第4話 花は乱暴に扱われるのを嫌う
温室の朝は、学園の他の場所より少しだけ静かだ。
ガラス越しの光が白くやわらかく差し込み、葉先に残った水滴が小さくきらめいている。土の匂いはしっとりと湿っていて、朝の冷えた空気と混ざると妙に気持ちが落ち着く。
だから私は、この場所がわりと好きだった。
問題は、その穏やかな空気の中でも、お嬢様の台詞は相変わらず危険だということだけである。
「東側、やっぱり乾きが早いわね」
温室へ入るなり、ロザリア様はそう言った。
視線は最初の棚ではなく、その向こう、朝の日差しが長く当たる位置に置かれた鉢植えの列へ向いている。私は半歩後ろで記録帳を開いた。
「昨日の散水量はやや多めでした」
「多めでも、風が入れば表面は先に乾くわ。土の色を見なさい」
「はい」
言われた通りに見れば、たしかに東側の鉢だけ表面の色が少し薄い。
土を見ただけでそこまで分かるの、本当にどういう目をしていらっしゃるのだろう。
ロザリア様は次の棚へ歩きながら、管理札を指先で軽く持ち上げた。
「これ、文字がにじんでいるわね」
「朝露でしょうか」
「それだけではないわ。昨日、書き換えた時に乾かし切らなかったのでしょう。あとで替えた方がいいわ」
「承知しました」
さらに二歩進んで、今度は鉢の向きをほんの少しだけ直す。
「こちらは日差しが強すぎるわ」
「移動させますか」
「今すぐでなくていい。授業後に陰へ半歩分だけ。急に変えると今度は葉が驚くもの」
「はい」
私は急いで記録帳へ書き込んだ。
お嬢様のこういうところを見るたび、つくづく思う。ロザリア様は花が好きだ。ただし、一般的な意味での「きれい」「かわいい」で終わる好きではない。本気の好きである。
毎朝、管理記録に目を通し、気温や湿度の変化まで覚え、札のにじみや鉢の向きまで気にする。優雅というより実務だ。いや、実務の域を少し越えている気もする。
「リネット」
「はい」
「昨日、補助当番が変わったわね」
「え?」
「水量の癖が違うもの。記録をつける字も少し丸いわ」
「……本当ですね」
「本当にね」
さらりと言われた。
さらりと言われたけれど、昨日の当番交代に気づく情報量ではないと思う。
私は思わず笑いそうになった。
するとロザリア様がこちらを振り返る。
「何」
「いえ。お嬢様は本日も容赦なく細かいなと」
「細かいのではなく、見えているだけよ」
「それを一般には細かいと申します」
「あなたの“一般”は時々ずいぶん雑ね」
「お嬢様に言われると少々複雑です」
「複雑で結構」
ぴしゃり。
けれど、声色はいつもの不機嫌とは少し違う。温室へ入ってからのお嬢様は、ほんの少しだけ機嫌がいい。無表情の角が一枚薄い、とでも言えばいいのだろうか。
授業開始まではまだ少し時間があり、ほかの令嬢たちも温室へ入ってきていた。朝の光の中で、皆それぞれに「まあ、綺麗」と声を上げたり、珍しい花の前で足を止めたりしている。
その中に、ひときわ目を引く白い花の前でしゃがみ込む令嬢がいた。
「見て、この色」
「本当に珍しいわ」
「香りはどうかしら」
数人の令嬢が囲んでいるのは、淡い青みを帯びた白い薔薇だった。
学園でも滅多に咲かない希少種で、花弁が薄く、少し触れただけでも傷みやすい。昨日の記録にも、お嬢様がその名前に印をつけていたのを覚えている。
私は視線を向けたまま、何となく嫌な予感を覚えた。
そして嫌な予感は、たいてい外れない。
「少しだけなら平気よね」
一人の令嬢が、そう言って手を伸ばした。
手袋はしていない。しかも指先がまっすぐ花弁へ向かっている。かなりまずい。
「触らないでちょうだい。傷んだらどうするの」
空気が、ぴたりと止まった。
お嬢様である。
今日も今日とて反応が速い。そして第一声に遠慮がない。
手を伸ばしていた令嬢はびくりと肩を震わせた。周囲の令嬢たちも、何ごとかとこちらを振り向く。
私は一歩前へ出る。
「お嬢様は、その花がとても繊細な品種なので、近くでご覧になるのは構いませんが、直接お触れになるのは避けた方がよいとおっしゃっています」
「そ、そうなのですか?」
「花弁が薄く、乾いた指先でも傷みやすいそうです。香りを確かめるだけでも十分楽しめますよ」
手を引っ込めた令嬢は、心底驚いた顔で薔薇とロザリア様を見比べた。
ロザリア様はその視線を受けても表情を変えず、まっすぐ花の方へ歩み寄る。
「昨日より開いているわね」
「はい」
「朝の光で一段やわらかく見えるわ。だから余計に触りたくなるのでしょうけれど」
そこまで言って、お嬢様はほんの一瞬だけ花を見つめた。
