番外編 ~将の黄昏(後)~
「ありえないです」
戦支度のためにエンピスの兵士が東奔西走している傍を縫うように、リィンはラビと合流してイーヴィス兵の集まっているという一画へと移動していた。
合流した時の雰囲気から不機嫌なのだろうと感じてはいたが、その予想を確定付ける言葉がラビから発せられた。
「そっちが呼び出しておいて、いざ行動予定を訪ねてみれば『申し訳ありませんが、貴軍にやっていただくことはありません。兵と親睦でも深めていてください』とか。舐めてるんですか、そうなんですか、どうなんですか」
声は抑え目ではあるものの、すれ違い様にエンピスの者の耳にも届く恐れは否めない。
「ラビ、将たる者は公において私を出すべからず、ですよ」
「これでも抑えてます。っていうか、今は隊長殿の方がおかしいんですよ。こっちは出来るだけ刺激しないようにって気を使って人間族に容姿の近い精兵を選んだ上に、道中も人目を引かないようにこそこそと移動してきたのに。隊長殿も愚痴の十や百は言ってもいいと思います」
「貴女は抑えるという意味を改めて辞書で調べる必要がありますね。それを置いておいても、彼らの言い分は理解出来るものです。攻城戦となると示威行為には馬鹿に出来ない効果があります。個人的な感情はどうあれ、戦う前に打てる手は打っておくのは将の務めでしょう。それに謝罪の意も示されています。私から言うことは何一つありませんよ」
「……隊長殿はこのままでいいんですか?人間の言いなりになって、後ろから黙って見ていろだなんて」
不貞腐れたように口を尖らせるラビに「ああ」と、リィンはディアンたちと取り決めた提案の事まではラビに話していなかったことを思い出した。
「私たちも戦いますよ。最前線です」
「………………え?」
「先程交渉しました。我々はドーガ将軍の部隊と共に支城の制圧に参加します」
リィンの発言に目を丸くするラビに更に告げると、獣耳の少女は足を止めて耳をぺたんと伏せ、両手の指を突き合わせてもじもじし始めた。
「あのー、隊長殿、お願いがあるのですが。……さっきの会話、忘れてくださいませんか?」
「善処しましょう」
「うきゅ」
可愛らしいうめき声と共に項垂れたラビを尻目に、リィンはゆっくりと歩を進める。これで少しは言動を慎んでくれるといいのだが。
部隊の皆と合流し、貸し出された天幕の中で、ディアンの部下が持ってきた支城の資料と、イーヴィス軍の配置換えによって書き換えられた新しい布陣図、作戦に関する指示書を囲んで軍議を行う。
資料の一部にあった支城の見取り図によると、城内の通路はそう広くはなく、平均的な人間が四人並べば道が塞がる程度らしい。武器を振り回すには狭いため、突入後は部隊を複数に分けて行動することを指示されていた。
「これは私の本領発揮ですかね」とはラビの発言だ。確かに、肉弾戦を得意とする彼女はこの戦いでの活躍が望めるだろう。
見取り図の暗記、人員の采配、作戦の確認などを済ませ、各々武具の手入れを行いながら待機していると、使いの兵士が姿を見せた。
「一刻後に城門前にお集まりください。集合が完了し次第サンバルクを出立、途中の平野にて野営地を用意しておりますので、本日はそこで夜を明かします」
それだけを告げ、兵士が立ち去るのを見届ける。
「今日は野営ですか。いえ、移動中積荷のように過ごす必要が無いだけ、気分はかなり良好ですがね。ええ、不満はありませんとも。到着して半日も経たずに移動させられることにも」
「そう思うのなら余計な言葉を紡がず、支度を進めなさい。時を明確に示された以上、遅れは許されませんよ」
「わかっておりますとも隊長殿。さあ、お前たち、半刻で支度しろ。一秒でも遅れたら蹴り飛ばすから覚悟しておけ」
横暴ともいえる要求に、イーヴィスの兵士たちは慌てることなく「応」と答えた。ラビによる〝教育〟の成果である。
「まあ、うちは用意する物も少ないから余裕でしょうがね」
「それはエンピス側も分かっているでしょう。あの通達は『あと一刻以内に用意せよ』ではなく『あと一刻待ってほしい』という意味でしょうね」
「ですね」とラビが頷く。それを見てリィンが首を傾げた。
「分かっていたのなら、なぜ皆を急かすようなことを?」
「私も一応、立場のある者であるとの証明ですよ」
何故か不機嫌そうに腕を組み、ラビは口を閉ざしてしまった。部下の不満の原因が分からず、リィンは「ふむ」と顎に手を当てて瞑目した。
一刻後、リィンたちはエンピス軍と合流し、見送りの為に大通りに集まった市民の声援を受けながらサンバルクを出発した。
道中も特に問題はなく、日が暮れる前に予定していた野営地に着くことが出来た。
──カン、カン、カン。
槌を振るう音が響くなか、リィンは用意された天幕の中で大きく伸びをした。
現在、宿営の中では攻城槌や雲梯等の攻城兵器の作成が行われている。張りぼてでは偵察兵に見られた場合、こちらが正攻法で挑むつもりがないと露呈する可能性があるため、実用可能な代物を用意するらしい。
イーヴィスの兵も制作に参加しているが、今のところ争うような声は聞こえてこない。異種族間交流も問題なく進んでいるといえる。
「失礼します。お呼びと聞きましたが、何ですか、隊長殿」
待ち人の来訪に、リィンは槌の音から意識を逸らして、天幕に入ってきた少女に向き直った。
サンバルクを起つ少し前から、ラビは不機嫌なままだ。行軍中は平静を装っていたが、ふとした瞬間に、思い出したようにむっと表情を歪めることがあった。
