣の寝台に寝かされ、老医師の診察を受けているリィンである。
「…………申し訳ありません、陛下」
沈黙の後にそう口にしたリィンは、横目でアールマンの顔に貼られた綿紗を見つめる。
「私の実力不足のせいで陛下にお怪我を」
そう言って目を伏せるリィンに、腕を診ていた老医師が口を挟む。
「貴女は他人の怪我より自分の怪我の心配をしなさい。まったく、どうしてうちのお偉方は無茶をなさるのか。己の立場を理解しているのか怪しい限りですな」
じろりとアールマンを見ると、アールマンは空々しく愛想笑いを浮かべた。──部隊の兵を撒いての単独行動に関しては、既に数十人から説教を受けた後だ。これ以上は勘弁願いたい。
「はは……。あー、ところでグラッド。リィンの具合はどうなんだ?」
話を逸らそうとするアールマンに溜め息を吐き、老医師グラッドが診断の結果を告げる。
「怪我や火傷自体は治癒可能な範囲です。痕も残らないでしょう。ですが、強化魔術によって酷使したことによる反動とでも言いましょうか、魔術神経に異常が見られます」
「異常?」
「はい。失礼ながら、将軍は人間族との混血という生まれ故に、魔術神経が平均的な魔族よりも随分と虚弱に出来ています。今回の一件で将軍の魔術神経は傷つき、酷く消耗している状態にあります。一医師として申し上げますと、将軍には首都の病院にて三ヶ月は入院していただきたいところです」
「なっ、そんなに、」
体を起こして否を唱えようとするリィンを片手で制し、「ですが」と続ける。
「自他ともに忠誠心の塊と認められる将軍が、長期間陛下のお側を離れることを拒絶なさるのは自明の理。故に代案として、怪我の手当てに一週間の安静、及び向こう半年間の魔術使用を制限させていただきます」
「む、む……」
元々リィンは魔術に頼る生活はしていないので、その使用を禁じられた所で困りはしない。だが、これからの情勢の変化を考えるとその指示に素直に頷くことは出来ない。鍛え上げられた肉体以外に特殊な能力も持っていなかった人間族の将軍に敗北しかけた身としては、捨て身とはいえ奥の手が封じられることに不安感が残る。
「ふむ」
唸るリィンを見かねたか、アールマンが口を開いた。
「もし無視して魔術を使ったならばどうなる」
「魔術神経が欠損し、良くても全身の何処かに麻痺が残り、最悪の場合死に至ります。神経と名が付いていますが、役割としては血管のようなものですからな。一カ所でも切れてしまえばそれまでとお考え下さい」
グラッドの説明を聞いたアールマンは一度頷き、リィンの目を見て言う。
「では俺から命令しよう。リィン、グラッドの指示に従え」
「へ、陛下」
「それと、無理を通したところをユウリに救われたそうだな。〝盾〟の反撃に遭う寸前だったとか。──今回は大目に見るが、二度同じ無茶をしてくれるなよ」
リィンが奥の手と称している零距離での最大火力放射。アールマンはそもそも、あれを手札として認めてはいなかった。
「は……はい……」
厳しく諌めるような眼差しに、直視出来ず俯くリィンの頭をグラッドが撫でつけ、アールマンに無表情で歩み寄る。
「陛下も他人事では御座いませんぞ。程度は違えど、魔術神経を酷使したことに変わりはありません。この際なのではっきりと言わせていただきますがな──一国の王が一人で敵陣を横切るなど聞いたこともありませんぞ!勝つための行動とはいえ、御身に何かあれば、イーヴィスが立ち行かぬことをお忘れか!ただ一人の王族であるという事をお忘れか!」
グラッドの喝にユウリが驚いて寝台から飛び降り、リィンの側へ逃げ出した。軽くなった膝に手を置き、アールマンは目を細めてグラッドを見る。
「古参の連中は皆同じことを言うな。では聞くが、勝つために手段を選んでいられるような状況だったか?砦一つ犠牲にして痛手を与えたとはいえ、数の上では圧倒的に不利だった。確実に勝ち戦にするにはカルマ・エンピスの首を取るしかなかった。あちらも戦場を離れていたからな、無駄にするには惜しい好機だった。兵を率いていては俺の動きが悟られる。だから部隊の者に指揮を任せて単独行動に打って出た。そもそも、〝勇者〟の相手は俺がすると軍議でも言ってあったはずだが?」
