第9話 失敗した方を笑う趣味はありませんわ
会場に残ったのは、紅茶の香りではなく、取り繕いきれなかった沈黙だった。
ミレイユ様は年長侍女に付き添われ、医務室へ向かった。白いクロスにはまだ薄茶のしみが残り、取り替えの準備をする給仕たちの動きだけが妙に忙しい。つい先ほどまで磨かれた銀器のように整っていた優雅さは、いったん崩れている。
けれど、それでいい。
さっきまでこの場にあったのは、もっとまずいものだったのだから。
「こちらを下げます」
「新しいお茶をご用意いたします」
「足元にお気をつけくださいませ」
給仕たちが静かに片づけを始める。
令嬢たちは席に座ったまま、どんな顔をしていれば正しいのか分からないようだった。心配そうにも見えるし、気まずそうにも見える。つい先ほどまで、ミレイユ様の可憐さを褒め、ロザリア様の堂々たる雰囲気を称えていた人たちほど、今は視線の置き場に困っている。
当然だ。
あのままなら、きっとこれは
ロザリア様に見られて緊張した可憐なミレイユ様の事故
になっていた。
けれど、そうはならなかった。
紅茶は熱かった。
手当てが必要だった。
先にあるべき現実が、ちゃんと場の真ん中へ戻ってきた。
私は新しい布で卓の縁を押さえていた給仕へ一言添え、元の位置へ戻ろうとした。すると、すぐそばでロザリア様が静かに口を開く。
「誰が相手でも、怪我は見過ごせませんもの」
その声は、よく通った。
高くも低くもないのに、場の空気だけをまっすぐ射抜くような響きだった。
令嬢たちの視線が、またそろってロザリア様へ向く。
けれど今度は、さっきまでの“悪役令嬢を見る目”ではない。もっと別の何かを見定めようとする目だ。
ロザリア様は立ったまま、ほんの少し顎を引いた。
「失敗した方を笑う趣味はありませんわ」
そこには虚勢がなかった。
優しく見せようとする甘さもない。
ただ、事実としてそうだと言っているだけの、きっぱりとした声音だった。
ああ、と思う。
この人は本当に、そういう人なのだ。
失敗を見れば止める。
危ないと思えば口を出す。
傷つけば手当てを優先する。
ただそれだけのことを、ただそれだけのこととしてできる人。
だからこんなにも不器用で、だからこんなにも強い。
「ロザリア様……」
先ほど“見られて緊張したのでは”と言った令嬢が、小さく声をこぼした。
「わたくし、そのような意味で申し上げたのでは……」
言い訳だ。
でも今は、それでいい。
自分の口にした言葉が急に薄っぺらくなったと、本人も気づいたのだろう。
ロザリア様はその令嬢を見た。
睨んではいない。ただ、まっすぐ見た。
「存じておりますわ」
そして言う。
「だからこそ申し上げているのです。誰かの失敗に、余計な意味を足す必要はないでしょう」
強い。
でも今のは、ちゃんと届く強さだ。
会場の端で、アルベルト殿下が一歩近づいた。
「……最初から、そう言いたかったのか」
その問いは、驚きと戸惑いが半分ずつ混ざったような声だった。
たぶん殿下は本気でそう思っている。さっきまで見えていたものと、今聞こえている言葉が、うまく繋がっていないのだ。
ロザリア様は一瞬だけ目を細めた。
「最初からそう申しております」
方向としてはそうでした。
入口がかなり鋭利だっただけで。
私の心の中のつっこみは、当然ながら声には出さない。
でもたぶん、私と同じことを思った人がこの会場に何人かいたはずだ。令嬢の一人が、極めて小さく息を呑んだ音が聞こえた。
アルベルト殿下は一拍遅れて、わずかに苦笑に近い顔をした。
「……そうか」
「ええ」
「分かりにくかった」
「殿下」
「何だ」
「そこは心の中だけに留めておいた方が、少しは賢明かと」
思わず出た。
さすがにそれ以上はまずいと思ったので。
殿下がこちらを見る。
ロザリア様も見た。
けれど、どちらも怒りはしなかった。
むしろロザリア様の方が、ほんの少しだけ肩の力を抜いたように見えた。
「……リネット」
「はい」
「後で」
「承知しております」
後で何か言われるらしい。
でも今は、それでいい。
取りまとめ役の上級生令嬢が、場を立て直すように口を開く。
「ご心配でしたわね。席を少し整え直しましょうか」
「ええ。そうなさる方がよろしいわ」
ロザリア様が即座に答える。
「先ほどの位置では、どなたでも手元が乱れやすかったでしょうし」
令嬢たちが互いの顔を見る。
ロザリア様はその視線を受けても動じず、まっすぐ卓を見た。
「給仕が左から入るのに対して、こちら側の席は肘の逃げ場が足りませんの」
ロザリア様は、ミレイユ様が座っていた位置を指先で示した。
「隣から同時に話しかけられれば、なおさらですわ。カップと菓子皿の間も少し詰まりすぎておりますし、ソーサーを引く動きと袖がぶつかりやすい」
「……あ」
近くにいた令嬢の一人が、小さく声を上げた。
「たしかに、先ほど少し近かったかもしれませんわ」
「気づいたのなら次に活かしなさい」
「は、はい」
うん。
やっぱり言い方は強い。
でも今のは、それ以上に分かりやすかった。
