二話 第一章 ~巨大湖の漂着物~
ラピス大陸の南西部に巨大な湖がある。ウルク湖と名付けられたその湖は水源としてだけではなく、水産物豊富な場所でありながらも〝雑種の国〟イーヴィス、〝祖の国〟エンピス、〝獣の国〟ハイビス、〝鳥の国〟イスカの四か国に面しているが故に、過去にはその保有権を巡って争いを繰り返した。しかし四つ巴の諍いに決着が着こうはずもなく、果ての無い争いを嫌った四国の代表らによって和解案が練られ、その結果どの国も占有権を持たない中立地域としてラピス大陸のなかでも特に稀有な場所として知られている。
独占されていない故にその恩恵も等しく分けられるべきものとして、四国の認可を得た者ならば漁を行うことも認められていた。個人単位での釣りなどに特別な制限はないのだが、漁船を使い大人数で行う漁にはいくつかの取り決めがあり、その代表的なものに〝春にはイスカ、夏にはハイビス、秋にはエンピス、冬にはイーヴィスが、その季節の間で一日だけ大規模な漁を行っても良い〟というものがある。これは限られた資源を維持しつつ平等に分け合うための知恵であり、もし破れば他三国を敵に回す事となる。
ちなみに養殖に関してはある程度の自由が認められており、その為の区分けもきっちりとされている。その特例のおかげでウルク湖産の魚介類が各国の市場から途絶えることはなく、漁業を生業としている者も安定した収入を得ることが出来ている。
秋も半ばに差し掛かったウルク湖は、エンピスの漁業が終わったばかりということもあり、普段は数人ほどいる釣り人も姿を見せず静寂に満ちていた。
その静かな湖の畔、イーヴィスへと続く小道から牛と猪が混ぜ合わさったような黒毛の魔族が鼻唄を歌いながら歩いてくる。両の手には水汲みに使う桶と、細竹に糸を通しただけの粗末な釣竿。
浅瀬近くまでやってきた男は、水桶を湖に突っ込んで水を目一杯入れると、それを比較的平らな場所に置き、餌はおろか針もつけずに重石のみが結び付けられた糸を湖に放り入れた。入水し水面を揺らした糸を張るように釣竿を持ち、また鼻唄を歌いながら腰を下ろして目を瞑る。
魚との駆け引きを楽しむ、もしくはその日の糧を手に入れる為に行うのが釣りというものだが、果たして彼が行っている行為を釣りと呼んでよいものか。
どこぞの仙人のような釣竿使いの奇妙な男であったが、一刻ほどして不意に目を開いて水面を貫く糸の辺りを目を細めてじぃっと見つめた。どうしてだか、揺れるはずのない糸が小刻みに揺れる感触がしたのだ。
「ん?」
糸は確かに揺れているが原因は湖の中ではないようで、波とは違う岸側からの波紋に煽られているらしい。男の視線が波紋を逆しまに追って発生源を探す。
「んー……、なんだありゃゴミか?」
水面から中途半端に陸に上がっている、白い布に包まれているらしいこんもりとした物体。あれはどう見ても自然界に存在するような物には見えない。
何処ぞの誰かが放置したのか、もしくは投棄されたものが流れ着いたのか、はたまた養殖に使っている道具が何らかの理由で流されたのか。真相がどうなのかは知らないが、ウルク湖を愛する者の一人として、あのような景観に相応しくないものを放置しておくわけにはいくまい。
「やれやれ」
よっこいしょ、と腰をあげて漂着物の元へと歩いていく。見たところ水上に見えているのは全体の六割ほどのようだが、それでも毎日飽きずに村を駆け回っている子供よりは大きい。一人で運べる程度の重さだといいのだが。
「それ、よっ……と、重いな。水吸ってんのかね?」
布を引っ張ってみた感じ、丈夫な作りではあるが随分と重量がある。あまり布の部分を引きずっていると破れるかもしれない。それならと、靴が濡れるのも構わずに踝辺りまで湖に浸かり、抱き抱えるように手を回した。
「どっこい──せぃ!」
我ながら親父臭いと思う掛け声をあげて、一気に担ぎ上げ……ようとして固まる。
「………………」
ぶらん、と布の隙間から滑り出るように人間の腕が現れた。
「うぉわあ!」
驚いて手を放すと、白い布が広がってその内側が露になった。
何かを包んでいるのだと思っていた布は、全身──頭から踵近くまで──を覆うような外套で、その中身は十代前半から半ば辺りの、人間族の少年だった。
「すぅ……はぁ……すぅ……はぁ……」
男は動悸を抑えるように胸に手を当てて深呼吸を繰り返し、恐る恐る少年の口元に耳を近付けて呼吸の有無を確かめる。
「…………ぅ」
──息がある!
