第25話 便利な悪役なんて、あってたまりますか
補助閲覧室は静かだった。
静かすぎて、誰かが頁をめくるたび、その乾いた音がやけに大きい。机の上には綴りが何冊も開いたまま並び、そのどれにも、お嬢様の名前と、気に障る語が並んでいた。
高圧的。
威圧的。
糾弾。
頁を渡るたび、同じ単語が平然と顔を出す。
便利だからで済ませていい仕事ではない。こんなの、ただの職務放棄だ。
「分かりやすい悪役の方が、処理しやすい」
ユリウスが、先ほどと同じ調子で言った。
私はそこで、綴りから顔を上げた。
「処理」
その二文字を、口の中で噛み潰す。
「情報の鮮度を殺して、型にはまった嘘へ流し込む。……それがあなたの言う“処理”ですか」
ユリウスは肩をすくめる。
「書記局もずいぶんと、コストの低い人材を揃えているのね」
ユリウスは否定しなかった。
それがなおさら腹立たしい。
ロザリア様が、静かに口を開いた。
「そういうものなのでしょう」
視線は綴りの上に落ちたままだった。
「短く分かりやすく書くなら、その方が都合がいい。わたくしは、そういうところへ押し込めやすいのでしょうね」
指先が、古い紙の繊維を千切りそうなほど強張っていた。
またその顔だ。
理不尽を見つけても、怒るより先に飲み込む顔。
そうやって先回りして傷を浅くしようとする、その癖ごと引き剥がしたくなる。
「私は嫌です」
気づけば、そう言っていた。
ロザリア様が顔を上げる。
ユリウスも、アルベルト殿下も黙った。
「こういう“結論ありき”の雑な編集を、私の前で当然みたいに言わないでください」
私は綴りを押さえたまま言う。
「意図的に因果関係を入れ替え、主語を殺し、都合のいい結論だけを強調する。……見事な加工品だわ。これを記録と呼ぶには、インクが汚すぎる」
「嫌だと言っても」
ユリウスが、そこで静かに水を差した。
「これが学園の“正解”として残る。感情で記録は上書きできませんよ」
私はそちらを見た。
「ええ、できませんね」
声がひどく静かになる。
「だから腹が立つんです」
綴りの頁を指で叩く。
「強く言った。場が張った。怖かった。そういう数文字だけで、お嬢様のしたこと全部に蓋をする」
茶会の綴りを引き寄せる。
「怪我を先に見たことも、列を戻したことも、本を必要な人へ返したことも、危ない棚を止めたことも。ぜんぶ削って、“はい高圧的”で済ませる」
指先が紙へ食い込む。
「そんな帳簿、私の机に回ってきたら即差し戻しです」
アルベルト殿下は何も言わなかった。
ただ、比較綴りの上に置いた指が動かない。
安っぽいインクで作られた毒を、自分も進んで飲んでいた。その事実だけが、あの場に重く沈んでいた。
「謝罪なんて要りません」
私は殿下を見ずに言った。
「その権限だけ、今は貸してください」
返事はなかった。
だが、否定もなかった。
私はロザリア様を見る。
「お嬢様は、強い言い方をなさることがある。ええ、それは事実です」
そこで一度、言葉を切る。
「でも、それを理由に“高圧的な婚約者候補”の一行へ押し込めていいわけがない」
承認欄を指で押さえた。
「お嬢様という、たった一人の人間が。こんな安っぽいインクの染みに塗り潰されている」
声が低くなる。
「それが、我慢ならないんです」
ロザリア様は少しだけ言葉を失った。
唇へ触れかけた指が、行き場をなくしたみたいに止まる。
困っている。呆れている。たぶん、少しだけ救われてもいる。
「……あなたは、本当にそういうところが面倒ね」
間を置かず、そう返ってきた。
呆れたような言い方だった。
けれど、紙を見る時より声がほんの少しやわらかい。
「ええ」
私は頷いた。
「面倒でも、引く気はありません」
ユリウスが小さく息をつく。
「感情論で終わるなら、ここまでです」
「終わりませんよ」
私は承認欄を指で叩いた。
「ここからが実務です」
綴りの角を揃える。
承認印のかすれ方。押し込みの深さ。インクの乾き方。
どれも、もう逃がさない。
「この“便利な嘘”を通した人間が、どの紙で、どのタイミングで、どんな癖のある筆圧で頷いたのか」
私は頁の端に指をかけた。
「一秒も逃さず洗い出して差し上げます」
そして次の頁を、まるで敵の喉元に爪を立てるみたいな手つきでめくった。




