第3話 食堂では列が命です
食堂という場所は、食事をするためだけに存在しているわけではない。
少なくとも王立セレスティア学園では違う。
誰がどこに立ち、誰の隣に座り、誰に声をかけ、誰がそれを遠巻きに見るのか。そういう細かな流れまで含めて、食堂は毎日きちんと社交の訓練場をしている。
そして今日は、朝から嫌な詰まり方をしていた。
「止まっていますね」
「見れば分かるわ」
昼前の大食堂。
焼きたてのパンの匂いと、温かなスープの香りと、銀器のかすかな触れ合う音。その中で、配膳の列だけが妙に滞っている。
私はロザリア様の半歩後ろに付き従いながら、前方へ目をやった。
原因は、すぐに分かった。
「あ、あの、私は後ろで構いませんから……」
「遠慮しなくていいよ、フォルナ嬢」
「そうそう。殿下もこちらにいらっしゃるんだし」
「少しくらい先でも、誰も気にしないさ」
淡い栗色の髪を肩のあたりで揺らしながら、困ったように立ちすくんでいる少女がいる。
ミレイユ・フォルナ。
この世界が前世で遊んだ乙女ゲームに似ていると気づいた時、まず確認した名前のひとつだ。子爵家の娘で、奨学生としてこの学園に通っている。気負いのない、やわらかな雰囲気の持ち主で、良くも悪くも人の視線を集めやすい。
そして今、王太子周辺の男子生徒たちに囲まれて、見事に列を止めていた。
本人は止めたいわけではないのだろう。
困った顔をしているし、ちゃんと遠慮もしている。
ただ、押しの強い相手にきっぱり言えない。それだけでこうなる。
面倒な話だ。
もっと面倒なのは、こういう“誰が悪いとも言い切れない場面”ほど、あとで一番こじれやすいことだった。
ロザリア様の歩く速度が、ほんの少しだけ落ちる。
私は横目でその表情をうかがった。
あ、と思う。
あのお顔はよくない。
お嬢様の中の「見過ごせない」が起動した顔だ。
しかも今回、お嬢様の視線はミレイユそのものというより、止まった列と、待たされている生徒たちと、配膳係の困り顔へ向いている。つまり完全に、場の乱れを見ている。
方向は正しい。
正しいのだけれど。
「見苦しいこと。場をわきまえなさい」
ほら来た。
ぴしゃりと通る、澄んだ声だった。
声量は大きくないのに、周囲のざわめきが一瞬で止まる程度には響く。これだからお嬢様は恐ろしい。内容より先に空気が刺さるのだ。
男子生徒たちが振り返る。
ミレイユも肩を震わせて、こちらを見た。
その顔を見た瞬間、私は一歩前へ出る。
「お嬢様は、皆さまが公平にお食事を受け取れるよう、順番をお守りいただきたいとお考えです。混み合っておりますので、お話はお席についてからでも」
空気が、わずかに動いた。
「……ああ、そうだな」
「悪かった」
「フォルナ嬢、どうぞ」
男子生徒たちが道を空ける。
配膳係も、ほっとしたように肩の力を抜いた。後ろで待っていた生徒たちの列も、ようやく流れ始める。
ロザリア様は不満そうに私を見た。
ええ、分かります。今のお顔は「そんなに長く言っていないわ」のお顔です。
けれど今回は、長さが必要だった。
誰か一人だけを責めたように見せず、場そのものの問題へずらすために。
ミレイユはまだ少し強張っていたが、それでも小さく頭を下げた。
「あ、ありがとうございます」
「礼には及びませんわ」
ロザリア様はそう返した。
素っ気ない。実に素っ気ない。けれど、その視線はミレイユの持つトレーに一瞬だけ落ちていた。
重そう、と思ったのだろう。
いや、言葉にはしないけれど。
「そのままだとスープをこぼすわ。トレーの持ち方を少し内側へ寄せなさい」
言い方。
でも内容は親切だ。
ミレイユは目をぱちぱちさせてから、慌てて手の位置を直した。すると確かにぐらつきが減る。
「あ……」
「袖口が広い時は、肘を広げるとぶつけやすいのよ」
「は、はい……」
ロザリア様はそれだけ言って、もう前を向いた。
教えたから満足したのか、それともそれ以上は話す気がないのか。たぶん両方だ。
私は内心で小さく息を吐く。
危ない。とても危なかった。
でも、ぎりぎり無事に着地した。
配膳を受け取りながら、周囲の小声が耳に入る。
「今の、フォルナ様に向けて怒ったんじゃなかったの?」
「でも、列を止めていたのは事実でしょう」
「ロザリア様にしては、思ったより露骨ではなかったわね」
「露骨ではない、って言い方もどうなの」
「だって、もっと怖いかと思っていたもの」
その“もっと怖いかと思っていた”が、いちいち面倒だ。
人は一度作った印象を、なかなか手放さない。しかもこの学園の空気は、誰かを役に当てはめると急に物語みたいに分かりやすくなる。
優しい主人公。
気高い王太子。
