番外編 ~女心と風呂とあれ~
イーヴィス本城には大浴場と名のつく風呂場が三ヶ所ある。
一つは兵士や官吏が使用する、下層部に設けられた浴場だ。
ここは利用者が圧倒的に多いため三ヶ所の中でも随一の広さを誇り、込み合う時間になるとまさにすし詰めの様相となる。清掃は利用者間での持ち回りを義務付けられており、これを理由なく欠席すると一月の利用禁止を命じられる。もし万が一にもその役割を忘れようものなら、城下町まで下りて門限までに用を済ませて戻らなくてはならない。その為、用事がある場合は友人に代返を頼むのが通例となっている。
二つ目は女性専用の浴場である。多くはないものの決して少なくはないメイド達や増加傾向にある女性の兵士や官吏のために、先代魔王──正確にはその后──が命じて改築された真新しい施設だ。
場所は前記の浴場と同じく下層部であるが、こちらは男子禁制となっているため入り口に性別認識の魔術が張られており、もし変装した男性が侵入を試みようものなら警報音が鳴り響き、即座に控えていた女性兵士によって捕縛され、その次の日に『私は女湯を覗こうとしました』と書かれた札を体の前後に下げた状態で中庭に正座させられるという罰を科せられることとなる。極まれに逃げおおせる者が出ることから、新兵の間での度胸試しにされることも多く、結界の導入、改良が検討されている。
そして三つ目であるが、こちらは他二つに比べると比較的小さく、場所も上層部と明らかに隔てられている。
そこは王族、もしくはその許可を得た者のみが利用出来る、いわば支配階級専用の浴場である。昔は下層部から水を運んで湯を沸かしていたのだが、何代か前の魔王が〝砂の国〟から移住してきた小人族の協力を得て隣室に水の濾過循環装置を設置し、導管を通じて常に清潔な湯を沸かせるようにした。この装置は画期的な発明として広められ、今ではイーヴィス内の多くの施設にも普及している。
しかし、今代魔王であるアールマンはこの浴場を利用せず、自室に備え付けられている簡素な浴室を多用するため、最近までこの浴場は稼働を休止していた。──のだが、
「はふぅー」
広い湯船に身を浸し、極楽と言わんばかりの至福の表情でセリスは体を伸ばした。普段は飾縁を多用した衣装を身に付けているからか、一糸纏わぬその姿はいつにもまして細身に見える。
「お風呂ってなんでこんなに温かいんでしょうねー」
「お湯だからでしょう」
意味のわからないセリスの言葉に真面目に返答し、リィンが桶に湯を汲んでユウリの頭に湯を浴びせかけた。
──セリスがこの城に居候するようになってすぐの頃、この浴場の存在を知りアールマンに利用許可を求めたのが始まりだった。最初は装置を再稼働させるのが面倒だと突っぱねられていたのだが、懲りずに何度も直談判に向かった結果、装置の点検、調整を行う約束と大浴場の利用許可をもぎ取った。その後、元々使用許可を得ていたがアールマン同様自室の備え付けで済ませていたリィンと、新たに許可の降りたユウリを誘って入浴するようになったのだ。リィンは多忙なため、三人が揃って入浴出来ることはたまにしかないが、それでも時間が合えばこうして集まっている。
「そんなあっさり言わないでくださいよー。三人一緒だからとか、そういう言葉を期待していたのにー」
「期待を寄せる人選を誤っています。私やユウリ様がそんな情緒のある言葉を返すとでも?」
湯船に逃げようとするユウリの肩を掴んで引き寄せながら、リィンは首を振った。
「ユウリちゃんはそうでしょうけど。でもリィンならって期待してたんですよ?」
「私に?何故ですか?」
足を上下させて湯船に波を起こして遊んでいるセリスに、リィンは洗髪液を手に取って、座らせたユウリの頭を泡立てながら訊いた。
「うーん、なんとなく」
「……そうですか」
特にこれといった理由もないらしく、鼻歌を歌い始めたセリスから視線を外し、ユウリの頭の汚れを洗い流す。二、三回湯を被せられたユウリは、目を閉じたまま犬猫のように首を振って水気を飛ばした。
「うー、終わった」
「お疲れ様です。次は体を洗いますね」
「むー」
ユウリは不満げに唸りながらも、手拭いを手に取ったリィンになされるがままになる。ユウリはどうやら風呂嫌いな傾向にあるらしく、セリスと一緒に入っても烏の行水よろしく湯船に数秒浸かってすぐに上がる、ということが多い。
しかしリィンが一緒の場合、真っ先に湯船に入ろうとしても捕まえられてしまい、半ば強引に全身を洗われてしまう。今ではリィンと一緒に大浴場に入った時は比較的大人しく、先に体を洗ってもらってから湯船に浸かるようになっている。
「ユウリちゃんって、どうしてお風呂が嫌いなんですか?」