奇跡を目の当たりにしたかのように、大袈裟に後ずさりして目を丸くする。が、すぐに正気に戻り、少年を抱き抱えて走り出した。
「先生ぇ!先生ぇぇ!」
ウルク湖から休まずに走り続けて自身の住まう村に戻り、蹴破る勢いで村唯一の診療所の扉を押し開けて、丁度目の前を歩いていた白山羊のような立派な髭を蓄えた男に詰め寄った。
「大変なんだ、先生、すぐに診てくれ!こいつ、湖で倒れてて!」
「待て、待て、落ち着け。診てくれって……」
明らかに只事ではない雰囲気に戸惑い、村で唯一の医者は男の抱える少年に目をやる。人間族と思われる子供の顔は蒼白で、注視しなければ呼吸をしているのか判別することも難しい。
「──すぐに診よう。君は湯を沸かしてくれ。それと毛布を」
「わ、わかった!」
医者が少年を受け取ると男は慌てて自分の家に帰り、水桶を忘れてきたことを思い出してもどかしい思いを抱きつつも、押入れから毛布を引っ張り出して診療所に戻っていった。
「先生、これ毛布だ!水桶、湖に忘れてきちまったから取りに行って」
「馬鹿者、ここのを使えばいいだろう!」
「お、おう!」
少年の親でもないのに動揺しきっている男を叱り飛ばしたい気持ちを堪え、衣服を脱がせて寝台に寝かせた少年の体に用意させた毛布を被せて、戸棚から魔法石を一つ取り出す。この魔法石には、多種多様な体質を備えた魔族の治療を円滑にするため、イーヴィス政府から支給されている診察用の魔術が込められている。触診は男が自宅に行って戻ってくる間に終わらせているが、内部の異常も調べておくべきだろう。
「…………ふむ」
淡く緑色に光る魔法石を頭から爪先まで満遍なくかざし、異常がないかを診ていく。異常のある箇所があれば黄色くなるのだが、魔法石の色が変わるようなことはなかった。
「先生、湯を沸かしてきた!」
湯気を立たせる手桶を床に置き、少年の顔を覗きこむ。
「それで、どうなんだ?」
「うむ」
男の質問に頷きながらも手拭いを湯に浸し、火傷しないように絞ってから少年の首元に巻いた。引き出しからもう三枚ほど手拭いを取り出し、一枚を男に手渡して残りの二枚を同じように湯に浸してから絞り、少年の脇に挟んでいく。
「体温が低く、衰弱しているようだが、触診でも探知魔術でも目立った外傷や病は見つからなかった。この子が丈夫なのか、救出が早かったのか、君の毛皮で温められたからか。なんにせよ命に関わることは無いだろう。私は薬湯を煎じるから、君はそれで体を温めてやるといい」
男の手に握らせた手拭いを指差して、医者は奥の貯蔵庫からいくつかの薬草や薬液の入った瓶を持ち出して台所へと歩いていった。
「……あちっ」
言われた通り手拭いを湯に浸けるが、湯の温度に手こずりながらもなんとか水気を抜き、少年に被さっている毛布を除ける。
「よかったなぁ、お前」
見かけの割に引き締まった少年の体に手拭いを当て、声を掛けながら丁寧に寒気を拭っていく。
「こんなもんでいいのかね?」
抱え上げたときには冷水を思わせるほど冷え切っていた体は、看病の甲斐あってか人の体温を取り戻しつつあった。戻ってきた医者が匙で薬湯を飲ませると、苦味が効いたのか、眉を寄せて呻き声をあげた。
「おおっ」
初めて反応らしい反応があったことに興奮する男の背中を叩き、医者が椅子に座るように指図する。