「それは部隊の将兵ありきでの話です!なにも陛下御一人で敵陣に立ち入ることはなかったでしょう!そもそもを言うならば、何故ユウリ様と行動を共になさらなかったのです!竜人族の姫たるユウリ様がお傍にあることも、我らが陛下の参戦を認めた条件ですぞ!」
「エンピス王の居場所を知ったのと同時にリィンが苦戦していると報告があった。リィンはイーヴィスに必要な人材だ。死なせるわけにはいかないから救援に向かわせた」
「……将一人の為に、御身を危険に晒されたと仰るか」
「そうだ」
「なんと愚かな!」
「もうお止めください!」
体をわななかせ、アールマンに詰め寄ろうとするグラッドを、リィンが叫ぶように止めた。
「責は私が負います! 私の力不足が原因なのですから、それが道理でしょう!」
「ユウリも、同じ。アールを怒っちゃ、だめ」
体を起こして訴えるリィンを後押しするかのように、ユウリがその横から自らの非を訴える。
そんな二人の様子を見て、グラッドは力を抜くように深呼吸して溜め息を吐いた。
「……私とて、怒るよりも戦勝を祝いたい。しかし、陛下の死まで看取らねばならぬのかと思うだけで、この老骨には堪えるのですよ」
「そういえば、最期に父上を診たのはお前だったな」
「はい。……改めてお願い申し上げます。どうか、御自愛くださいませ。親子二代に渡ってその死を見送るというのは、辛うございます」
涙を浮かべて平伏する老医師に、アールマンが深く息をはいて頷く。
「分かった。今後はこのような無理はしない。それでいいか」
「はい」
二人の主従を見つめ、リィンは決意を新たにする。
──いつまでも心配をかけてばかりの未熟者ではいられない。もっと強くならなくては。
「しばらく休め」とグラッドを下がらせたアールマンは、リィンの雰囲気の変化に気付いて片眉を持ち上げたが、特に何を言うことも無く寝台に横たわった。意地を通すのは、とても疲れる。
傷を癒すためにエルデ平原での滞在を始めて五日目の昼。
既に病室代わりの天幕から本営の天幕へ移っているアールマンは、戦後の報告書や本城から送られてきた決裁書に目を通す等、いつも以上に忙しい時間を過ごしていた。
なぜ早々に本城に戻らないのかというと、リィンの回復を待つのも理由の一つではあるが、一番の要因は時間が勿体無いと判断したからだ。
既に各地から招集した軍は解散して自領に戻り、傷の癒えた兵も次々に帰還しているのだが、それと同時に避難していた民も元の住居に戻ってきている。だが、エンピス軍の進路上であったが故に土地が荒らされていたり建物が壊されていたりして、元の暮らしが送れない者もいる。そういった者達からの陳情に対応するため即座に指示が出せるよう、一段落するまで逗留することにしたのだ。王自らが近くで耳を傾けていると印象づけることで世論を味方につける策でもある。
「陛下、おられますか?」
街道整備の為に兵を動かしてほしいという陳情書に目を通していたアールマンに、天幕の外から声がかけられる。この地で聞こえるはずのない声に少なからず驚きながらも、平静を装って中に入る許可を出す。
「失礼します」と言って入ってきたのは、本城に置いてきたはずのファルン卿だった。
「お前が来るとは、何があった」
火急の用事だろうと促すアールマンに、ファルン卿は一礼して答える。
「エンピスより、使者が参りました」
「ほう、早いな。それで?」
「陛下との面会を求められたので、お連れいたしました」
名代として残したファルン卿が直々に連れてくるような者となると、そうとう高貴な人物なのだろう。思い当たる人物の名を思い浮かべつつ、アールマンは連れてくるように命令する。
一度外へ出て、戻ってきたファルン卿の後ろについてくるように入ってきたのは、これまた城に置いてきたはずのセリスと、どこか彼女と似通った容姿をもつ人間族の青年だった。
「これはこれは、まさかエンピス王子が直々に出向いてくるとはな」
「誠意を感じるだろう?」
王子と呼ばれた青年がアールマンの言葉に肩をすくめて返す。彼の名はブラン・エンピス。カルマが没した今、事実上のエンピス国最高権力者でもある、セリスの実兄だ。