将軍とその副官の一人という関係性もあり、ラビとはここ一年程アールマンよりも多く顔を合わせているといっても過言ではない。そんな彼女の側にいて、その変化に気がつかないほどリィンは鈍感ではない。
「単刀直入に訊ねます。機嫌が悪いのはどうしてですか?」
ぴくり、とラビの耳が揺れた。
「貴女は私の副官、将の一人です。貴女が平静を欠いていると、付き従う兵たちにも動揺が生まれます」
明日には戦場に立つ。いかな達人であろうとも、流れ矢一本で死に至る無常の地だ。憂いとなりうる懸念は、今のうちに取り除かなければならない。
「別に……私は不機嫌ではありません」
「本当に、ですか?」
「はい」
リィンの質問に即答するラビではあるが、その視線は中空を漂っている。機嫌を損ねている自覚はあるが、原因に何かしらの問題があるため意地を張っている、といったところか。
子供ですか、とリィンは溜め息を吐き、仕方無く切り札を出すことにした。
「我らが魔王陛下にも、誓えますか?」
〝魔王〟の名を口にした瞬間、ラビは耳元で両手を打ち鳴らされた犬のようにビクリと震えた。耳は垂れ下がり、目は今まで以上に右往左往している。
「そ、それは……その」
「どうなのです。さあ、はっきりと口にしなさい」
「………………申し訳ありませんでした」
観念し頭を下げたラビに、リィンは「やっぱり」とこめかみに手を当てた。
「妙な意地を張らないでください。正直なことが必ずしも正しいとは言いませんが、今のは完全に時間の無駄です」
「あの、隊長殿。魔王陛下には、その……」
「こんな些事を耳に入れるほど私は狭量ではありませんし、あの方の耳汚しもしたくありません」
先程までの態度は何処へ仕舞い込んだのか、弱った小動物のような上目遣いを向けてきたラビにそう言うと、安堵したのか脱力して地面に座り込んでしまった。
……たまに、この娘はアールマンへの忠誠心が信仰の域に達しているのではないかと思う時がある。だからこそその名前が切り札になり得るのだが、効果覿面過ぎて不安を覚えるのもまた事実だ。
「よかった……」
「次からは自主的な自白を求めます。何度も繰り返すようでは、流石に上奏せざるを得なくなりますので」
つまり『目に余るようなら告げ口するぞ』ということだ。アールマンに並々ならぬ敬意を抱いているらしいラビは、張り子人形のように大きく首を縦に振った。
「よろしい。では改めて訊きますが、何故、機嫌を損ねているのです?」
「それは、連中が……」
連中?とリィンが首を傾げると、ラビは立ち上がって、グッとリィンに顔を寄せて訴え始めた。
「エンピスの連中ですよ!あいつら私を見て『小さいくて可愛らしい』だの『癒される』だの、愛玩動物を眺めるような目で笑ってやがるんですよ!私も武将なんですよ?何度蹴り飛ばしてやろうと思ったことか!それは確かに、隊長殿に見咎められる程度には表に出していたかもしれませんけど、明日になれば実力で黙らせてやろうと思っていたんですよ?ああ、もう、未成熟なこの身が恨めしい!」
ついには地団駄まで踏み出したラビに、リィンは「ああ」と納得の声を漏らした。
ラビの容姿は自分で訴えているとおり、起伏に乏しい未発達な少女である上に、白い肌と獣耳のせいで人形じみて見える。イーヴィスの者ならば、その内側に秘された本質を知っているので無謀な発言をすることはないが、他種族との交流経験に乏しい上に新兵も多いエンピス軍では獣人族という種に対する認識自体が薄い。
彼らに悪気は無いのだろうが、たとえ小声であろうとも、ある程度の距離であれば聞き取れるラビの耳にはその内容が届いてしまう。その場合はどちらが悪いとも言えず、手の出せないラビは不完全燃焼のまま、今に至ったのだろう。
なるほど。容姿というどうしようもない問題である以上、口をつぐんでしまうのも頷ける。
「ええ、まあ、大体わかりました」
既に十代の後半にもなるラビに、成長の見込みがあるかどうかは置いておくとして、この訴えは想定外だった。種族の違いというものを、改めて思い知らされた気分だ。
「これは、存外、繊細な問題ですね」
「そうです。むしろ隊長殿はラビを──私を褒めるべきです」
若干興奮状態にあるのか、一人称に素が出そうになったラビに「ええ、ご苦労様です」と労いの言葉をかける。ラビは「褒められていませんが、まあいいです」と耳を揺らした。
「とにかく、そういうことです。明日になれば鬱憤を晴らすために暴れますので、士気には影響なしです」
「……士気への影響に関しては貴女の我慢強さに期待しましょう。ですが、釘は刺しておきます。理由はどうあれ張り切るのは結構ですが、突出は控えるように」
ディアンやハリーによれば作戦の経過は順調とのことだが、戦場では何が起こるか分からない。連携を密にすることに間違いはない。
「わかりました。隊長殿に迷惑はお掛けしません」
「……まあ、いいでしょう。話は終わりです」
ラビが退出するのを見送り、リィンは白紙の紙に先程感じた『種族間の認識の違い』を書き留めた。些細な問題ではあるが、こういった小さな芽が根を張り、大きな問題へと発展することもありうる。
イーヴィス本城に戻り次第、正式な書類にするべく、その覚え書きを封筒に入れて封をする。
思いがけず増えた仕事に嘆息し、リィンは明日に備えて最新の資料に目を通し始めた。
翌早朝、斥候から敵は支城に籠る構えを崩していないとの報告を受け、エンピス軍は組み立てた攻城兵器を供に野営地を後にした。
野営地と支城の距離はそう遠くなく、一刻も行軍すれば視界に捉えることが出来た。
「夜襲が無かったのは予想外でしたね」
布陣を整えつつ、ラビが呟いた。側でその様子を観察していたリィンが呟きに答える。