「それで、何があったんだ?」
「ああ、水を汲みにウルク湖に行ったんだが──」
少年を見つけた時の状況をかいつまんで話すと、医者は呆れたような目を男に向けた。
「まったく、相変わらず君の趣味は理解しかねるよ。だが、そのお陰で助かった命があることに驚きを隠せんね」
「高尚に瞑想と言ってほしいね。でもまあ、俺も驚いたよ。なんで人間族の子供がイーヴィス側に倒れてたんだか」
「ふむ、考えられる可能性はそう多くないが……」
脳裏をよぎった可能性に備えて、机の上に置いてあった鋏を手に取る。
「隠しておいた方が良さそうだな」
「え、なんでだよ」
「………………」
浮かんだ自害という言葉を口にすべきかどうかと迷う医者に、首を傾げた男が「お」と声をあげる。医者がその視線を追うと、寝台から起き上がった少年の姿があった。
「先生の薬は凄いな。──よお、もう起きたんだな。でもまだ寝てた方が」
笑顔で近付く男だったが、少年の目が医者の持つ鋏を認め、鋭く細まったことに気付かなかった。
少年は手の平を寝台に押しつけ、その腕を軸に体を浮き上がらせて近付いてきていた男の胸に蹴りを打ち込む。予期せぬ攻撃と思いもよらぬ強力な衝撃とが組み合わさり、男は抵抗も出来ずに戸棚まで吹っ飛んだ。
「な、ちょっ、君!」
そのまま寝台から飛び下り、あわてふためく医者へと一瞬で距離を詰めて手刀で鋏を叩き落とし、反対の腕で喉元にも手刀を打ち込んだ。
「がっ、は」
息をつまらせた医者が体を折ると、襟を引っ張られて床に放り投げられた。落ちた鋏を拾い上げた少年がその背中に飛び乗り、右腕を捻りあげつつ医者の首筋にその刃を突き付ける。
「あだ、あいだだだっ!」
「──────」
「……うむ?っいたたたたた!」
聞き覚えのない言語で話し掛けられ、振り向こうとした医者の腕を更に捻る。床に顎をつけて自由な方の手を頭の上に置き、抵抗しない意思を示す。少しだけ締め付けが緩くなった。
「やれやれ、どうしたものか。あー、君、私の言葉が分かるかね?どうも通じない気がするのだが」
……反応なし。だが、なんとなく妙な空気が流れていることには少年も気付いているらしく、あちこちを見回すような気配が背中の上から感じられた。
「──」
小さく呟き、少年が医者の上から立ち上がって寝台の側の台車へと歩み寄った。捻られた腕を擦りながら目だけでその動向を追った。少年はその上に置いてあった薬湯の残りが入った湯飲みを手に取り、匙を持ち上げて残っていた液体の匂いを嗅いで、一滴ほどを指に垂らして舐めとった。味を確かめるように口の中で転がし、ぺっと吐き出す。次いで思い出した様に自身の身体を見回して首を傾げた。
「…………」
しばし考えるような仕草をした後、医者に近寄ってその体を起こすように肩を持ち上げ、医者がその場に立ち上がると今度は少年が両手と両膝をついて、頭を床に押し当てた。その様は医者の見間違いでさえなければ、謝罪の王道──土下座である。
「謝って、いるのか?」
「────」
医者が呟くと、少年が体を起こして鋏と医者を交互に指差したり、男と寝台をまた交互に指差したりと身振り手振りで何かを伝えようとする。
顎髭を撫でて考える。──もしかして、自分が鋏を持っていて、その側から男が近寄ってきたから危険を感じて攻撃した、と?