そして、きつい婚約候補。
そういう配役の方が、たしかに見やすいのだろう。
でも現実の人間は、そんなに都合のいい札だけでできていない。
私はトレーを持ち直し、少し離れた位置へ目をやった。
王太子アルベルト殿下が立っている。柔らかな金髪に青い瞳、整った顔立ち。視線は一瞬こちらへ向いていたが、すぐに前へ戻った。
止めた方がいいかと迷って、止めきれなかった。
そんな顔だった。
完全に何も見えていない人ではない。
ただ、動くのが少し遅い。今はまだ、それだけだ。
席へ向かう途中、ロザリア様が低く言う。
「リネット」
「はい」
「見苦しいこと、で十分伝わるでしょう」
「はい。刺さる形では」
「あなた、最近本当に遠慮がないわね」
「お嬢様の危険台詞に対する危機管理意識が育ちました」
「育てた覚えはないのだけれど」
「私は毎日育っております」
「迷惑な成長ね」
私は口元を押さえた。
笑うと怒られる。たぶん。少なくとも少しは。
席に着くと、ロザリア様はスープ皿を前に、ふうと息を吐いた。ほんの少しだけ、肩の力が抜けている。
「列を止めるのは本当に好まないわ」
「存じております」
「食堂は食事を取る場でしょう」
「はい」
「会話なら席でできるのに、なぜああも入口で固まるのかしら」
「殿下の周囲は、だいたい少し華やぎますので」
「華やいで列を止めるくらいなら、静かで結構よ」
厳しい。
しかし気持ちは分かる。後ろの空腹な人間に優しくない。
「フォルナ様は困っておられました」
「ええ。見れば分かったわ」
「でしたら、もう少し最初の一言を」
「何」
「丸く」
「丸く」
「はい。お怪我はありませんか、とか」
「列が止まっている時に?」
「まず相手を安心させてから本題へ」
「長いわね」
「人の心には緩衝材が必要です」
「あなた、その理屈を気に入っているでしょう」
「便利ですので」
「便利だからといって、何度も使わないでちょうだい」
そう言いながらも、ロザリア様は本気では怒っていない。
たぶん自分でも、さっきの言い方が少し鋭すぎたと分かっているのだろう。
その時、少し離れた席にトレーを置く音がした。
顔を上げると、ミレイユがこちらから見える位置に座っていた。直接近くではない。けれど、目が合うには十分な距離だ。
彼女は一瞬だけ戸惑ったあと、小さく会釈した。
怖いと思っている顔だった。
でも、それだけではない。
“さっきのは、本当に叱責だけだったのだろうか”と考えている顔だ。
ロザリア様は一瞬、目を細めた。
どう返すのかと思ったが、結局何も言わず、ただ軽く顎を引くだけにとどめた。
それでいい。
今はまだ、それで十分だ。
ミレイユもそれ以上は近づかず、自分の席へ視線を落とした。完全に安心しているわけではない。けれど、先ほどより緊張が一段ゆるんでいるのは見て取れた。
周囲はそうでもないらしい。
「今の、挨拶したのかしら」
「でもフォルナ様も頭を下げていたわよね」
「ロザリア様にしては……」
「にしては、って何よ」
「いえ、その、もっとぴりぴりするかと」
ひそひそ声が飛ぶ。
うるさい。食事は静かにしてほしい。
だが、これもまたこの学園の空気だ。
誰かが誰かに話しかけた。頭を下げた。視線を向けた。その一つひとつに意味を乗せたがる。
ロザリア様はパンをちぎりながら、ぼそりと言った。
「思ったほど露骨ではない、だそうよ」
「聞こえていらしたのですか」
「耳はありますもの」
「ご気分を害されましたか」
「少しだけ」
「少しなのですね」
「多すぎると食事がまずくなるわ」
その答えに、私は少しだけ笑ってしまった。
ロザリア様は私を見る。
「何」
「いえ。お嬢様は、やはり悪役には向いていないなと」
「それ、褒めているの?」
「かなり」
「変わった褒め方ね」
私はスープを一口飲んだ。少しぬるい。列が止まっていたせいかもしれない。やはり食堂では列が命だ。
そして同時に思う。
ミレイユは、少なくとも私が恐れていたような“無邪気に周囲を振り回す主人公”ではなさそうだ。困っていたし、止めようともしていた。
王太子も、完全に見ていなかったわけではない。
なのに、こうして少し立ち位置が重なるだけで、周囲は勝手に意味を作り始める。
困っている少女。
それを囲む男子生徒。
遠くからきつい声で場を正す公爵令嬢。
切り取れば、いくらでも“悪役令嬢の一幕”らしく見える。
たとえ本人たちの思惑が、そこまできれいに並んでいなくても。
誰も断罪なんて始めていない。
それなのに、舞台だけが少しずつ整っていく。
私はトレーを持ち直しながら、静かに息を吐いた。
本来の主人公まで巻き込んで、舞台は少しずつ整い始めている。