まるで旧知の友のように話し掛けてくるブランに眉を寄せつつ、アールマンは話を促す。
「誠意などと、自分で言うことか。用件を言え」
「本題の前に謝罪を。亡き父王が貴国に対し武力をもって侵攻したこと、申し訳なく思う。同時に感謝を。君が父王を討ってくれたお陰で国政を立て直す切っ掛けが出来た」
腰を折って述べるブランにアールマンが溜め息を吐く。
「『お陰で』などと良く言えるものだな。仮にもお前達の父親の仇だぞ、俺は」
「戦場の生き死にを終わった後でどうこう言うのは潔くないだろう。それに今更取り繕う必要もない。父の方針で国政が傾いていたのは事実だしね。それに、この子のこともある」
そう言ってセリスの肩に手を置き、前に押し出す。アールマンの前に立たされ、視線をさ迷わせるセリスにブランが後押しする。
「さあセリス、言いたいことがあるんじゃなかったかな?」
「うぅ……、あの、その………………うわーん!」
しどろもどろに何かを言おうと口を動かしていたが、緊張に耐えきれなくなったのか大声をあげながら天幕から飛び出していった。
「……なんだったんだ」
呆然と呟く。
「話したいことは数あれど、いざ目の前にすると何を言っていいのか分からなくなった、と言ったところかな」
ブランは苦笑しつつ、穏やかではない妹の心境を説明してやる。──我が妹はしばらく見ないうちに面白い成長をしたものだ。
「わからん奴らだ。……まあいい。ファルン、セリスを任せる」
「よろしいのですか?」
横目でブランを見ながら問うファルン卿に、アールマンが頷く。
「問題ない。──知っているだろう?」
「では、御意のままに」
アールマンとブランに一礼して天幕から出ていくファルン卿を見送り、アールマンが先に口を開く。
「正式に会う時は初対面で通すと決めておいたはずなんだが?」
「あれ、そうだったっけな」
覚えていないとでも言うように首を傾げながら、ブランは手近にあった椅子に座った。
「相変わらず気の抜けるやつだ」
「そういう君は少し堅くなったな。打ち合わせの時はもっと肩の力が抜けてなかったかい?」
「こうも面倒事が続けば堅くもなるさ」
首を振って肩をすくめるアールマンに、ブランが「お疲れ様」と労いの言葉をかける。
友人のように会話するこの二人、実は初対面ではない。
半年前、イーヴィス本城にて、エンピスから差し向けられた〝勇者〟と戦った先代魔王が相討ちするという大事件が起こった。アールマンは〝勇者〟の持っていた聖剣を持ってエンピスに出向き、カルマに直接抗議に向かったのだが、カルマは『今回の事件にエンピスは関与していない。功名心に焦った〝勇者〟が独断で向かったのだ。聖剣は盗まれたも同義。被害者である我らに非はない』と、証拠品である聖剣を取り上げた上にアールマンを城から追い出した。失意の中帰路につくアールマンの前に、ブランは現れたのだ。
父王の政治姿勢と今回の事件に対して疑問を抱いていたブランは、アールマンに父の横暴を謝罪したあと事件詳細を訊ね、一通り聞き終えた後アールマンに協力を願い出た。
その内容は『父を討つ手伝いをしてほしい』というもの。
アールマンは罠の可能性も考えたが、思う所もありその提案を承諾する。その後イーヴィスに戻り、失意と暗殺に怯える体を装いながら自室に篭もって準備を整えつつ、共犯者でもあるファルン卿の助けを借りて陰でブランと情報の共有を図っていたのだ。
今回の人間族と魔族の戦いというのは、この二人が中心となって引き起こしたと言っても過言ではない。
「そういえば、ルーフェは何か言ってきたか?」
「ああ、『どうにかして〝勇者〟の遺体を取り返せ』だってさ」
「そうか。詳しく調べられては困る代物だからな」
魔術大国ルーフェには良くない噂が多い。他国の者を拐って奴隷にする、国境の森に迷いこんだ人間を捕まえて人体実験を行っているなど様々だ。その中の一つに『魔術神経を持たない種族への魔術神経移植実験』というものがある。
その内容は、死亡した魔術師の魔術神経を生きた被検体へ移植し、魔術を扱えるように改造しているというものだが、各国の研究者の間では正気を保つことはおろか命を落としかねない非人道的な実験、死体を弄ぶ非道な行いと非難されている。