恐らくそんなところだろうが、それでも目覚めて早々にあのような立ち回りが出来る辺り、少年の異常さが窺い知れる。と、少年が戸棚を背に気絶している男を指差す。──そういえば派手に吹っ飛んでいたな。
医者が近寄って、男の打たれた胸を診る。気を失ってはいるが、骨や内臓を壊したということは無さそうだ。
「こいつの親父は頑丈さが取り柄の獣人族だからな。問題ない──と、わからんか」
苦笑しつつ男を指差し、両手を上にあげて丸を作る。その意味は少年に通じたのか、ほっと息を吐いて「くしゅ」とくしゃみをした。まあ、当然だろう。元々水に濡れた状態で担ぎ込まれ、先程の立ち回りで毛布も床に落ち、裸同然の体であれだけ動けば余計に体も冷える。
「ああ、この毛布を使うといい。あとこれを着ていなさい。いま温かいものを淹れてくるから、寝台で寝て待っていなさい」
拾い上げた毛布と常備してあった入院患者用の寝間着を少年に渡し、寝台を指差して台所へと向かう。粉末にした茶葉を少量湯飲みに入れ、湯を注いでかき混ぜる。自分の分と少年の分の即席紅茶を持って戻ると、少年に寝ているように言ったはずの寝台には黒毛の男が横たわっており、当の少年は毛布を体に巻き付けて椅子の上に座っていた。どうも正確に伝わっていなかったらしい。というか、あの大男をこの少年が運んだのか。
「やれやれ、……さ、飲みなさい」
小さく溜め息を吐き、少年に湯飲みを手渡す。しばらく湯飲みを見ていた少年だったが、医者が気にせずに紅茶をすすっているのを見て自分も口をつけた。
沈黙の時間が続くうちに、寝台に寝かされていた男が目を覚ました。
「お、おー?」
胸を擦りつつ、現状を把握しようとするように辺りを見渡す。医者と、そして少年と目が合うと破顔した。
「おう、お前目が覚めたんだなぁ」
「目が覚めたのは君だ」
医者の訂正に「ん?」と首をかしげ、自分が気絶した経緯を聞いて得心がいったように頷いた。
「ああ、そりゃ悪かったな。いきなり俺みたいなのが近付いてきたら驚くよなぁ」
寝台に胡座をかいて大口を開けて笑う男を見て、少年が不思議そうな顔で医者を見る。見られても困ると医者も肩をすくめ、男に少年とは言葉が通じないことを説明した。
「はあ?……なあ先生、エンピスって俺らと違う言葉で話してたっけ?」
「そんな訳がないだろう。好んで古代語を使うとかいうルーフェならともかく、エンピスもグランもイーヴィスも大陸共通言語だ」
「でもその子、言葉が通じないんだろ?」
「ふむ、魔法石による診断に不具合があったのかね?診察には引っ掛からなかったが、脳の一部が異常を来したのかもしれないな。脳に障害が起こると言葉が意味を為さなくなる事があると聞いた覚えがある」
医者の予想に男が目を剥いて少年を見る。会話が分からない少年は我関せずといった具合に、椅子に座ったまま紅茶をすすっている。
「おいおい、大丈夫なのかよ!」
「分からんよ。脳関連は特殊な知識が必要になる。私は専門外だ」
「医者だろ!」
「石工が木を削って家を建てるか?私に出来るのは怪我の治療と簡単な病気を治すことだけだよ。城下町かコルビン辺りなら専門医がいるだろうが」
城下町とは魔王が座するイーヴィスの首都のことだ。イーヴィスでは町も城の一部として扱われているので、本城のことは『城』、町のことは『城下町』と呼び分けられている。
「どっちも南側じゃねぇか」
ウルク湖近くにあるこの村は、イーヴィスの北側のさらに北東部にあり、城下町は南側、コルビンは更に西にある。どちらもとんでもなく距離がある。
「あとはエンピスだが、あちらの医学はイーヴィスよりも劣っているらしい。それに国境が開かれたとはいえ、いまだ我ら魔族が大手を振って渡り歩くのは難しい」
「あ、じゃあよ、村長の所の人間に頼んでみたらどうだ!人間族の仲介があれば向こうで医者探すくらい出来るだろ」
妙案だとばかりに目を輝かせるが、医者が首を振って却下する。
「彼女は向こうで非道い目にあったそうだ。ようやく落ち着いてきたというのに、そのような酷な真似は医者として許すわけにはいかんよ。それならイーヴィスを横断する方がまだ適当だ」