「相手は元正規軍といっても、心根を同じくした一枚岩という訳ではありません。夜襲を行うには、優秀な指揮官とよく訓練された兵士が必要です。資料をみる限り、ルーティス将軍以外が指揮を担当した場合、悪戯に兵を損じるだけに終わったでしょう」
今朝の軍議でも、そのような意見にまとまったと記憶している。
夜襲は成功すれば敵に痛手を負わせることが出来るが、そう簡単に実行に移せる策ではない。敵に悟られずに暗闇を自在に動ける技術と目、さらにはその中で敵味方の識別印を見間違えない判断力が、全ての兵に求められる。戦に疎い元貴族連中が、その準備の為に訓練を行えたとは考えにくい。
「おい、赤毛の」
「なんです?」
ずしずしと音をたて、巨漢の老将が声をかけてきた。右手に彼の象徴的武器兼防具である大盾は備えられておらず、代わりに重厚な手甲を填めていた。
昨日理由を訊ねると、支城内であの大盾は邪魔になるだろうがと、何故か怒鳴られた。
「面倒なことになった。〝剣〟が牢に入れられたそうだ」
「作戦が露呈した、と?」
目を細めるリィンに、ディアンは軽く首を振る。
「正確には否だ。矢文での緊急の報せであった為に詳細は分からんが、〝剣〟の牢入りと同じく配置換えも行われたものの、門を守る兵は未だこちらの手の者であるらしい。作戦に変更はないが、〝剣〟の役割であったクワイらの捕縛と〝剣〟の救出が儂らの仕事に加わった」
「そうですか。ルーティス将軍の部下については?」
「それは事前に取り決めてある。〝剣〟になにかあれば、開戦後に儂の部隊と合流することになっておる。以降は儂の指揮下に入る」
「………………」
ディアンの説明を聞きつつ、リィンは気掛かりを覚えた。
「どうした」
「……いえ、なんでも」
考えすぎかもしれない。このまま進めても問題はないかもしれないが、もしかすると何かあるかもしれない。
「情報提供ありがとうございました」
「友軍との情報の共有は当然のことであろう。儂をそこいらの馬鹿者と同列に並べるでないわ」
一瞬ラビに目を向け、「ふん」と鼻を鳴らしてディアンは自陣へと戻っていった。
その姿が見えなくなると、リィンは数秒間目を閉じ、開くとすぐにラビに声をかけた。
「ラビ、突入後の配置を変更します。私に代わり、貴女がドーガ将軍と並走しなさい。貴女の持ち場は私が引き受けます」
「えっ、あのいかにも偏屈そうな爺とですか。……りょうかいしましたぁ」
渋々ながらも承諾させ、リィンは他に打てる手はあるかと思考を重ねていった。
銅鑼が大気を震わせ鳴り響く。
開戦の合図に呼応するように、ディアンらが門に向かって駆け出した。
勿論、反乱軍側も黙って近寄らせるわけがない。屋上から、壁をくり貫いたような窓から、あらゆる場所から矢を飛ばして正規軍を牽制してくる。
「下手糞な矢になぞ構うな!一気に駆け抜けるぞ!」
「応!」
いつかの戦場と同じく前線を走るディアンが檄を飛ばした。時に手甲で、時に剣で、流れてくる矢を弾きつつ、一心不乱に砦を目指す。
その後ろで雲梯や攻城槌が支城に向かって動き出したのを見ると、弓矢はそちらに集中しだした。攻城兵器に一つでも取り付かれれば、防壁という優位性を失うことになる。彼らはそれを恐れたのだろうが、ディアンからしてみれば愚の骨頂である。
矢の雨の勢いが弱まり、速度を増した正規軍の到着に合わせるように、砦の門が軋みをあげながら開き始めた。
「将軍、お急ぎください!」
「ご苦労!全員足を止めるな、雪崩れ込め!」
内通者の手引きによってディアンらが砦内に駆け込むと、門の異常に気付いたらしい反乱軍の兵士が武器を構え、向かってきていた。
「馬鹿者がぁ!」
迫る剣を腕を振って弾き、左手の剣で胸を貫く。すぐ腹に蹴りをいれ、引き抜いた剣で更に首を薙いだ。
「単身で向かってくるより先に、仲間を呼ぶべきであろう。未熟者が」
自軍の兵を先んじて制圧に向かわせ、ディアンは門を開けた〝剣〟の部下に声をかける。
「状況を報告せい。朝から今の間に何があった」
「はっ。我々も把握しきれているわけではないのですが、突然私兵を引き連れたクワイらがルーティス将軍を取り囲み、地下牢へと連行したのです。止めに入った一部の仲間も同様に牢に入れられました。私を含め、止めに入らなかった者は疑いの目から逃れられたようです」
「〝剣〟の内通が露見したということか。よもやこちら側から裏切りが出たのか?」
ディアンの言葉に、兵は首を横に振る。
「そこまでは。ですが、どうやらあちら側に貴族派以外の協力者がいるようです。時間もなく、詳細は掴めませんでしたが」
「そうか。貴様は先行した者共と合流し〝剣〟の救出に向かえ。儂らは首魁の捕縛に動く」
「はっ。ご武運を」
砦の奥に消えていく兵の背中を眺めつつ、ディアンは顎を一撫でする。
「無能の集まりと思っておったが、少し認識を改めるか」
「そうしてください。油断してポックリいかれると私たちが困るんです」
「……何故貴様がここにおるんじゃ」
ディアンが見下ろすと、ぴょこんと上に向いた獣の耳が目についた。確か、リィンの副官だと聞いた覚えがある。
「ついに脳が筋肉に侵されましたか?事前に打ち合わせたでしょう。エンピスの部隊にイーヴィスの部隊も随行する、と」
「馬鹿にするでないわ。しかし、儂の所には赤毛の小娘が付くはずではなかったか」
「隊長殿の命令で変更になりました。私も理由は聞いてませんが、何か考えがあるのでしょう」
ラビが「臨機応変というやつです」と見上げてくる。強気につり上がった赤い目は、先程作った血溜まりに似ている。