ルーフェは『根も葉もない噂』と否定しているが、ルーフェからイーヴィスへ亡命した者の一部が事実だと認めているためにほぼ全ての国で現実視されていた。
〝勇者〟はその実験の成功例だった。──軍議の際家臣団の一人が勇者の出現時期には早いと意見していたが、その見解は概ね正しかったのだ。あの場では自分が動きやすくするために場を濁したが、アールマンはブランとやり取りする間に〝勇者〟の秘密に見当をつけていた。予想通り〝勇者〟自体の能力はそう高いものではなかったが、誤算は彼が所持していたルーフェ謹製の魔法石が魔術国家の名に恥じない戦闘力を有していたことか。
自分達の創造物に対する信頼と他種族への侮りもあったルーフェは今、機密を隠蔽することはもとより、今後の研究の為にも一刻も早くその死体を取り返さねばならなくなった。敗北の可能性は想定していても、ここまでの大敗を──そして〝勇者〟の死を予期していなかったルーフェの大失態である。
「輸送の準備は出来ている。要望通り送り返してやろう。あとは連中の好きにさせるといい」
「これでルーフェへ貸し一つ。うまくいったね」
「ああ。無理を通した甲斐があった」
アールマンが〝勇者〟が偽者と知りつつも本物のように扱っていた理由が、この『ルーフェを黙らせる弱みを握る』ことだった。
今回の戦において、戦況次第でルーフェはカルマを暗殺し、〝勇者〟を使ってエンピスを傀儡にするつもりだったらしい。その目論見も失敗し、結果的に大損をしたルーフェがエンピスに何らかの因縁をつけてくることは想像にかたくない。場合によっては侵略行為に及ぶ可能性もある。
そうなってはエンピス再建を計画しているブランと、彼と協力関係にあるアールマンにとって面倒なことになる。そうなる前にルーフェを黙らせる抑止力を手に入れたい。その為に必要だったのが実験の証拠である〝勇者〟の肉体だった。アールマンが単独行動に出たのは、好機であったこととは別に、〝勇者〟が紛い物であると悟られることなく仕留める為でもあった。
ルーフェには及ばないまでもイーヴィスは魔術技能に長けている。そんな国が〝勇者〟の秘密に気付かないはずがない。知っていて黙っている。既に確たる証拠を握られているのではないか。そう思わせる状況を作る事が重要だった。
「とは言え、そう長く揺さぶれるとは思えない。早々に力を付ける必要があるぞ」
「わかっているよ。ここからは僕の仕事だ」
立ち上がったブランがアールマンに手を差し出して握手を求める。
「近い内にまた来るよ。調停案は打ち合わせ通りでいいかい?」
「ああ」
握手に応じて頷く。そこで思い出したように、「あ」と声を上げた。
「そうだ。お前のところの頑固じじい、来たついでに連れて帰ってくれ。意識が戻るなり『さっさと殺せ』と煩くて敵わん」
「ディアン、生きていたのか?」
ここに来て初めて、ブランが目を丸くして驚く。
帰還した兵からの報告で、ディアンはイーヴィス軍将軍の魔術に焼かれ、竜人族の拳に倒れたと聞いていたからだ。
「ああ。俺も後から聞いて驚いたよ。あのじいさん本当に人間族か」
まあ、同じく炎に巻かれていたというリィンが生きているのだからより頑丈そうなディアンも生きていて不思議はないのだろうが、火傷の規模と年齢を考えると驚異の一言である。
「わかった、大人しく応じてくれるかは分からないけど、どうにか説得して連れて帰ろう。ディアンが味方についてくれれば、渋っている大臣達も大人しく調停に賛成するだろうし」
兵を呼んで案内するように命じ、ブランを見送ったアールマンはファルン卿が戻ってくるまでと、仕事の続きに取り掛かった。
しばらくして、天幕にセリスが一人で戻ってきた。付かせていたはずのファルン卿の姿がないことを怪訝に思い、アールマンが問う。
「ファルンはどうした」
「あの、鳥さんはリィンの様子を見に行くと仰って、その」
しどろもどろに話すセリスに、なるほどとアールマンは思う。
おそらく、自分と二人きりで話しをさせるためにセリスを説得した後一人だけで帰したのだろう。見るからに様子のおかしいセリスに、アールマン自身もその必要性は感じていた。
「話したいことがあるなら俺の目を見てしっかり話せ。叱られたばかりの子供か、お前は」