もし医者が良しと言ったとしても、村長が許さないだろう。彼女は種族こそ違うものの、その人間を自身の孫娘と同じように可愛がっているのだ。下手をすると村長一家どころか村全体から爪弾きにされかねない。
「じゃあどうすんだよ。そいつ、このままじゃ言葉が通じないままじゃねぇか」
「うぅむ……」
二人して少年を見つめる。眠気があるのか少年は目を閉じていたが、外から来客の気配が近付くと、警戒するように薄く目を開いた。
「おーい、ウガルはいるかぃ?忙しげな様子で先生の所に行ったと聞いたんだけどねぇ」
噂をすれば影が射すというが、その声は先程医者が脳裏に描いた村長のものだった。ウガルとは少年にのされた黒毛の名だ。
「ああ、いるぞー」
医者が招き入れるか迷っていると、ウガルが何の気なしに大声をあげた。頭を抱えたくなったが、それよりも少年を宥めないといけない。獣人族の血を引くウガルならまだしも、老齢の村長に少年の打撃は致命傷になりかねない。
「大丈夫、落ち着いて。ただの客人だ」
少年の肩を軽く二、三回叩き、村長を迎えにいく。人間族の子供がその体格ままに年老いたような老女は、未だ警戒心を残す少年を見て眉を上げた。
「おやま、この子は?」
「ああ、実はよ」
医者が何か言うより前に、ウガルが口を開いて事情を説明する。仕方なく医者は自分と少年の湯飲みを持って台所へ行き、今度は四人分のお茶を淹れて戻ってきた。
「それは大変だったねぇ。坊やも辛かったろうに」
静かに湯飲みに口をつける少年の頭を撫でようとするが、まだ気を許してはいないようで軽く体を動かして避けられてしまった。しかし村長も気を悪くした様子はなく、手を膝に置いてウガルと医者に向き直った。
「まあ、丁度いいと言う訳じゃないんだけれど。もうすぐ収穫祭があるじゃない?」
「ん?ああ、そうですな」
今日の日付と収穫祭の日取りを頭に浮かべて、医者が頷く。今年はエンピスとの同盟記念ということもあり、例年よりも盛大な祭りとなる。
イーヴィスの収穫祭と言えば、大陸内でも有名な行事の一つだ。秋と冬の境目となる時期に、国の各町村で収穫を祝う為の飾りつけを行う。飾りには来年の豊作を願う意味合いが強く、大きな都市よりも実際に作物を育てている地方の農村ほど意匠を凝らした見ごたえのある代物になる傾向がある。当然、農業を主としているこの村でも櫓を立て、各家々でこしらえた装飾を飾り付けることになっている。ウガルはその櫓設営の責任者を任されている。
「さっき使いの方が来られたんだけど、その収穫祭ね、この村が魔王陛下の巡察対象の一つに選ばれたのよ」
嬉しそうに声を弾ませる村長の言葉に、ウガルも医者も「おお」と声を出した。収穫祭の間は魔王も各地の催しを見て回る。国をあげての祭りともなれば来客も多く、いつも以上に忙しい身故に立ち寄るのは数ヶ所のみとなるが、地方の民が直接魔王の姿を拝することの出来る貴重な機会でもある。
「ああ、なるほど。魔王陛下が来られた時に彼のことを話してみようという訳ですな」
一村民である医者やウガルでは難しいだろうが、村の代表者である村長ならば、魔王と直接話す機会もあるはずだ。その時に話題に出してもらえれば、便宜を図ってもらえる可能性は大いに有り得る。
「ははぁ、なるほどな。じゃあ俺はご機嫌取りのためにも、ど派手な櫓を組めばいいってわけだ!」
「私もそれをお願いしにきたのよ。今回は特別立派なものを用意してほしい、とね」
少年の件は別として、装飾が魔王の目に止まれば話題となり、この村を訪れる人も増える。村の若者が他所との繋がりを作れる好機となるのだ。村や人が気に入れば、そのまま居着く者もいるだろう。
村の為にも、実質的に祭りの中核を担うウガルには奮起してもらいたい。そう思って訪ねたのだが、村長が頼むまでもなくウガルはやる気になっていた。
「それじゃあ私は戻るわ。──ああ、そういえば、その子どうするの?エリィもいることだし、よければうちで預かろうか?」
同じ人間族がいれば安心するだろうと気遣った村長の提案に、ウガルが首を振る。
「いや、こいつは俺が面倒を見る。拾ったのは俺だしな」
「犬猫のように……。まあ、私はどちらでもいいが。だがしばらくはここに寝かせるぞ。この子の状態が分かっていない以上、経過観察は必要だ」