「ふん、事後承諾とは偉くなったものだ。遅れぬように必死に足を動かすがいい、ちび助」
「隊長殿は元から偉いです。貴方たちより足は速いのでご心配なく、老いぼれ。それと背はこれから伸びますから。ええ、伸びますとも」
二人は部隊を引き連れ、上層を目指して階段を駆け上がる。既に先行していた部隊が交戦しているらしく、鎧ごと斜めに叩き斬られた死体や、折れた刀剣の刃先が道中に転がっていた。
「まったく、同族同士で争うなんて無益ですねー。山賊みたいに生きるために悪行に手を染めた連中相手ならまだしも、今回は権力欲に取り憑かれた屑が相手ですし」
立ち向かってくる敵兵を壁に蹴りつけつつ呟くラビに、敵の頭を鷲掴みにして窓から放り投げたディアンが応える。
「下らんことをほざくな。犬猿ですら、序列争いの為に身内で殺し合うのだ。人とて同じ動物なのだから、これもまた摂理であろうよ」
「自らを畜生と同列に語れるのは爺様くらいでしょうよ。世に説いて布教でもする気ですか」
「貴様らが若いだけだ。それに同列ではない。おのれら以外に犠牲を出さぬだけ、畜生の方が上等である」
「布教どころか、知的生命体への宣戦布告ですね。やっぱり貴方、人ではなく熊の仲間なんじゃないですか?」
そんな言い合いをしながらも、着実に先へと進んでいく。
しかし上層に入り、弧を描くような一本道を走っていた最中、ふいにラビが停止を命じた。それを見たディアンも、足を止める。
「どうした」
辺りを見回しつつ、鼻をひくひくと動かすラビにディアンが問う。
「……ああ、なるほど、隊長殿はこれを案じていたわけですか」
ディアンの質問には答えず、何かを探すように眼を眇める。そして少し先の壁を睨み付け、背を低くして足に力を込めた。
「どおりゃあ!」
助走のない飛び蹴りは壁を穿ち、空いた穴の向こうから無人の部屋が覗き見えた。足を引き、ラビは通路の奥に目を向けて舌打ちする。
「ちっ、外したか」
「いきなり蹴りつけてくるとは、なんと野蛮な。これだから獣は嫌いなのだ」
誰もいないはずの場所から、理知的な雰囲気を匂わせる男の声がした。
「何者だ」
ディアンが声のした方向に剣を構えると、その問いの答えを示すように通路の中空から靄が現れ、すぐに床まで広がっていく。それもすぐに晴れ、靄の消えた場所に一人の男が立っていた。
その髪は新緑に染まり、耳は鳥の羽根のように長い。
「耳長族……!」
この場にいるはずのない存在の出現に、ディアンが目を見開く。事前の調査ではクワイらとルーフェに接点は無かったのではないのか。
「我々は偉大なる種にして森の番人。本来ならば、お前のような枯木が気安く話しかけられるような存在ではないのだ。慎め、無能」
ディアンを一瞥し、その背後に並ぶ兵たちを睥睨する。
「しかしクワイらも使えぬ。我が助言なくば内通も見抜けず、結局は易々と敵を招き入れる。所詮、何の力も持ち得ぬ只人よ」
「偉そうにぶつぶつ言ってるところ悪いんですが、一ついいですか?なんで森の蛮族がここにいるんです。国境線は封鎖されてるはずですよ」
ルーフェには人間族誘拐の疑いが掛けられている。そのため、エンピスは国境に兵を置き、ルーフェとの国境を閉じているのだ。つまり、現在エンピス内に耳長族は存在しないはずなのである。
ラビの問いに、男は怒りの籠った瞳を向けた。
「我は長の命を受け、先の戦の後に円滑に事を進められるよう動いていたのだ。しかし、戦は我らの助力があったにも関わらず大敗を喫し、忌々しき魔王の謀略によって国境は封鎖され、母なる森と呪われた大地は隔てられた」
「つまり、閉め出されたってことですか。──ああ、なるほど。反乱軍の首謀者はクワイとかいう人間ではなく、貴方だったわけですか」
話ぶりから察するに、彼はエンピスに取り残されたことに不満を抱き、どうにかしてルーフェに戻ろうと今回の計画を企てたのだろう。粛清の憂き目に会ったクワイらを利用し、現王権を打倒させ、エンピスとルーフェの国境を再び開こうとしたのだ。上手くやれば、当初の目的の一端であった『エンピスの傀儡化』も成し遂げられる一石二鳥。
「人間が〝祖の種族〟であるのは認めよう。しかし力を持たぬ人間は、森を駆ける小鹿にも劣る。上等種である我々が管理してやらねばならぬのだ。そうしなければ、この地は呪われたまま、死の国へと変わり果てるであろう」
「耳長族の鑑のような人ですね。年中弓を持って狩りに勤しんでる貴方たちより、人間族の方がまだ文明的に生きてますよ」
「獣風情が。我らを只人よりも格下であると申すか」
「魔術を上手く使えるだけで、調子に乗るなって言ってんですよ。さっきから人のことを獣獣って、もやしのくせに態度がデカイんですよ」
「……無礼千万」
視線だけではなく、声にも怒気を孕ませた男は、呟くように詠唱を始めた。
「熊の爺様、初撃は弾きます。二発目が来る前に先行ってください。あいつが用意した罠があるかもなので、うちの部下を貸します」
「貴様はどうする」
「話した感じ、耳長はあれ一人。どうにかしますよ。それにここ狭いし、はっきり言って爺様たちは邪魔です」
「……承知した」
小声で打ち合わせ、ラビも身体強化の魔術を唱える。ディアンは一歩下がり、部下に打ち合わせの内容を伝え、全員に行き渡らせるように命じた。
男が手を正面に開くと、ラビが身構えた。
手のひらから燃えるような赤い球体が射出され、ラビへと襲い掛かる。
「ラアァァァ──!」
雄叫びを上げ、全力で脚を振って球体を外壁へと弾く。壁は爆散し、強風が通路へ流れ込んできた。
「駆けよ!」
「応!」