一足先に体を洗い終わり、湯の中でくつろいでいるセリスが話し掛けると、ユウリは額の小さな角を指差した。
「濡れるの、やだ」
「竜人族には入浴という文化はないそうです。手拭いを湯に浸し、体の汚れを拭いとるだけで済ましてしまうそうですよ。角が濡れることを嫌うことが理由だそうです」
ユウリの答えに補足しつつ、リィンは小さな背中を丁寧に擦っていく。その感覚がむず痒いのか、ユウリは少し身をよじっている。
「頭はどうするんです?手拭いじゃ洗えませんよね」
「詳しくは知りませんが、専用の粉で髪の垢を取るんだそうです。髪が長いと粉の量も増えるので、竜人族の女性も短髪の方が多いんだとか」
「ん」
リィンの解説に頷くユウリを見て、セリスは「へー」と声に出して縁に手と顎をのせた。そのまま力を抜いてぷかーっと浮く。白いおしりが浮島のように水面に現れる。
「……セリス様、流石にそれは行儀が悪いですよ」
「いいじゃないですかー。他に誰もいないんだし、気持ちいいですよー」
「駄目です。ユウリ様が興味深そうにしているからやめてください」
心なし強い口調で注意され、口を尖らせながらもセリスは体を湯に沈めてちゃんと座った。
そうして静かになったと思ったら、またセリスが口を開いた。
「ねぇユウリちゃん、人に体を洗ってもらうってどんな感じですか?」
「?」
首を傾げたユウリに、セリスが続ける。
「私、そういう経験ってないんですよね。お父様は私にあまり人を近寄らせなかったですし」
「乳母やセリス様のお母様は洗ってくださらなかったのですか?」
リィンが訪ねると、セリスは顎に人差し指を当てて考える素振りを見せる。
「んー、乳母というか、お世話をしてくれてた人はそういうことはしてくれませんでしたね。お母様はずっと昔に死んじゃったらしくて覚えてないんですよ」
「……そうでしたか」
失言だったかとリィンは目を伏せるが、セリスはリィンの反応に気付かず亡き母親の姿を思い出そうと唸っている。
二人の間に生まれた沈黙を破るように、ユウリが口を開く。
「温かい」
「え?」
「リィンの手、優しくて温かい。悪くない」
それが先程の質問への答えだと気付き、セリスは笑みを浮かべた。
「それ、なんとなくわかります。リィンはいい人ですよね」
「ん」
「それは……」
なにかが少しずれている気がするが、リィンはそれを言葉に出来ず口をつぐんだ。代わりに桶に湯を入れてユウリの肩の上で傾ける。
「流しますよ」
ユウリの体の泡を洗い流し、二人も湯船に入る。広い浴槽の中、三人が肩を寄せ合うようにして足を伸ばす。
しばしの静寂の後、ユウリが動いた。
「………………む」
じっとリィンの胸元を見つめたかと思うと、手を伸ばしてむにむにと揉み始める。
「……あの、何をしてらっしゃるのでしょうか」
突然の行動に困惑したリィンが訪ねると、ユウリは揉む手を引っ込め、自身のまっ平らな胸元を擦った。
「ぺたぺた」
「ああ、リィンの胸大きいですよね」
ユウリの意を汲んで同意を示すセリスに、リィンは胸元を手で隠して首が見えなくなるまで湯の中に身を沈めた。
「揉まないでくださいね」
「えー。ユウリちゃんは揉んだのに」
「リィン、やわらかかった」
「あれは意図が読めなかったからです。二度目はありません。あと感想を言わないでください」
ゆっくりと二人から距離を取って警戒するリィンに、セリスは溜め息を吐いて自分の胸元を見下ろした。
「リィンはいいですよねー。出るところが出てるんですから。私なんて、ユウリちゃんがもっと大きくなったら負けそうな気がします」
「セリス様もちゃんとあるじゃないですか」
「こんなのあるうちに入りませんよ。あるっていうのはリィンみたいなのを言うんです」
セリスの言い分にユウリが大きく頷く。そんな王女二人に、どうしたものかとリィンが頭をかいた。
「そう言われましても……。お二人ともまだ成長中なんですから」
「私、リィンと三つしか違わないんですけど」
「あれ、セリス様は確か十六だったはずでは」
「……もうすぐ誕生日だからいいんです。四捨五入すれば十七です」
なにを四捨五入するのかは不明だが、近いことに変わりはないのでリィンも深く追求はしない。セリスの言動がたまにおかしくなるのはいつものことだ。
会話が途切れ、ユウリが自分の胸をぺたぺたと触る水音のみが浴場に響く。ふと思い出したように、セリスが口を開いた。
「そういえば、胸を揉むと大きくなるって聞きましたね」
「ほんと?」
「さあ」
無責任な返事をしつつ、自分の胸をむにむにと揉み始めるセリスを真似して、ユウリもなんとか揉もうと胸の肉を集めようと苦闘する。
