第2話 お嬢様の台詞は少々危険です
ロザリア・エーデルフェルト様の朝は早い。
正確には、使用人全員の朝が早い。
その中でも、お嬢様の朝はひときわ隙がない、という意味である。
「リネット、今日の予定」
「一限が歴史学、二限が園芸学、昼を挟んで礼法、午後は魔法基礎です」
「提出物」
「歴史学の比較考察が一部、園芸学の観察記録が一冊です」
「予備」
「比較考察の写しを一部、観察記録の控えが一冊、手袋の替えが一組、刺繍糸のほつれ用に簡易裁縫道具を少々」
「よろしい」
よろしい、をいただいた。
私は胸の内で小さく息をつく。
お嬢様からの「よろしい」は、私にとって朝一番の無事故証明だ。
窓の向こうでは、薄い雲がゆっくり流れている。春らしい明るさはあるけれど、風はやや強い。私は制服の襟元を整えながら、お嬢様の髪に最後の櫛を通した。
鏡の中のロザリア様は、今日も完璧だった。
銀金の巻き髪は艶やかで、深紅の瞳は朝から容赦なく強い。どう見ても「悪役令嬢の入場です」という顔をしている。実際、その配役だったのだから、間違ってはいないのだけれど。
「午後、風が強くなるわ」
「はい」
「温室の東側は乾きやすいでしょうね。昨日の水量が多かったから、表面だけ見て足さないようにしないと」
「園芸学の補助当番へ伝えておきます」
「それと、今日の歴史学は提出順で揉めるわよ」
「はい?」
「昨日の休み時間に、前列の方々が“細かい順番は見ない”と話していたもの」
「……見ますか」
「あの教師は見るわ」
きっぱりと断言された。
私は思わず少し笑ってしまう。
お嬢様はこういう人だ。
花の管理記録を読み、教師の癖を覚え、天気から授業の乱れまで先に読む。自分のことだけ整えて満足する人ではない。たぶん学園全体の細かいほころびに、気づこうと思わなくても気づいてしまうのだ。
だからきっと疲れる。
それでいて、その気づきの全部が少々危険な言葉で出力されるのだから、周囲は余計に怖がる。
「リネット」
「はい」
「笑うところだったかしら」
「いえ。お嬢様は今日も朝から抜かりがないなと感心しておりました」
「感心で済む顔ではなかったわね」
「少しだけ、教師のご愁傷さを思いまして」
「まあ。失礼な侍女」
そう言いながら、ロザリア様は鏡越しに私を見る。
怒ってはいない。たぶん、半分くらいは同意している。
私は今日の鞄の中身をもう一度確認した。教本、ノート、写し、手袋。そこへ、年若い侍女が小走りで部屋へ入ってくる。入ってきた瞬間に分かった。顔色がよくない。唇の色も薄い。
「ろ、ロザリア様、予備の手袋を……」
差し出された箱を見て、私は目を細めた。
予備のはずなのに、入っているのは片方だけである。
まずい、と思うより早く、お嬢様の声が落ちた。
「その程度も確認できないの?」
来た。朝の危険台詞である。
ただし今日は、朝の廊下で書類が盛大に散った時ほど派手な事故ではない。日常業務の延長線上にある、静かでよくある危険だ。
私は口を挟むタイミングを測った。
しかしその前に、ロザリア様の視線が侍女の顔に止まる。
「……あなた、顔色が悪いわね」
「え」
「指先も冷えているでしょう。昨夜から具合が悪かったのではなくて?」
「い、いえ、その」
「答える前に座りなさい」
鋭い声のまま、お嬢様は自分で手袋箱を取り上げた。中身を見て、すぐにもう一つの引き出しを開ける。
「予備はこちらに入れ直しておいたはずよ。誰が入れ替えたの」
「そ、それは……たぶん、私が」
「具合が悪い時に細かい作業をして、確認も抜けたのね」
「申し訳ありません……」
「謝る前に休みなさい。倒れられる方が面倒だわ」
はい、ここで整えます。
「お嬢様は、無理をして倒れられる方が困るので、今日は下がって休むようにとおっしゃっています」
「は、はい……」
「医師を呼ぶほどではないでしょうけれど、温かいものを飲んで少し眠りなさい」
危ない。いろいろな意味で危なかった。
年若い侍女は目を丸くしていたが、やがて深く頭を下げた。
