第6話 嫌われない方法で正しさを通す
茶会の日の支度は、いつもの朝支度よりずっと静かだ。
別邸の窓から差し込む午後の光はやわらかく、鏡台の上に並んだ小瓶や櫛の縁だけを白く照らしている。部屋の中央には、今日のために用意された淡い藤色のドレスが広げられていた。光の加減で少し灰みも見える、落ち着いた色合いだ。甘すぎず、華やかすぎず、それでいてきちんと目を引く。
つまり、かなりいい。
「リネット」
「はい」
「左の飾り紐、少し下がっているわ」
「失礼しました」
私はすぐに位置を直した。
ほんの指一本分の違いだ。けれど、お嬢様はこういうずれを見逃さない。
「耳飾りはそれでいいの?」
「はい。光りすぎず、お顔立ちの邪魔をしないものを選びました」
「邪魔、ね」
「お嬢様はもともと十分お綺麗ですので」
「今さら取り繕わなくて結構よ」
「本音ですが」
「そういうことをさらりと言うの、時々どうかと思うわ」
鏡越しに睨まれた。
けれど、その睨みも今日は少しだけ薄い。
いつものロザリア様なら、こういう時もっとすぐに切り返してくる。なのに今日は、言葉の間が少し長い。視線も、鏡の中の自分より、その向こうの何かを見ているようだった。
緊張しているのだ。
お嬢様は、不安になると黙り込む人ではない。
むしろ逆だ。確認が増える。細部に意識が向く。手順を何度もなぞる。そうやって不安を、手の届く形へ変えていく。
「招待状は持ったわね」
「はい」
「予備の手袋は」
「こちらに」
「席順の仮表は」
「まだ正式版が出ておりませんので、頂いた控えだけです」
「そう」
短く返したあと、ロザリア様は自分の指先を見た。
何も持っていない、きれいな手だ。けれど、その指先がほんのわずかに動く。落ち着かない時のお嬢様の癖である。
私は髪を整える手を止めずに言った。
「お加減でも」
「いいえ」
「でしたら、少しだけ考えごとをされているお顔です」
「そう見えるの?」
「はい。先ほどから飾り紐を二度、手袋を一度、招待状を三度確認されましたので」
「よく見ているわね」
「お仕えしておりますから」
「監視に近い気もするけれど」
「そこまで熱意はございません」
「少しはあるのね」
「少しは」
ほんの少しだけ、口元が緩む。
でも、それだけだった。
私は最後の髪飾りを留めながら、鏡の中のお嬢様を見る。
淡い藤色のドレスはよく似合っている。銀金の髪はきちんとまとめられ、深紅の瞳の鋭さも、今日は宝石みたいに落ち着いて見えた。学園内の親睦茶会に出る令嬢として、申し分ない。誰が見ても完璧だと思うだろう。
けれど、その完璧に整えられた外側の下で、お嬢様の心が少しだけこわばっているのが分かった。
「お嬢様」
「何」
「本日は、見た目の仕上がりとしては大変よろしいです」
「見た目“は”と言いたいのかしら」
「少しだけ」
「あなた、本当に余計な一言を忘れないわね」
「職業病かもしれません」
「侍女の?」
「前世からの方です」
ロザリア様は、そこで初めて少しだけこちらをまっすぐ見た。
鏡越しではなく、ちゃんと目で。
「……あなた、茶会が嫌なのね」
「私ですか?」
「違うの?」
「お嬢様ほどでは」
「やっぱり嫌なのね」
私は少しだけ言葉に詰まった。
嫌というか、怖いのだ。
ああいう場は、列の乱れのように目に見える不備がないぶん、よほど厄介である。笑顔と沈黙と、わずかな視線の向きだけで、誰かを悪者にできてしまうから。
でも、それを今ここでそのまま言うのは違う気がした。
「茶会そのものより、そこで起きうることが少々」
「あなたらしい言い方ね」
「お嬢様に言われると複雑です」
「複雑で結構よ」
そう返してから、ロザリア様はほんの少しだけ視線を落とした。
部屋が静かになる。
こういう時、無理に明るくするのはたいてい失敗する。
だから私は、すぐには何も言わなかった。耳飾りの留め具を確かめ、手袋の縫い目を見て、必要な沈黙がほどけるのを待つ。
先に口を開いたのは、お嬢様の方だった。
「ああいう場は、嫌いだわ」
それは独り言のような声だった。
私に向けて言ったのか、自分へ言ったのか、その中間みたいな声音。
「何を言っても、余計に響くもの」
「……はい」
「別に、話したいわけではないのよ。けれど、間違っていることがあれば気づくでしょう」
「はい」
「気づいて、それでも黙っているのは性に合わないわ」
「存じております」
「でも、私が何か言えば、それだけで刺々しいと思われる」
その言葉に、私は手を止めた。
ロザリア様は、鏡の中の自分を見ていない。
もっと遠く、たぶんこれまで積み上がってきた“怖い”“きつい”“近寄りがたい”という印象の方を見ている。
「黙っていれば、少しはましなのでしょうね」
ロザリア様は言った。