リィンはそんな二人を眺めつつ、胸なんて邪魔以外の何物でもないと思っているのだが、胸の大小は全世界の女性共通の悩みなのだ。成長期の乙女達に悟れと言う方が無理な話である。
しばらくは無言で立ち会っていたリィンであったが、ただひたすらに自身の胸を揉み続ける乙女達に付き合うのも疲れたらしく、二人に一言かけて先に脱衣場に向かっていった。
リィンが退場して幾ばくも無く、手を止めたセリスが脱衣場への扉に視線を向けつつ、未だに胸の肉相手に悪戦苦闘しているユウリに話し掛けた。
「ねぇ、ユウリちゃん。リィンってどっちだと思います?」
「勝ち組」
「いえ、そうではなく」
むっとした表情で一向に集まらない胸を睨むユウリに、苦笑しながらセリスが訂正する。
「魔王さんのことですよ。あの二人って、いわゆる幼馴染みってやつじゃないですか」
「ん」
アールマンの名前が出たことで興味を引かれたのか、それとも胸のことは諦めたのか、ユウリは手を湯の中に沈めてセリスに顔を向けた。
「私とユウリちゃんはもう決めちゃってますけど、リィンはどっちなんでしょうね」
「ん……」
セリスの言う『どっち』とは『好意を持っているか否か』ということらしい。それに気付いたユウリは静かに目を伏せて自分の見解を述べる。
「リィンは、アールが好き……と思う」
「ですよねぇ。微妙に判りにくいけど」
一応の意見の一致を見たセリスはホッと息を吐いて頷いた。リィンは公と私を分けるというより、私も公の一部としている節があり、本音を読み取ることに難儀する時がある。それは決して嘘をつかれているという意味ではなく、本人が意図していない深層域での意見が表に出ないという意味だ。
リィンのアールマンに向ける感情は好意のなのか、それとも敬愛もしくは尊敬なのか。セリスはその判別がつかず、ユウリに訊ねたようだ。
「あの二人って、距離は近いんですけど、なんというか、間に線を引いてる感じがするんですよね」
「ん。アールはアール、リィンはリィンで、一歩引いてる」
主従という関係上、そうなるのも致し方ないのかもしれないが、その妙な距離感が二人にとって不思議でもあった。自然な不自然というか、なんだかちぐはぐな感じがして時折、首を傾げたくなる。
「他の人はどう思ってるんでしょうね。鷹さんとか」
「知らない」
セリスの呟きに、知らないというより興味がないと言うように、ユウリは冷めた目付きで水面に映る自分の顔を見つめる。
「ユウリはアールがいいなら、それでいい。他の人は、いい」
「ユウリちゃんって本当に魔王さんが好きですよね」
排他的な台詞にも関わらず、感心したように言うセリスに頷き、ユウリは湯の中の手を動かして水面の顔を揺らめかせる。
「アールはユウリの大事な人。あの人が全部」
「んー、私もそこまで一途になった方がいいんですかね」
ユウリほどの確たる想いを抱いているとは言い難い自分に、セリスは天井を仰いで頭を浴槽の縁に預けた。
「私も魔王さんが好きですけど、ユウリちゃんみたいに他はどうでもいいとまで言えるかというと、そこまでの自信はないんですよね」
「ユウリとセリス、年季がちがう」
「あはは」
本人は励ましているつもりなのかは分からないが、セリスはこれを励ましと受け取って明るく笑った。
「まあ、始まったばっかりですものね。まだまだこれからです。おー」
心機一転というように拳を振り上げる。それを真似したユウリも「おー」と声を上げた。顔を合わせて二人とも笑顔を浮かべる。
と、そこで気付いたようにセリスが真面目な顔になってユウリに質問した。
「というか、ユウリちゃんはいいんですか?私も魔王さんを好きになっちゃってますけど」
今更と言えば今更な質問ではあるが、ユウリは特に考える素振りも見せずに淡々と答える。
「いい」
「リィンがはっきりと『好き』って言っても?」
「いい。ユウリは側にいられれば、それだけでいい。……セリスは?」
珍しいユウリからの問い返しに、セリスは顎に指を当てて考える。答えはすぐに出た。
「私も嫌って感じはありませんね。私はユウリちゃんもリィンも大好きですから、皆で仲良く出来ればいいかなって思います」
言葉にしてみて照れたのか、セリスは「あう」と謎の呟きを残して湯に潜ってしまった。しかし息がもたず、すぐに浮上した。
「えと……、先に失礼します!」
立ち上がり、そう言い残して早足で脱衣場に戻っていった。
取り残され、自分も上がる機会を逃してしまったユウリは息を吸って仰向けになった。 水面に浮かび漂いながら、ユウリは目を閉じる。
『お前は架け橋となるのだ』
父の言葉を脳裏に浮かべつつ、ユウリは様子を見に来た侍女が発見するまでの間、水面に揺蕩う葉っぱのようにぷかぷかと漂い続けていた。