そのままふらつきそうになったので、私は慌てて肩を支える。やはりかなり熱がありそうだ。
「部屋まで送ります」
「ええ、お願い」
「お嬢様、では少しだけ」
「早く戻りなさい。あなたまで遅れると困るわ」
「承知しました」
送り出す言葉としては少々刺さる。
けれど本音は、たぶん「あなたの分まで私が回すのは手間だから、体調を崩すな」である。
だいぶ分かるようになってきた。
いや、分かるようになりたくてなったわけではないのだけれど。
*
侍女を休憩室に寝かせ、私は急いで戻った。
部屋へ入ると、ロザリア様はすでに自分で手袋を整え終えていた。しかも私の分の学園通行証まで机に並べ直してある。
「お待たせしました」
「三分遅いわ」
「最短で戻りました」
「なら結構」
言いながらも、お嬢様は机の上を顎で示した。
「あなたの通行証、裏向きで置かれていたから直しておいたわ」
「ありがとうございます」
「ついでに、園芸学の記録控えも一冊増やしておいた」
「……一冊増やして?」
「東側の棚の件、補助当番が混乱するかもしれないでしょう。余分があれば回しやすいわ」
「ありがとうございます」
やっぱりだ。
お嬢様は、叱るだけ叱って終わる人ではない。自分で直せるなら直すし、倒れそうな人は休ませるし、その後の手間まで先回りして埋める。
ただ、その全部が怖く聞こえるだけで。
「リネット」
「はい」
「今のは、そこまで危険だったかしら」
「前半がやや危険でした」
「どのあたり」
「“その程度も確認できないの?”の部分です」
「事実でしょう」
「事実はだいたい刺さります」
「では、何と言えばよかったの」
「“確認が漏れています。今日は体調も良くなさそうですから、下がって休んでください”あたりでしょうか」
「長いわね」
「はい」
「わたくしの一言で済むものを、なぜ四倍に増やすの」
「人の心には緩衝材が必要です」
「箱ではないのだから」
「お嬢様の言葉が毎回直撃するので」
「本当に失礼ね」
ぴしゃりと言われたが、今日は声に呆れが混じっている。
昨日より少しだけ、受け流しが上手くなっている気がした。
いや、私に対する諦めが進んだのかもしれない。
どちらでもよい。前進である。
私たちが部屋を出ると、廊下の角で二人の侍女が小声で話しているのが聞こえた。私に気づいて慌てて口を閉じたが、遅い。だいたい聞こえている。
「……ロザリア様って、やっぱり怖いわよね」
「でも最近、前より少し空気が違う気がしない?」
「それは、あのリネットがついてからじゃない?」
「ずいぶん近いものね。よく怒られないわ」
「怒られているのかもしれないけれど、あんまりこたえていない感じ」
「それもすごいわよね……」
私は足を止めずに通り過ぎた。
視線が背中に刺さる。別に珍しいことではない。
専属侍女見習いが主人の横でしょっちゅう口を挟むのだ。目立たないわけがない。
だが、お嬢様の危険台詞をそのまま放流する方が被害は大きい。
多少目立つくらい、安いものである。
「今の、聞こえていたのでしょう」
前を歩くロザリア様が言う。
「はい」
「気にしないの」
「多少は」
「多少なのね」
「お嬢様が昨日より少し受け流してくださるので、私も倣っております」
「倣わなくて結構よ」
「ですが、お嬢様もお気になさっているでしょう」
「……別に」
「今、少しだけ歩く速度が上がりました」
「リネット」
「はい」
また名前を呼ばれた。
怒られる時の声だ。だいぶ分かってきた。
けれどその顔を見ると、いつもの冷たい不機嫌ではなかった。ほんの少しだけ、考え込んでいる顔だ。
「怖い、と言われるのは慣れているわ」
「はい」
「でも、最近空気が違う、というのは……妙な言い方ね」
「変化を感じているのでは」
「変わったつもりはないのだけれど」
「実際、中身はほとんどそのままです」
「そのまま、は余計ではなくて?」
「ただ、お嬢様の本音が少し届きやすくなっているのかもしれません」
「あなたの意訳のおかげで?」