瓦礫を避けつつ、ディアンらが通路を抜けようと駆け出した。
「愚か」
男が横切ろうとするディアンたちに手のひらを向け、再び術を放とうとする。しかし接近してきたラビに備える為、攻撃を中断して防御壁を展開させられた。薄い膜に囲われた男の横を、ディアンらが駆け抜けていく。
「っ」
魔術によって強化された拳が膜を打つ。一撃でひび割れた膜を見て、男の目に先まで無かった真剣さが宿った。
ラビが再び拳を振りかぶる。──男が次の詠唱を開始する。
二発目。破壊には至らない。──両の手を突き出し、指を重ねて円を作る。
三発目。硝子の割れるような音と共に膜が崩れる。──弾を詰めた大砲のように狙いを定める。
──閃光が走った。
男の放った魔術は壁に穴を増やすだけに留まり、すんでのところで身を翻して回避したラビは後ろに飛びずさった。
「雑種めが。先の戦といい今といい、なんと目障りな」
「不意打ちしか出来ないくせに、粋がるんじゃないですよ。混血とはいえ、私は獣人族です。魔術師一人に遅れを取りはしません、よっ!」
言い終わると同時に、ラビは跳躍した。新緑の魔術師を素通りして壁を蹴り、更に天井を足場に勢いをつけて踵を振り下ろしにかかる。
しかし、男の足下から発生した緑色の煙に視界を奪われ、目標を見失ったラビは着地した場所に敵がいないことを確認すると、すぐに跳躍前の位置に退いた。既に辺り一帯は緑色の霧に覆われているようだ。
「愚かな。上等種であるこの我が、雑種一匹に及ばぬはずがあるまいに」
嘲笑混じりの声は聞こえども姿は見えず。先程、不可視の存在を発見した鼻と目と耳は、この霧の影響か敵の位置を探り当てられずにいる。
「感覚が鈍ってる。索敵妨害の霧、といったところですか」
「我らが獣相手の対策を持たぬとでも思ったか。そも、それ以前に、雑種共が混じっていると聞いて無策でこの場に立つはずがあるまいに」
ラビの耳に、微かだが風を切る音が届いた。反射的に回避しようとするが、動くよりも速く左腕を射抜かれた。
「っ!」
ルーフェの民が好んで使う、木と羽根だけで作られた単純な弓矢だ。しかしルーフェの矢は魔石と同程度に魔力を通しやすく、たったの一矢でラビの強化が撃ち抜かれた。
「我は鹿射ちが得意でな。貴様は鹿というよりも兎だが、同様に仕留めてやろう」
「私は兎ほど美味しくないですよ……!」
矢尻を折って服の袖を引きちぎり、上腕に強く巻いて止血する。抜いてしまうと出血で動きが鈍る為だ。
処置を終えるとすぐに矢が飛んできた方向へと走り出した。だが、今度は背後から矢が飛来し、右の足首を掠めた。
チッとラビが舌打ちする。
──思った以上に面倒な相手だ。
先程の攻防で、ラビを近付かせると危険だと判断したのだろう。緑色の霧で五感を制限し、自分は安全圏から弓矢で行動力を削りにかかる。自ら語った通りの獲物を弱らせる狩人のような戦法だ。
この状況は完全にラビの失策だ。
リィンは最悪の場合、魔術師が控えているかもしれないと想定して、念の為にとディアンの傍にラビを付けた。
気配に敏感なラビならば、敵が隠れていても大将であるディアンを守れる。万が一にも魔術師と遭遇したとしても、その天敵と言われる獣人族の血を引くラビとその部下が合力すれば、打倒出来る計算だった。
しかしラビは部下を手元に残さず、一人で戦うことを選んでしまった。
魔術師は攻め手よりも迎え撃つ方が有利とされている。拠点としている時間が長ければ長いほど、その場は順応した魔力や設置された罠によって魔窟と化す。屋内で、しかも待ち構えていた者と相対するのは虎穴に飛び込むようなもの。それはラビも承知していた。
しかし、たとえ屋内であったとしても、ここが人間族の居城であり相手が一人であるならば倒せるだろう。そう侮ったことも事実だ。
だが、それはラビがここにいる理由のほんの一欠片に過ぎない。
──ラビは戦士だ。戦うこと以外、他に何が出来るわけでもない。どこの誰ともしれない連中に侮られたままでは、この身に宿る忠誠が汚れて腐ってしまう。それは駄目だ。それだけは我慢出来ない。
侮られないためにも、自分の力を示すためにラビはリィンの信頼を裏切って新緑の魔術師と一対一で向かい合っているのだ。
集中を深めるラビに、またも霧の向こう側から矢が放たれた。今度は左のふとももを掠め、矢はすぐ傍の床に突き刺さった。
「……」
一瞬の思考の後、ラビは傷を押さえ、うずくまるようにして床から矢を引き抜き、手早く服の中へと隠した。
「はて、どうしたのか。もしや、掠めるつもりが射抜いてしまったか?」
弓使いの狩人が嘲笑する。
「……う、あぁぁぁ!」
立ち上がり、ラビは叫び声を上げながら走り出した。怖じ気づくように、声を震わせるように。
目指す先は、魔術師が開けた壁の穴。その場所はしっかりと感じとれる。
「逃げる気か。愚かなり」
男の声は、狩りを楽しんでいるように聞こえた。──そうだ。弱らせた獲物が逃げるぞ。狩人ならどうする。
ラビが穴から外へと身を乗り出した。その背中に矢が刺さる。
「──あ」
力が抜けるように、ラビは空中に身を放り出した。
そのすぐ後に、愉悦の笑みを浮かべた魔術師が獲物の死に様を眺めようと穴から顔を出した。
そして、片手で壁の縁に掴まっていたラビと目があった。
「ラアァァァァ!」
壁を掴む腕に力を込め、矢の刺さった腕で隠し持っていた矢を男の胸目掛けて投擲する。
「ぐ、ぬっ」
先程の意趣返しだ。魔力を込めた矢は男を護る防壁を貫いたものの刺さりが甘かったのか、男は苦悶の表情を浮かべながらも、矢を抜いて穴の向こう、霧の中へと逃げようとする。