……言葉を選べるかどうかは別として。
不意討ち気味に叱責されたセリスは一瞬たじろぎ、俯いて肩を震わせた。
「────んの」
「ん?」
「魔王さんのばかぁ!」
腕を組んで待ち構える姿勢を取るアールマンだったが、目に涙を浮かべて睨むように顔を上げたセリスに軽く身を退かせた。
「なんでそんなにいじわる言うんですか!リィンやユウリちゃんは甘やかすくせに、不公平じゃないですか!お兄様から聞きましたよ?魔王さんはお兄様のお友達で、私をお城に置いていたのはお兄様に頼まれていたからだって!どうして言ってくれなかったんですか!」
──あいつ、余計なことを吹き込んでどういうつもりだ。友達云々はさて置いて、城に置いておいた理由に関してはその通りだから否定もしづらい。
肩を怒らせたセリスに詰め寄られながら、既に帰路についたブランに悪態をつく。
「なんで、なんで──」
膝をつき、鼻をすする。
「なんで、そんなに優しくするんですかぁ……!」
それは悲鳴のような、慟哭にも似た訴えだった。両の手では拭い切れない涙が、腕を伝って床に落ちていく。
──この数日間、セリスが何をどう想っていたのかをアールマンは知らない。
アールマンが城を出た日、愛されていると信じていた父親に裏切られた少女の心は酷く空虚なものであった。
今まで自分が抱いていた想いは全て、父親であるカルマに与えられた紛い物。カルマへの信頼が壊された今、これまで培われた信念や志といった生きるために必要な土台までもが失われてしまっていた。
そんな彼女に声をかけたのは、セリスを我が孫同様に接し、家事仕事も教えてくれたメイド長だった。
メイド長はセリスに、アールマンはセリスが自分の意思を持てるよう様々な経験をさせ、自身の判断で父親への信頼を断ちきれるよう成長させるつもりだったのだと教えた。当のメイド長がその事を聞いたのは、セリスの『仕事をしたい』という願いを叶えるため、アールマン直々に頼まれた時だという。
『陛下はお優しい方よ。でも、どれだけ相手に心を砕いていたとしても、水を掻く白鳥のように絶対に気付かせたりしないわ。先代様がお亡くなりになられてからは特に』
『陛下を嫌いにならないであげて』と残して目の前から立ち去ったメイド長の言葉を反芻し、途端にセリスの胸中に悔しさが込み上げてきた。
──どうしてあの人は、こんなに慕われているのだろう。どうしてみんな、あの人に寄り添いたがるのだろう。どうして私は、何も気付かなかったんだろう。
悔しさにまた涙し、袖を濡らした。そうして考え、思い返す内に、セリスは今の状況を思い出した。──自分はまた、守られているんじゃないか?
アールマンは勝つためにセリスを利用出来たはずだ。カルマへの説得は無理でも、セリスを戦場につれていき、イーヴィス側からエンピスの兵に呼び掛けさせるだけでも効果はあったはずだ。それどころか、人質にするという手だって。
都合のいい解釈かもしれない。本当はもっと根拠のある理由があるのかもしれない。でも、とメイド長の言葉が脳裏をよぎり、それがセリスの答えになった。
──あの人は、本当は優しい人なんだ。
堰が切れたように涙が溢れるセリスの顔を、アールマンが手拭いで拭う。そして答える。
「俺が優しいとは随分と曇った目だな。優しいやつはそもそも戦なんかせずに他の道を模索するものだ」
自分は優しくないと断じるアールマンに、セリスが「それでも」と彼の目を見つめる。
「あなたは私を鳥籠から出そうとしてくれました」
「ブランに何を言われたのかは知らないが、勘違いだな」
「それでもいいんです」
「……なに?」
眉をひそめるアールマンの頬を、セリスの濡れた手が触れる。
「私の鳥籠を壊してくれたのはあなたです。私がそう思っていられれば、それでいいんです」
そう言って顔を近付け、ほんの少しの間だけ唇を重ねた。
急な展開に身動きの取れないアールマンの頬から手を離し、にっこりと微笑む。
「私、頑張りますから。先にお城に戻りますね!」
服の袖で顔を拭い、外へ飛び出していく。
「…………なにをだ」
呆然と呟いたアールマンの声は誰に届くでもなく、天幕を揺らした風に拐われるように消えていった。