第19話 悪役の印象だけが残るのは、おかしい
掲示板の隅に貼られた実習記録を見た瞬間、私は抱えていた温室利用簿を握りつぶしそうになった。
薬草実習。
強い口調による指摘あり。場に緊張。
その後、配置整理。
それだけ。
あの場でお嬢様が見ていたのは、詰まる導線だ。標本箱を抱えた生徒同士がぶつかる、あの嫌な並び。ひとり転べば二人三人と巻き込む。だから止めた。止めて、直した。
なのに、残ったのは強い口調と緊張だけ。
助けた事実は、紙の端へ追いやられたパン屑みたいな扱いだった。腹立たしいことに、筆記者の関心は「何を防いだか」ではなく、「いかに彼女が怖かったか」にしか向いていないらしい。
「怖い顔ですね」
横から差した声に振り向くと、ユリウスがいた。
書記局の扉の前。今日は壁にもたれず、妙にきちんと立っている。そういう時ほど、この男はろくでもない。
「これを書いたのはあなたですか」
私は掲示を示した。
「違います」
「では通したのは?」
「そこまで行くと守秘の範囲です」
「ずいぶん安い盾ですね」
「使い勝手がいいんですよ。身も守れるし、いざとなれば人も殴れる。紙というものはね」
私は掲示へ視線を戻した。
「“配置整理”」
声が少し低くなる。
「本来、そこが主題でしょう。混乱を防いだんです」
「そうですね」
「それが末尾に一言」
「上出来な方ですよ」
私は顔を上げた。
「上出来?」
「茶会の記録はもっとひどい」
ユリウスはさらりと言った。
「“場を緊張させた後、収拾に協力”」
「協力」
「図書室は“高圧的注意により貸し出し順是正”」
胃の腑に、真っ黒なインクをぶちまけられたような不快感が走った。
目の前の男が、前の世界で私を嘲笑った無能な上司どもと同じ顔に見える。事実を「見出し」に変換して、仕事をした気になっていた連中の顔だ。
「雑ですね」
私が言うと、ユリウスは口元だけで笑った。
「記録は忙しいんですよ」
「怠慢の言い訳としては凡庸です」
「いいえ。怠慢だけなら、まだ可愛げがある」
私は黙った。
ユリウスはその沈黙を楽しむように、少しだけ首を傾ける。
「書記局だけが、ペンを持っていると思いましたか」
「……続けてください」
「嫌です」
「殴りますよ」
「物騒だ」
「お嬢様の未来を雑な摘要で削られて、穏やかでいろという方が無理です」
ユリウスの目が、ほんの少しだけ細くなった。
「教師。補助生徒。行事の監督」
断片だけ、落としてくる。
「皆、インクを無駄遣いするのが仕事ですからね」
「つまり」
「皆、自分の見たいものを書く」
「……」
それで十分だった。
茶会で残るのは“緊張”
図書室で残るのは“高圧的注意”
実習で残るのは“強い口調”
別々の紙だ。別々の手だ。
それなのに結論だけが、揃いも揃って同じ顔をしている。
「……それ、もう編集でしょう」
「ようやくそこまで来ましたか」
「編集です。しかも悪質な」
「読みやすい形へ整えているだけですよ」
ユリウスの声は軽い。
「声がデカくて、見た目が怖くて、場の空気を最悪にする。見出しにするには、それだけで十分すぎる材料ですからね」
「人間としては最低です」
「でも紙は、人間より見出しの方が好きだ」
背骨を、冷たい鉄筆でなぞられたような感触が走った。
悪役は扱いやすい。
その一言で済んでしまう。
怖い。きつい。場を乱す。
そういう摘要が三枚四枚と重なれば、それだけで一人の人間が出来上がる。
「このまま積み上がったら、どうなります」
私は訊いた。
ユリウスは一拍置いてから答えた。
「一ヶ月後の婚約関連の評価書で、綺麗に使われるでしょう」
私は何も言えなかった。
「威圧的。協調性に難あり。場を緊張させる傾向あり。伴侶として不適」
彼は淡々と続ける。
「そのへんの文言が、見栄えよく並ぶんじゃないですか」
一ヶ月。
その短さに、喉の奥がひりついた。
茶会で流れを変えたことも。
図書室で守ったことも。
ミレイユ様へ不器用に手を伸ばしたことも。
全部まとめて、“しかし高圧的”の一行で押し流されるのか。
冗談ではない。
「あなたも、その紙を並べる側でしょう」
私が言うと、ユリウスはあっさり頷いた。
「ええ」
「共犯ですね」
「観測席の近くにはいます」
「線引きの仕方が卑怯です」
「立ち回りが上手いと言ってほしいですね」
私は温室利用簿を抱え直した。紙の角が掌へ食い込む。痛い。だが、その痛みがちょうどよかった。頭が冷える。
「……状況は分かりました」
「それは何より」
「ユリウス様」
私はまっすぐ彼を見る。
「あなたはせいぜい、その観測席から落ちないよう気をつけておくことです」
「脅しですか」
「予告です」
ユリウスの口元が、ようやくはっきりと歪んだ。
「次は記録を見に?」
「ええ」
「骨が折れますよ」
「折れても構いません」
「書き手は一人じゃない」
「知っています」
「敵も一人とは限らない」
「それでもです」
私は書記局の扉へ目をやった。今すぐ飛び込むわけではない。順番がいる。見る場所がある。掴むべき紙がある。
けれど、やることはもう決まった。
誰がどのインクで、どの紙に、その一行を書いたのか。
筆跡の癖ひとつまで洗い出してやる。
「実務家ですね」
ユリウスが言った。
「職人気質と言っていただけますか」
私は答える。
「こんなゴミ同然の仕事、記録として残させるわけにはいかないでしょう」
ユリウスはそれ以上何も言わなかった。
ただ少しだけ道を空けた。
私は温室利用簿を脇へ抱え直し、そのまま踵を返す。
まずは摘要の流れを辿る。
教師の手元。補助生徒の控え。行事所感の書式。
話はそこからだ。




