第24話 基準はあります。たぶん、都合のいい形で
承認印の欄を見つけたあと、私はしばらく紙から目を離せなかった。
食堂、温室、図書室。
筆記者は違う。なのに最後に通した印の癖が似ている。押し込む角度も、かすれ方も、妙に揃っていた。
「基準はあるのか」
低く落ちた声は、アルベルト殿下のものだった。
紙に殴られて、ようやく痛みの場所を掴んだ人間の顔をしている。ほんの少し前までの、曖昧な困惑とは違った。
「高圧的。威圧的。糾弾」
私は綴りを机の上へ揃えた。
「同じように止めても、こちらは“適切な指導”。どういう基準で、この語を選ぶんです」
ユリウスは、綴りの背を軽く叩いた。
「基準はありますよ」
妙に素直な答え方だった。
「綺麗なものではありませんが」
「どう汚いんです」
「記録魔法は、騒がしい方から先に拾う」
私はそこで遮った。
「つまり、誠実に配慮するより、大声でわめいた方が“正解”になる仕組みなわけですね」
喉の奥がひりつく。
「ゴミ同然の欠陥品だわ」
ユリウスの口元がわずかに歪んだ。
「魔法だけなら、まだ可愛い方です」
「まだ?」
「そこへ人の要約が入る。短く、早く、分かりやすく。読む側が考えなくて済む形へ」
「それで“高圧的”」
「ええ。たった数文字で済みますから」
私は綴りの端を、指先が白くなるまで押し潰していた。
こんな杜撰な帳簿、前の職場なら即差し戻しだ。理由欄に赤を入れて、提出者の机へ叩き返してやる。
「短い語は便利ですものね」
私は吐き捨てる。
「順番を弄り、主語をぼかし、都合のいい理由だけ末尾へ落とす。そうして出来上がるのが“高圧的な婚約者候補”ですか。反吐が出る」
ロザリア様が、その時初めて口を開いた。
「わたくしの名前は」
視線は紙に落ちたままだった。
「その程度の数文字で塗りつぶせるほど、安いものだったのね」
私はすぐに返した。
「安くありません」
声が思ったより冷たくなる。
「ただ、記録を作る側の仕事が三流なだけです」
ロザリア様がわずかに目を上げる。
「リネット」
「私の管理下で、こんな杜撰な帳簿を“最終決定事項”にさせるわけにはいきません」
私は綴りを押さえたまま言う。
「美学に反します」
ロザリア様は何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ睫毛が揺れた。
アルベルト殿下が比較綴りへ手を伸ばす。
私は待たなかった。食堂の頁と別の上級生の記録を並べ、指先で行を叩く。
「これです」
私は殿下に向かって言った。
「お嬢様は“高圧的注意”。こちらの令嬢は“適切な指導”。やっていることはほとんど同じだ」
さらに次の頁を開く。
「こちらは“強い糾弾”。あちらは“厳格な注意”。手順不備を止めた、それだけの話です」
紙を押さえる指に力が入る。
「どうして、こっちだけ人柄の欠陥みたいに書かれるんです」
殿下の頬が、自分の無能を突きつけられたみたいにひどく醜く引きつった。
言い訳は出ない。
否定もできない。
紙が並んでいる以上、それは当然だった。
「僕は……」
やっと出た声は掠れていた。
「こんな紙を読んで、彼女を判断していたのか」
今さらだ、と思う。
思うが、そこへ慰めを差し出すほど私は優しくない。
「紙の方が楽でしょう」
私は言った。
「人ひとりを理解するより、数文字で済みますから」
ユリウスがそこで、承認欄を指先で示した。
「面白いのは、そこだけではありません」
「何です」
「筆記者が違うのに、語彙の癖だけが揃っている」
私は承認印の並びへ目を落とす。
「ええ」
「つまり、どこかで“通していい語”が選ばれている」
「承認者がいる」
「少なくとも、頷く役はいるでしょうね」
私は綴りの端を折り曲げかけて、ぎりぎりで止めた。
「気分で選んでいるんですか」
殿下が低く問う。
「半分は」
ユリウスが答える。
「この人物にはこの語が“しっくりくる”という感覚。残り半分は、運用です。短くしたい。早く通したい。読む側に一目で分からせたい」
「その結果がこれ」
私は吐き捨てる。
「欠陥品扱いの帳簿ですか」
ユリウスは否定しなかった。
補助閲覧室の奥で、インク瓶の蓋が閉まる。
乾いた小さな音だった。なのに妙に耳障りだ。
ロザリア様は、その音の方を一瞬だけ見てから、また紙へ視線を戻した。
「便利なのね」
お嬢様が静かに言う。
「強い言葉を使う。婚約者候補で目立つ。少し言い方がきつい。そういう人間は、短く悪くまとめるのにちょうどいい」
私は返事をしなかった。
否定の言葉が役に立つ段階は、もう過ぎている。
「分かりやすい悪役の方が、処理しやすい」
ユリウスの声は静かだった。
「記録はそういうものです」
私は顔を上げた。
「なら、その“処理”をした人間を洗います」
声はひどく落ち着いていた。
「誰がどのインクで通し、どのタイミングで承認印を押したのか。筆圧の癖から印のかすれ方まで、一秒も逃さず拾って差し上げる」
ユリウスの目が細くなる。
「本気ですね」
「当然でしょう」
私は承認欄を指で叩いた。
「こんな雑な仕事で、お嬢様の名前を潰されてたまるものですか」
そして、もう一度その印を見た。
押し込みが深い。
インクの乾き方も、他より荒い。
苛立っていたのか、面倒で乱暴に処理したのか。どちらにせよ、痕跡は残る。
私は口元だけで笑った。
「覚悟しておきなさいな」
誰に向けた言葉か、自分でも分かっていた。