「逃が、さな、い!」
縁に両手を掛け、壁を蹴って通路へと戻る。そして霧の向こうへ消えようとしていた狩人の背中へ、全力で体当たりした。獣人族の身体強化は他の追随を許さない。穴の空いて脆くなった防壁もろとも新緑の魔術師の体を打ち砕く。
緑色の空間の中に、骨が砕ける音が響いた。
「お、……け、」
「ふっ!」
まだ息があった男の胸に、握り拳を叩き込む。魔術による加護を無くした男の体は脆く、ラビの拳は容易く貫通した。
絶命した男から拳を引き抜くと、血が噴水のように吹き上がってラビの体を濡らしていく。
「うはあ……」
血飛沫が収まり、ラビは血溜まりの中にも関わらずうつ伏せに転がった。背中と腕に刺さったままの矢を抜き、放り投げる。
術者が死んだからか、緑色の霧は徐々に濃度を薄め、通路は穴の空いた壁と赤く染った床以外は元の姿に戻った。息を整えているうちに、通路の奥の方からディアンのものであろう声が聞こえてきた。
『クワイらは捕らえた!戦を望まぬものは武器を捨てよ!なおも歯向かうものには容赦せぬぞ!』
ともすれば砦中に轟いているのではないかと思わせる声量だったのだが、幸いなことにラビの耳は霧の後遺症か、鈍化したままであるため、被害は受けなかった。
「……死にかけたぁ」
血溜まりの中でラビは呟いた。
相手が魔術師ではなく、狩人になりきって遊んでいたからなんとか勝てた。もしラビが穴から外に出ようとした時に、男が弓ではなく魔術を使っていたなら、死んでいたのはラビだった。向かい合った状態ならまだしも、背を向けた状態でルーフェの魔術を防ぐのは無理だ。
「もう少し、隊長殿に稽古してもらわないとなぁ」
その前に、お叱りを受けることになるだろう。突出するなと言われていたにも関わらず、単独で魔術師と戦ってしまった。もしかすると、処罰されるかもしれない。
でも、まあ、いいか、と思う。
除隊にさえならなければいい。そうすれば、また戦える。
「えへへ」
深紅に染まった少女は笑みを浮かべる。
──これくらい傷付いた方が、忠義を尽くしたって感じがする。
戦後処理の最中、案の定、ラビは叱責を受けた。
「馬鹿ですか、貴女は。自信過剰もいい加減にしなさい。事前に刺しておいた釘は何処に捨てたんです。しかも何です、その格好は。髪まで血塗れになって。血は落ちにくいんですよ?知らないわけが無いでしょう。……床に広がった血の上で寝た?……馬鹿を通り越して阿呆ですか、貴女」
とまあ、最終的には呆れられてしまった。それでも武功は認められているため、先二月の減俸に処されることとなった。正式な執行は本国へ帰還した後になる。それはさておき、サンバルクに凱旋を果たした一行は祝勝の宴に呼ばれ、一夜を明かした。
その翌日、帰国の支度を進めていたリィンたちの元に、ディアンが訪ねてきた。
「赤毛のはおるか」
「いい加減、名を覚えてくれませんか?赤毛なんてそう珍しい髪色ではないんですし、複数人いたら紛らわしいでしょう」
「他におらんのだからよかろうよ」
確かに今回の遠征に、リィン以外に赤い髪の者はいない。納得はいかないながらもそれ以上の反論は慎み、来訪の目的を訪ねた。
「少し付き合え」
そう短く告げ、ディアンは背を向けて歩きだした。人の気配のある場所では話せないことなのかと、リィンは後を追った。
半刻ほど歩き、ディアンとリィンは王都郊外にある廃墟にやってきた。元々は国が運営する施設の一つだったのだろう。外装の鉄部は風雨に晒され続けたからか錆が目立つが、エンピスの旗印である剣と太陽の刻印が正面入り口に描かれている。
「ここは元は民間人を対象にした道場でな。儂や主立った将兵が、時間を作って老若男女問わずに武芸の指導を行っていたのだ。老朽化が進んだため廃棄し、今はもっと王城の近くに建て直したのだ。ここも取り壊す予定だったのだが、同じ時節にカルマ様の父君が逝去なされてな。取り壊す前にやることが多かったために後回しにされ続け、終いにはその事すらも忘れられた場所だ」
説明しながら扉をくぐり、ディアンは旧道場へと入っていった。リィンが追いかけると、中にはディアンの他にもう一人、精悍な顔つきをした美丈夫が立っていた。左手に二本の木刀を持っており、リィンの姿を認めると目を瞑ってお辞儀した。
「お初にお目にかかります。私はシアン・ルーティス。若輩者ですが、以後お見知りおきを」
「ああ、貴殿が〝剣〟の。リィン・ツァンバです。こちらこそ」
シアンが空いている右手を差し出してきたので、リィンも握手に応じる。
「お前が若輩ならそいつはヒヨッコよ。言っておいた物は持ってきておるだろうな?」
「見ればわかるでしょう、お義父さん。この通り、木刀二本持ってきましたよ」
「お父さん?お二人は親子だったのですか?」
二人の会話に目を丸くする。しかし、親子と言うには年齢差があり過ぎるし、姓も違っているが。
「こやつは孫の婿だ。息子夫婦は早くに亡くなってな。何故か孫が儂を父と呼んでおるから、こやつも儂を義父と呼んでおるのだ」
視線を向けられたディアンが、鬱陶しそうに手を振って疑問に答えた。
「しかし、我が国の資料には、エンピスの二枚看板であるお二人に縁戚関係はなかったはずですが」
「当然だ。エンピスの国民はおろか、重鎮すら知らぬことだからな。もし知られておれば、権力がどうのと下らぬ争いが起こるでな。……そうだ。お前、どうしてこやつの前で義父と呼んだのだ」
ディアンが話を振ると、シアンは笑みを浮かべて答えた。
「命の恩人には、誠意を持って接するべきだと思ったからですよ。それに、今のエンピスでなら隠さなくてもいいと思いますし」