本日は医者の家に、経過次第ではウガルの家に少年を泊めるということで話は決まり「何かあったらいつでも言ってね」と言い残して村長は出ていった。
「あ、いけね。置いてきた水桶取ってこねえと。先生、坊主、また明日な!」
日が暮れる前に戻れるようにと慌ただしく、手を振りながらウガルも出ていき、診療所には少年と医者だけが残された。
「────」
何事かを呟き、少年が去っていった二人の湯飲みを持って台所へ向かう。付き添うように医者も、自分と少年の湯飲みを持って後を追った。
新しく湯を沸かしたいのか、水を容れた薬缶を竈に置いて火打石を探す少年に、医者が「見ていなさい」と竈の前に手をかざした。
魔法石を使うまでもない初級魔術で火を起こし、竈の中の枝木に移す。日常的に行われている魔族の着火法に、少年が驚いて背を低くする。
「待て待て。見慣れてないのかもしれないが、これくらいで警戒するんじゃない」
背中を撫でて少年を落ち着かせ、今度はよく見えるように手の平を上に向けて火を起こした。じっくりと観察するように顔を寄せ、指をそっと近付けるが熱気を感じてすぐに下げる。
「………………」
理解できないが納得はしたとでも言うように頷き、薬缶の水を眺める。これは慣れるまで大変だと、医者は小さく溜め息を吐いた。
翌日、医者は少年の回復力に舌を巻くことになる。
早朝、目が覚めて少年の様子を見に向かったところ、彼のために用意した布団の中にその姿はなく慌てて外へ探しに出た。『そう広くない村だ、すぐに見つかるだろう』とまだ静かな村内を歩き回り、櫓建設予定地となっている村の広場まで行ってみると、どこから持ってきたのか細長い棒を振り回している少年を見つけることができた。
「────」
前後左右問わず縦横無尽に棒を振る姿からは、医者の目から見ても素人の技ではないことが窺い知れる。棒を振るう腕の鋭さに、流れるような足捌き。あわや水死体となりかけた身とは思えない動きに、医者は自身の目を疑った。
いやしかし、昨日の目が覚めた時の反応を思い返せば納得出来ない話ではない。十全に動かせるはずのない体で、不意打ちとはいえ獣人族を倒すなどという常人離れした力を発揮してみせたのだ。元々の身体能力が高かったのだと考えれば納得出来る。
だが、と医者は鍛練に勤しんでいる少年に声をかけた。
「こら、君。勝手に起き出してはいけないだろう」
少年は棒を振ったまま硬直し、ゆっくりと医者へと振り返る。どうやらよろしくない事をしているとの自覚はあったようだ。
「自分では万全と思っていても、病は陰から体を蝕むものだ。動くなとは言わないが、せめて診察を受けてから、私の目の届くところで動きなさい」
通じないだろう説教をしつつ少年の腕を掴み、診療所へと戻る。
朝食を用意し、少年と向かい合って食卓についたのだが、何か珍しいものでもあるのか野菜の和え物を三ツ又の匙でつついていた。医者が行儀が悪いと注意すると大人しく口に運んだのだが、一部の野菜だけ念入りに味わうように咀嚼を繰り返した。エンピスには無い野菜なのかと、何の処理もしていない生の野菜を持ってくると、少年は興味深げに手に取って見回していた。
そうして少々風変わりな光景となった朝食を終え、医者は少年の診察に取り掛かった。今度は魔法石を使わずに触診を主として行う。
「…………ふむ」
こうして意識して触ってみると、少年の体は改めて異常であると言えた。目に見えるような傷こそ少ないものの、筋肉の付き方が有り得ない。傍目から見れば年相応の体なのだが、その内側はどう鍛えればこうなるのかと体を開いて調べたくなるほど、重厚な鎧のような肉体が存在していた。
──これは、本当に人間なのだろうか。
少年に気付かれないように唾をのむ。幸いにも少年の意識は窓の外に向いているようで、医者の緊張が伝わるようなことにはならなかった。
ともかく、触診でも病的な異常は見つからず健康であると判断する。
医者は二重丸を描いた紙を見せて問題無しということを知らせ、昨日のうちに洗濯しておいた少年の衣服を手渡した。
少年が着替え終わり、医者が淹れてきた紅茶で一息ついた頃、ウガルが診療所に入ってくる。