「余計なことを言わず、にこやかにして、相手に合わせて、当たり障りのないことだけ言っていれば。そういう方が“感じのいい令嬢”なのでしょう」
「お嬢様」
「でも、間違いを見過ごすくらいなら、嫌われた方がましだわ」
その一言は、強くて、静かだった。
ああ、と思う。
この人の芯は、本当にここなのだ。
優しく思われたいから言葉を選ぶ人ではない。
好かれたいから黙る人でもない。
間違ったこと、雑なこと、誰かが困ることを見て見ぬふりにできない。だから口を開く。だから嫌われる。そこまで分かっていても、たぶんやめられない。
不器用というには、あまりに真っ直ぐだ。
私は、鏡の前に立つお嬢様を見つめた。
この人は、自分が損をしていることにちゃんと気づいている。
それでも正しさを手放さない。
なのに、その正しさが届かないまま“怖い人”で終わってしまうのは。
それは、ものすごく惜しい。
「お嬢様」
「何かしら」
「本日は、嫌われない方法で正しさを通しましょう」
ロザリア様が目を上げた。
深紅の瞳が、少しだけ揺れる。
私は続けた。
「お嬢様の言葉が届かないの、もったいないです」
「……もったいない?」
「はい。お嬢様は、間違っていることを見て見ぬふりにできない方です」
「それは、良い性質とは限らないわ」
「そうかもしれません」
「なら」
「でも、怖いだけで終わるのは、私は嫌です」
口にしてから、自分でも少しだけ驚いた。
ずいぶん真っ直ぐに言ってしまった気がする。
けれど、引っ込める気にはなれなかった。
「お嬢様は、ただ刺すために言っているわけではありません」
私は、鏡越しではなくその横顔へ向かって言う。
「見過ごしたくないから、気づいたから、口にしてしまうのでしょう」
「……ええ」
「でしたら今日は、それをちゃんと届く形にしましょう」
「嫌われない方法で?」
「はい」
「そんな都合のいいことができるの」
「やります」
「随分自信満々ね」
「仕事ですから」
しばらく、ロザリア様は黙っていた。
この沈黙は重いものではない。
むしろ、今口にした言葉がどこへ落ちていくのかを見ているような沈黙だった。
やがて、ロザリア様はほんの少しだけ視線を伏せる。
「……もったいない、なんて言われたのは初めてだわ」
「それは光栄です」
「褒めていないわよ」
「でも、悪くは思われていないお声でした」
「耳までよく回るのね」
「はい。控えめに申し上げて高性能です」
「控えめの意味を勉強し直した方がよさそうね」
そう言ったお嬢様の声は、少しだけやわらかかった。
不機嫌でもなく、諦めでもなく、ほんの少しだけ力が抜けている。
その変化だけで、私には十分だった。
「では、仕上げを」
「ええ」
私は最後に肩のラインを整え、手袋を渡した。
ロザリア様はそれを受け取り、指先まできちんとはめる。ひとつひとつの動作が美しい。もともとそういう人だけれど、今日はそこに静かな覚悟が混ざって見えた。
立ち上がったロザリア様は、鏡の前で一度だけ自分の姿を確かめる。
淡い藤色のドレス。まとめた髪。控えめな耳飾り。強すぎず、でも弱くは見えない装い。
そしてその奥にいるのは、やっぱり“何かを見過ごせない人”だ。
「行くわ」
「はい」
私は一歩下がった。
普段ならこのまま入口まで見送って、あとは控えの侍女へ引き継ぐ流れだ。茶会の場では、専属侍女見習いは外で待機することも多い。
だから、次の一言は少しだけ意外だった。
「今日は、あなたも控えについてきなさい」
私は顔を上げた。
ロザリア様はもう前を向いている。
けれど、その横顔に迷いはなかった。
「……よろしいのですか」
「よろしいも何も、必要でしょう」
「そうですが」
「あなた、自分で言ったではないの。嫌われない方法で正しさを通すと」
「はい」
「なら最後まで責任を持ちなさい」
胸の奥で、何かが静かにほどけた。
これは、かなり明確な信頼だ。
ただ便利だから連れていく、ではない。
お嬢様は今、自分の一番危ういところを私に預けると言っている。
私は深く頭を下げた。
「承知しました」
「よろしい」
「本日も無事故を目指して尽力いたします」
「事故前提で話すのやめてちょうだい」
「善処いたします」
「やっぱり不安ね」
それでも、その声にはもう最初の硬さがなかった。
廊下へ向かう扉が開く。
別邸の外には、茶会へ向かうための馬車が待っているはずだ。
危ない場になる。
それはたぶん間違いない。
ミレイユがいて、王太子がいて、上位貴族令嬢がいて、学園の空気と記録がある。
けれど今日は、一つだけ昨日までと違う。
お嬢様は一人で向かうわけではない。
そして私も、ただ後ろから危険台詞を回収するだけのつもりではない。
今日こそ、お嬢様の言葉を怖さだけで終わらせない。
そう心の中で言い切って、私はロザリア様の半歩後ろについた。