「前者には納得を示そう。しかし後者はならぬ。お前は若いから政治家というものを甘く見ておるのだ。風通しが良くなったところで本質は変わらぬ」
「そうは言っても、お義父さんも若くないのですから。存命の内に家名を継いでおいた方が」
「若かろうが老いていようが死ぬ時は死ぬわ。名なぞ放っておけばよい」
「お義父さんがよくても、周りが放っておかないでしょう?せめて養子をとってください。それだけでも随分と違うんですから」
「そのうちな」
「お義父さんが明言しない内はその気のない証拠だと、エイミーが言っていましたよ」
「……あやつ、余計なことを」
目の前で繰り広げられる家族会議に、リィンは口を挟めずにいた。複雑な問題のようだが、自分には関係ないことだと言い聞かせ、リィンは意を決して二人の会話に割り込んだ。
「あの。私をここへ連れてきた目的を教えてくれませんか?まさか、貴方たちの仲裁をさせるためではありませんよね」
リィンの声に我に返ったディアンは、大きく咳払いをした。シアンはそれを微笑ましく見ている。
「何を笑っておる。さっさと寄越さぬか」
シアンから木刀を奪い取り、一本をリィンへと投げて寄越した。両手の空いたシアンは道場の端へと下がり、腕を組んで壁に背を預ける。
「王のために剣を振るうと、貴様はそう言ったな」
片手で木刀を振りながらそう言うディアンに、一拍遅れてリィンが「ああ」と心当たりを思い出す。
「確か、謁見の後の話でしたか」
どうして将となったのかと訊かれたリィンは、ディアンが言ったように答えた。
「それがどうかしましたか?」
「…………か」
「今、なんと?」
一人ごちるように呟いた声が耳にまで届かず、リィンが聞き返す。その答えはなく、ディアンは木刀を両手で握り締め、正眼にて構えた。
「構えよ」
言葉は短いが、その目はより雄弁に物を語っていた。
『二度は言わぬ。構えねば打つ』
「………………」
殺気にも似た強い覇気に、リィンも真剣で挑むつもりで距離を開け、木刀を水平に寝かせて中段に構える。
以前対峙した時とは違い、彼に大盾はない。ディアンは相手の動きを読むことに長けているが、リィンのものと同じ木刀を振るうには体が大きすぎる。体に合わない武器は必ず隙を生む。
二人が臨戦態勢に入ったことを確認したシアンが右手を挙げる。
「はじめ!」
腕を振り下ろし、すぐに耳を塞いだ。
「カァァアアアアアア!」
──時が止まったように感じられた。
ディアンの咆哮はリィンの意気を吹き飛ばし、その意識を呆けさせた。
停止した世界の中で、ディアンが木刀を振り上げる。そして床を軋ませながら、突進するように打ち込んできた。
弩弓の如き一撃をその身で受けることなく、木刀を盾に出来たのは日頃の鍛練の賜物だろうか。しかし振り下ろされた重撃は、衝撃を波紋のように全身に伝えてくる。
「くぅっ」
痺れるような痛みに呆けた意識が覚醒するが、既にディアンは木刀を腰の後ろにまで引き、遠心力を纏わせながら横薙ぎに振り抜いていた。
今度はリィンも受けることなく回避する。そして反撃のために一歩を踏み出そうとして、真逆──後ろに跳んだ。
目の前を暴風が横切る。
リィンは止まることなく、また一歩退いた。再び轟音を引き連れた一撃が、リィンのいた場所を通り過ぎる。
「ウォアアァァァァァ!」
猛り狂う獣のような咆哮が道場を揺らし、ディアンの剛剣がリィンに追いすがる。
暴虐を尽くす嵐のような一振り一振り全てが必殺。隙を穿とうと狙うリィンは、目の前の男は本当に熊なのではないかと冷や汗をかいていた。
ディアンの間合いは広く、更には巨体に似合わぬ俊敏さで、リィンは徐々に壁際へと追い詰められていく。
これ以上は退くこと叶わぬと覚悟を決め、リィンは横向きに寝かせた木刀を頭上に構える。リィンの誘いに乗るように、ディアンは上段から力の限りに木刀を振り下ろした。
ディアンの木刀がリィンの木刀を叩く直前、リィンは木刀を斜めにしてディアンの一撃を受け、体を横に移動させてその勢いを殺さずに下方へと流す。床に叩きつけられた木刀は、床に亀裂を残して半ばからへし折れた。
すかさずリィンはディアンの懐に踏み込み、横腹を叩くように打ち込んだ。一瞬だけディアンの体が揺れたが、すぐに彼の巨腕がリィンの頭を掴み、片腕でその体を持ち上げた。
束縛から逃れようと暴れるリィンごと腕を振り上げ、床へと叩きつけた。
「かっ……は!」
肺から逃げ出した空気が口から抜ける。
「貴様は速い。技もある。だが、剣に重さが足りぬ。軽いのだ」
ディアンは持ったままだった折れた木刀を放り捨てる。
「貴様は強い。だが、儂よりは弱い」
倒れたリィンに歩み寄り、両手で襟を掴んで引き寄せ、怒鳴った。
「儂より弱い貴様に、儂に守れなかったものを守れるわけがなかろうが!」
目を丸くするリィンに、ディアンは手を離さずに、むしろより強く襟を握り締めて続ける。
「儂も王のために武を振るい、王を守ることを大地に誓っておった!だが貴様らに破れ、王を失い、生き恥を晒しておる!そんな汚辱にまみれた儂の前で、『王のために剣を振るう』などと足りぬ誓いを口にするのか、貴様は!」
「……足りない、ですって?」
ディアンの怒声が止むと、リィンはうつむき口を開いた。
「私の、あの方への想いを、足りないと、そう言いましたか」
襟を持ち上げるディアンの腕を、脱力していたリィンの手が掴んだ。
「ふざけるな!私はあの方に生涯を捧げると、あの方のために死ぬと、そう誓った!お前なんかに、侮辱されるような、軽い想いなんかで、ありはしない!」