「よぉ。調子はどうだ?」
「健康にして健啖。すこぶる快調と言ったところか」
「はぁん。よくわかんねぇが、元気ってことだな」
よしよしと首を縦に振るウガルに本題を促す。
「ただ迎えにきたにしては早いな。何か用かね」
「ああ。追加で櫓の材料を調達しにいくから手伝ってくれ。先生魔術得意だろ」
「得意というか、医者にとってある程度の魔術は必修だからな。別についていくのは構わないが、何をさせるつもりかね」
「木を切ってほしいんだよ。鋸や斧じゃ加工するまでに時間が掛かるからな」
いかな力自慢とはいえ、道具に頼る以上は道具の性能を超える働きは出来ない。村にあるような道具では切り分けるだけでも日が暮れてしまうだろう。
「ふむ。……彼も連れていくがいいかね?」
医者の提案に、白装束を纏った少年を横目で見つつウガルが聞き返す。
「いやぁ、いいのか先生?こいつ人間だろ。怪我しねぇか?危ないぞ?」
森には平坦な道はなく、野生の獣も多い。伐採に必要な荷物を抱えた状況で何かしらの危機に遭遇したとして、特出した力を持たない、ましてや成人もしていないような子供を守る余裕などない。
「恐らく問題はない。むしろ良い運動になるだろう」
「んー、まあ先生がいいんならいいけどよ」
不承不承ながらも頷き、医者と二人で少年に木材を取りに行くことを伝える。意思の疎通を計った後で昼食用の軽食をこしらえ、身軽な足取りで森に入った。
伐採にも決まり事はある。手当たり次第に切り倒しては悪戯に森を害することとなり、後に得られる実りも減少する。そうならないよう、育ち過ぎて他の木の成長の邪魔になっているものや、木が密集しすぎている場所など、そういったものから切り倒していくのだ。
ウガルが木々の間隔、光の差し込み具合を確認しながら森の奥へと入り込んでいき、他二名が後ろからついていく。森に入った当初は少年に気を回して道を選んでいたウガルだったが、少年のしっかりとした足取りに心配無用と意識を変えて、多少足場が悪かろうと進むようになった。
「この辺りも静かになってきたな」
ウガルや少年のように素の身体能力が高くないため身体強化の魔術を行使しつつ、最後尾を歩く医者が顎髭を撫でつつ言う。季節は秋とはいえ、冬入りも近い。寒さに弱い鳥などは渡りを行っている最中だろう。
「虫が少ないのはいいことだ」
ウガルが笑う。今も全くいないわけではないのだが、人に害をなすような毒虫や蚊などは寒さに弱いため、この時期は表に出てくることは滅多にない。
雑談を交えながら森を歩く最中、ウガルが一本の木に目をつける。
「先生、こいつ頼む」
「ふむ。一本でいいのかね?」
「おう。足りない分を確保するだけだからな。こいつならいい具合だ」
「分かった。少し離れていなさい」
木に歩み寄っていく医者と対照的に、ウガルが指示通りに少年の手を引いて後ろへと下がる。医者が声に出るか出ないかの小さな呟きをいくつか口から漏らし、右手を前へ出して人差し指と中指を立て、木の根本に当てた。
スッと線を引くように、立てた指を外側に動かすと鋭い刃物で空を切る音がして、医者が力を入れて木を押すと、木がじわじわと傾き、やがて勢いを増して大きな音を立てて倒れた。
「ありがとうよ、先生」
「まだ終わってないだろう。扱いやすい大きさに切り分けるんじゃないのか?」
「後にしようぜ。その前に昼飯だ」
出来たばかりの切り株に腰を下ろして手を叩くウガルに苦笑し、少年に預かってもらっていた荷物を受け取る。包みを取り出し、それを開いて作ってきた弁当を配る。今回の昼食は小麦粉に水を加えて発酵させたものを窯で焼いた麺麭に、野菜や牛乳を熟成させた乾酪を挟んだものだ。
「肉はないのか」
「悪いね。昨日買いに出ようと思っていたんだが、急患が入ってそのまま買い忘れてたんだよ」
「……すまん、俺が悪かった」
藪をつついて出てきた蛇に睨まれ、背中を丸くして身を縮めるウガルを見て医者が笑う。それにつられたのか、はたまた二人のやりとりの大まかな内容を理解したのか、少年も僅かながら笑みをこぼしていた。
少年が笑うのを初めて見た大人二人は一瞬驚き、そして今度はウガルも一緒になって肩を揺らして笑いはじめた。