それから、珍しく少しだけ言葉を選ぶように、静かに続ける。
「花は、乱暴に扱われるのを嫌うものよ」
その一言は、思っていたよりずっとやわらかく響いた。
令嬢たちはきょとんとしていた。
たぶん今の言葉は、私が補足しなくても少し届いた。
私は内心で、小さく瞬きをする。
お嬢様は気づいているのだろうか。
たぶん、気づいていない。
けれど今のは、ちゃんと“怖い”だけではなかった。
「す、すみません。知らなくて……」
「知らないなら、先に聞きなさい」
「はい」
「綺麗だから触るのではなく、綺麗なまま見る方法を覚えた方がいいわ」
「……はい」
うん、後半で少し戻った。
でも十分である。かなり十分だ。
ロザリア様は薔薇のそばへしゃがみ込み、花弁の先を傷つけないよう距離を置いたまま状態を確認した。葉の裏、棘のつき方、鉢の向き。さらに鉢の縁に残った水滴へも視線が落ちる。
「水は今朝でちょうどいいわね」
「はい」
「けれど根元に風が通りにくい。右の鉢を少しだけ下げた方がいい」
「授業後に移動しておきます」
「お願い。あと、この札は書き直し。青の配合が多すぎて品種名が読みにくいわ」
「承知しました」
令嬢たちはまだその場にいた。
怖くて動けない、というより、思っていたのと違って戸惑っている顔だった。
その中の一人が、小さな声で言う。
「ロザリア様って、そんなにお詳しいのね」
「当然でしょう。管理記録を読めば分かることよ」
普通なら、自慢に聞こえてもおかしくない返しだ。
けれど今のお嬢様は、本当に“当然”だと思っているだけなのがよく分かる。
私は少しだけ助け舟を出した。
「お嬢様は毎朝、温室の管理記録も確認していらっしゃるのです」
「毎朝?」
「はい。水量や日当たりの変化も気にされています」
令嬢たちの目が丸くなる。
驚きの理由が、「そこまで真面目に見ている人だったの?」へ変わっていくのが分かった。
ロザリア様は少しだけ眉を寄せる。
「別に、誇るほどのことではないわ」
「では隠すほどでもないかと」
「あなたは本当に余計なことを言うわね」
「事実を申し上げております」
「事実は時々、黙っていてほしいものだわ」
その時、先ほど手を伸ばしかけた令嬢が、おそるおそる口を開いた。
「ロザリア様は……その、お花がお好きなのですね」
私はそこで、思わず息を止めた。
それはたぶん、この場でいちばん自然で、いちばん正しい言葉だったからだ。
ロザリア様は一瞬だけ黙った。
たぶん返事を考えている。
好き、と言い切るには少し照れるのかもしれないし、管理責任の話へずらそうとしているのかもしれない。
結局、お嬢様はほんの少しだけ視線を逸らして言った。
「好きというより、雑に扱われるのが嫌いなだけよ」
「それを一般には、かなり好きと言うのでは」
「リネット」
「はい」
「今のは黙っていてもよかったのではなくて?」
「いえ、かなり正確でした」
ロザリア様はため息をついた。
けれど本気では否定しなかった。
それで十分だ。
授業開始の鐘が、遠くで鳴る。
令嬢たちは慌てて持ち場へ散っていき、温室の中に再び静かな流れが戻ってくる。
ロザリア様は立ち上がり、白薔薇をもう一度だけ見た。
その視線はやっぱり、綺麗だから眺めるというより、無事かどうかを確認するそれだった。
私はその横顔を見ながら思う。
お嬢様は、ただ怒りっぽいわけではない。
守るべきものが傷つきそうな時に、反応が鋭すぎるだけだ。
人でも、花でも、手順でも、管理でも。
雑に扱われることを嫌う。
だからすぐに止める。
止め方が少し不器用すぎるだけで。
温室を出る前、私はそっと声をかけた。
「お嬢様は本当に花がお好きなのですね」
「好きというより、管理が雑なのが嫌いなだけよ」
「それを一般には好きと言うのでは」
「あなたの一般は、本当に都合がいいわね」
「お嬢様に都合よく学んでおりますので」
「迷惑な侍女」
それでも、声は少しだけやわらかい。
私は小さく笑って、その半歩後ろへ戻った。
そして背後で、誰かの小さな呟きを聞く。
「ロザリア様って、本当は花がお好きなのね」
ほんの小さな、けれど確かな印象の変化だった。
私は振り返らず、そのまま歩く。
きっと、こういう一つひとつなのだろう。
怖い。きつい。近寄りがたい。
そんな札の上に、少しずつ別の言葉が重なっていく。
それはまだ、とても小さい。
でも小さいからこそ、今ならきっと間に合う。
お嬢様が悪役令嬢という雑な役へ押し込まれる前に。
その本音が、ちゃんと別の形で届くように。
温室の扉が静かに閉まる。
ガラス越しに白薔薇が揺れていた。