口調を変え、ディアンを睨みつけるリィンの目には、彼女には珍しい怒りが宿っていた。
「あの方は私の光だ!あの方がいたからこそ、私は諦めずに生きてこられた!あの人が、私の全てだ!馬鹿に──」
腕を掴む手に力を込め、自分の頭を思いっきりディアンの顔にぶつけた。
「──するなぁ!」
「ぐ、ぬぁ」
至近距離からの頭突きに、ディアンが仰け反った。
拘束から解かれたリィンは肘を突いて落ちた木刀へと這い寄り、それを杖のようにして立ち上がった。ディアンも顔を押さえながら、先程投げ捨てた折れた木刀を拾う。
二人が向かい合ったその時、ずっと傍観に徹していたシアンが両手を打ち鳴らした。
「はい、そこまで!お義父さん、言いたいことは言ったし、聞きたいことも聞けた。もういいでしょう」
「……うむ」
ディアンが拾ったばかりの木刀から手を離す。
「ルーティス将軍、どういうことです」
「シアンで構いませんよ。貴女よりは年上ですが、未熟者ですので」
「……ではシアン殿。説明を願います」
呼び捨てでないことが残念なのか、眉を下げつつもシアンは頷いた。
「勘違いしているかもしれませんが、お義父さんは貴女が憎いわけではないんです。むしろ心配していて、私に仲立ちを頼んできたんですよ。ほら、お義父さん素直じゃないから」
「シアン」
「お互いの本心を打ち明けるのが目的でしょう。ばつが悪いのはわかりますが、静かにしていてください」
制止しようとしたディアンを黙らせ、シアンはリィンに頭を下げた。
「お義父さんに代わって謝罪します。貴女を試すような行いをして、申し訳ありません」
リィンは深く息を吐いて、内に残る熱気を冷ました。
「……このような真似をせずとも、問われれば答えたのですが」
「切羽詰まった状況じゃないと、本心かどうかわかりません。だからお義父さんは貴女を追い詰めるように、全力で挑んだんですよ。なかなか見られませんよ、お義父さんの猿叫は」
猿叫というのは、最初の咆哮のことか。心の弱い者ならば、聞くだけで前後不覚に陥っていただろう。後に何故戦で使わないのかと訊ねると、戦場で使えば味方までも巻き添えを受けてしまう為、普段は使うことがないそうだ。
「お義父さんは貴女に、自分のようになってほしくないんですよ。さ、お義父さん。言うことがあるんでしょう?」
「そこまで言ったなら、お前が言えばよかろうに……」
義孫に渋い顔をするが無視され、ディアンはむっつりと顔をしかめながらリィンに向き直った。
「また時間を作ってエンピスに来い。儂が稽古をつけてやる」
「……は?」
「ふん」
そっぽを向いたディアンに代わり、シアンが補足する。
「貴女の師は先代の魔王だと聞きました。お義父さんは先代魔王の代わりに、貴女を鍛えたいと言っているんですよ」
「鍛えたいなどとは言っておらん」
「返事はイーヴィスに戻ってからでも構いません。出来れば、お義父さんが存命の間に返答をいただきたいですが」
「……おい、シアン。先程から年寄り扱いしすぎではあるまいか」
義父の発言を黙殺し、シアンは再び頭を下げる。
「貴女たちのために、善き判断を」
──斯くして、リィンたちのエンピス遠征は幕を降ろしたのだった。
イーヴィスへ帰国して数日後、リィンとラビはアールマンの執務室に呼び出された。
「先程、ブランから親書が届いた。協議の結果、暫定的措置だったルーフェとの国境封鎖が半永久的なものへと変更された。お前たちが対峙した魔術師の言動が決定的だったそうだ」
ルーフェによるエンピス傀儡化の話は、真水に垂らした墨汁のように居合わせた兵士から、役人や商人、そして市民にも広まった。以前は、大戦の時に手を貸してくれた国との国境を封鎖したことに抗議の声もあったのだが、今ではあの大戦こそルーフェが引き起こしたのではないかと囁かれているらしい。
「事実上の国交断絶だな。探られたくない腹があるルーフェも、今回は容認する他ないだろう」
当然抗議はするだろうが、形だけのものになるはずだ。実力行使に出ようにも、アールマンとブランの握っている弱みに対抗する手段がない。真実が明るみに出れば、エンピスを獲る前にルーフェが各国の標的となって滅んでしまう。
「ルーフェは対外的にもしばらく大人しくするしかない。これからの時勢を考えれば十分な成果だ。二人ともよくやった」
アールマンが褒めると、ラビは顔を紅潮させ、リィンと礼をして応えた。
「お褒めに預かり光栄です」
「これからも良く働いてほしい。まあ、独断専行は控えてもらいたいがな。話は以上だ。下がっていいぞ」
「はっ。失礼します」
敬礼して退出する。
無言で廊下を歩き、しばらくするとラビが立ち止まった。
「はあ……。陛下に褒められてしまいました」
恍惚と呟くその顔は興奮覚めやらずといった具合で、その様子を見たリィンは眉間に手を当てて嘆息した。
「始まりましたか……」
「あの金色の瞳に見つめられた時、ラビは昇天してしまうかと思いました。窓から射し込む陽光を浴びる御髪は淡く輝いて、まさに後光の差すが如き神々しさであらせられました……」
両手を重ね合わせて祈るラビには、もはやリィンの姿が見えているのかすら疑わしい。
彼女はアールマンを偶像視し過ぎているというか、ともすれば神格化しているのではないかとリィンは推測している。いや、忠誠心が強いのはよいことなのだが。なのだが……。
「そろそろ戻ってきなさい、ラビ。行きますよ」
「ラビは、ラビは、これからも忠勤に励みます」
半ば引きずるようにラビを連れ、リィンは歩行を再開した。
……自分の周りには、色々な意味で自由な者が多い気がする。
頭の痛くなる心地だ。