事故の原因を、人の気弱さや誰かの視線へ押しつけるのではなく、席配置と給仕導線の問題へ戻したのだ。
しかもそれが、その場にいる誰の目にも納得できる形で。
取りまとめ役の令嬢が慌てて卓へ近づく。
「では、こちらの卓だけでも椅子を半歩ずらしましょう。給仕も右から回らせた方が」
「ええ、それがよろしいでしょう」
「茶器の位置も少し直しますわ」
「ついでに菓子皿を中央へ寄せれば、袖も引っかかりにくくなるわね」
さっきまで“可憐”だの“堂々”だのと言っていた空気が、いつの間にか実務の話になっている。
これだ。
事故のあとに必要だったのは、たぶんこれだった。
誰が悪いかではなく、どうすれば次に同じことを起こさないか。
そこへ話を戻せた時点で、もうこの茶会はさっきまでと同じ意味ではなくなっている。
アルベルト殿下も、卓の位置と給仕の導線を見て、ぽつりと言った。
「たしかに、狭いな」
「ええ」
ロザリア様は視線を向けずに返す。
「誰が座っても、話しかけられながらなら乱れますわ」
「……そうか」
殿下はそれ以上すぐには続けなかった。
でもその短い一言の中に、
自分はさっき違う見方をしかけていたかもしれない
という気配が、たしかに混ざっていた。
それだけで十分だ。
今はまだ。
新しい茶器が運ばれ、クロスが替えられる。
先ほどまでの“悪役令嬢の空気”は、もう同じ形では戻ってこられない。
令嬢たちの間にも、目に見えない気まずさが落ちていた。
「配置のことまで気になさっていたのですね」
「さすがと申しますか……」
「わたくしたちも、もう少し気を配るべきでしたわ」
その言葉のどれもが、先ほどまでと少し違う。
ロザリア様を“比較の片側”へ置くためではなく、場を見ていた人として扱う響きになっている。
ロザリア様はそれを受けて、ふわりと微笑んだりはしない。
そんな器用さはない。
「気づいたのなら結構ですわ」
それだけ言う。
「茶会は転ぶために開くものではないでしょう」
厳しい。
でも今の場では、それでいい。むしろそれで整う。
私は内心で、小さく拍手したい気持ちになった。
しないけれど。
その時、扉の向こうから控えめな足音が戻ってきた。医務室まで付き添っていた年長侍女である。彼女は取りまとめ役へ近づき、小声で状態を伝えたらしい。すぐに視線がこちらへ流れた。
「フォルナ様は大事ないそうですわ。少し赤くなりましたけれど、すぐ冷やしましたので」
取りまとめ役が会場へ向けて言う。
「袖も替えて、少し休まれたら戻れるとのことです」
よかった。
心の底からそう思う。
そして、その知らせに対してロザリア様がほんのわずかに息を吐いたのを、私は見逃さなかった。
間もなく、扉の向こうにミレイユ様の姿が見えた。先ほどの席へ戻るわけではなく、入口近くで少しだけ足を止めている。年長侍女に支えられてはいない。顔色も、さっきよりは落ち着いていた。
会場の視線が集まる。
けれど先ほどとは違う。比較でも、観察でもなく、ちゃんと“戻ってきた人を見る目”だった。
ミレイユ様は一度、会場を見回したあと、ロザリア様へ視線を止めた。
まだ緊張はある。けれど、怖い人を見る目ではない。
「あの……」
ミレイユ様は小さく頭を下げる。
「先ほどは、ありがとうございました」
完全にほぐれた声音ではない。
けれど、それだけで十分だ。
ロザリア様は少しだけ間を置いた。
たぶん、何と言うのが一番ましなのかを考えている。考えてから言葉が出てくるだけ、かなり進歩である。
「礼より、手を大事になさい」
ロザリア様は言った。
「赤みが引くまで無理に動かさないことよ」
「……はい」
「跡にならなければ、それでいいでしょう」
「はい」
ミレイユ様は、今度は少しだけはっきり頷いた。
それ以上の会話はない。
なかったけれど、それでよかった。
完全に打ち解ける必要なんてない。
今ここで必要なのは、恐怖だけが残らないことだ。
そしてそれは、ちゃんと果たされた。
茶会は再開された。
けれど、もう最初に会場へ入った時と同じ茶会ではなかった。
比較の舞台ではなくなった。
少なくとも、先ほどまでのようには。
給仕の位置は修正され、卓の間隔も少し広がった。会話は慎重になり、誰かを可憐と呼べば、別の誰かを圧のある側へ置いてしまうような軽さは消えた。
代わりに残ったのは、妙に現実的な空気だった。
事故があって、手当てがあって、配置を直して、続きがある。
そういう、物語ではなく実務の匂いがする空気だ。
私はその変化を胸の奥で確かめる。
助かっただけではない。
ただ事故をしのいだだけでもない。
悪役令嬢が可憐な主人公を追い詰めるはずだった筋書きは、たった今、目の前で少しずれたのだ。
しかもそれは、私が一人で引っぱったからではない。
ロザリア様が、自分の言葉でちゃんと立て直した。そこが一番大きい。
私はそっと背筋を伸ばし、ロザリア様の半歩後ろへ戻る。
ロザリア様はもう前を向いている。
けれど、さっきまでこの場にかかっていた“悪役令嬢”という雑な札は、今、少しだけ形を失っている。
助かっただけではない。
今、確かに筋書きがずれた。