「おかげで、です」
「ずいぶん自信満々ね」
「仕事ですから」
ロザリア様は少しだけ目を細めた。
怒るのかと思ったが、そうではなく、私をじっと見てから小さく息を吐く。
「……なら、あなたは仕事をしなさい」
「承知しました」
「わたくしの言葉が、妙な方向へ飛ばないように」
「それはもう、全力で」
「全力なのは少し不安だわ」
そんなことを言っているうちに、学園への馬車が門前へ着いた。
御者が扉を開け、私たちは乗り込む。
揺れる車内で、ロザリア様は今日の記録帳を開いた。園芸学の温室区画について、細かい書き込みがびっしりある。どの棚の水量がどう、どの札が読みにくい、昨日見かけた補助当番の手際がどう。几帳面にもほどがある。
「お嬢様」
「何」
「そこまで見ていて、どうして毎回、最初に飛び出す言葉だけああなのですか」
「どういう意味かしら」
「“その程度も確認できないの?”より先に、“具合が悪そうです”が出てもよいのでは」
「そんなに一度に言えるわけがないでしょう」
「では、どちらかを選ぶなら」
「まず、目についた不備が出るわ」
「正直ですね」
「不正確な言葉よりはましよ」
「それはそうですが、正確さの方向が少し鋭利です」
「あなた、本当に失礼ね」
「本日二回目のお言葉です」
「数えなくて結構よ」
でも、そのやり取りをしながら私は少しだけ腑に落ちていた。
お嬢様は、人の機嫌を取るために言葉を選ぶ人ではない。
先に見えた問題から口に出る。だから不備も、危険も、失敗も、体調不良も、全部が同じ強さで飛び出してしまう。
それが“怖い人”に見える理由なのだろう。
でも、悪役かと言われると違う。
悪役なら、失敗した相手の提出順まで直さない。
悪役なら、体調不良の侍女に自分で代替案を組まない。
悪役なら、風が強い日の温室当番の負担まで気にしない。
つまりお嬢様は、怖いのではなく、見えすぎるのだ。
そして見えたものを、そのまま全部口にしてしまう。
……だいぶ危ないけれど。
馬車が学園へ着く少し前、ロザリア様は窓の外を見て言った。
「午後、少し冷えるわ」
「はい」
「さっきの子、あのままでは熱をこじらせる」
「医師に診せるよう、侍女頭へ伝えておきます」
「ええ。ついでに、今日の当番は軽い方へ回して」
「承知しました」
「それと」
一拍置いてから、ロザリア様は少しだけ声を低くした。
「……さっきの件、あなたの判断でよかったわ」
「どの件でしょう」
「意訳の件よ」
「まあ」
「驚くほどのことではないでしょう」
「いえ。今日は北風が吹くかもしれません」
「さっきから風の話ばかりね」
「お嬢様に褒められるのは珍しいので」
「褒めてはいないわ」
「では、かなり前向きな業務評価ということで」
「そう受け取るなら勝手になさい」
窓の外を見たまま言う横顔は、やはり少しだけ不機嫌そうに見える。
でも、耳がほんの少しだけ赤い。
ああ、と思う。
お嬢様はやっぱり、悪役には向いていない。
悪役というのは、たぶんもっと人を雑に見られる者の役だ。
怖がられても気にせず、誤解されても構わず、他人を駒として扱える者の役だ。
ロザリア様は違う。
言い方は危険だし、第一声はだいたい事故だし、たまに私でも心の準備が必要なくらい切れ味がいい。
でも、それでもこの人は、人を雑には見ていない。
正確には、悪役ほど雑に人を見ていない。
馬車が止まり、学園の正門が見えた。
今日はここから、またお嬢様の危険台詞がいくつ飛び出すだろう。
私は小さく背筋を伸ばす。
たぶん、この仕事はまだ始まったばかりだ。
でも少なくとも一つだけ、昨日よりはっきりしたことがある。
お嬢様は、悪役に向いていない。
問題は、向いていないのに、その役へ押し込まれそうなところだ。
だから私は、今日もその半歩後ろに立つ。
お嬢様の本音が、怖さだけで終わらないように。
危険な台詞が、未来の破滅に積み上がらないように。
そんなことを考えながら、私は学園の石畳へ降り立った。




