第14話 フォルナ様は、断るのが苦手です
人に頼まれやすい人というのはいる。
しかも、そういう人に限って断るのが苦手だったりするから厄介だ。
それに気づいたのは、教室棟と準備室をつなぐ細い廊下だった。
昼休みの終わりが近く、次の授業へ向かう生徒たちが教本や資料を抱えて行き交っている。壁際には授業用の紙束を載せた台車があり、準備室の扉は半開きだ。中からは教材棚を探る音と、誰かの「急いでくださいな」という小さな声が漏れていた。
私はロザリア様の半歩後ろで記録帳を抱えながら、そこにいる人物を見つけて、あ、と思った。
ミレイユ様である。
両腕いっぱいに紙束を抱え、肩からは布袋まで下げていた。しかもその布袋の口からは、板書用の白紙束がのぞいている。腕の上には授業用の標本箱まで乗っていて、どう見ても一人分の仕事量ではない。
「フォルナ様、そのままついでに教師室へもお願いできます?」
「ええと、はい……」
「あ、でしたらこの提出帳も一緒に。わたくし、次の授業が少しぎりぎりで」
「それくらいなら、大丈夫です」
「助かりますわ。やっぱりフォルナ様って頼りになりますわね」
「それから、薬学の備品確認表、準備室に戻すだけですので」
「……は、はい」
頼んでいる側は、誰も悪い顔をしていない。むしろ感謝すらしている。だから余計にたちが悪かった。
少しだけ。ついでに。助かります。
そうやって柔らかい布をかぶせれば、押しつけはたいてい親切の顔をする。
ミレイユ様は断れないのだろう。返事をするたびに声が少しずつ細くなるのに、それでも「無理です」とは言わない。荷物を抱え直す指先が危なっかしく揺れ、標本箱の角が今にも滑りそうだった。
隣で、ロザリア様の歩みが止まった。
深紅の瞳が、ミレイユ様の腕の中の資料、布袋の重み、標本箱の角度、周囲の頼み方へ順に流れていく。お嬢様の眉間に寄った皺は、苛立ちというより、見過ごせないものを見つけた時のものだった。
だが今日は、すぐには口を開かなかった。
喉元まで来たいつもの鋭い言葉を、一度、奥へ押し戻したのがわかる。ほんの短い間だったのに、その逡巡ははっきり見て取れた。
そして、選んだ言葉は。
「あなた、便利に使われ……」
そこでお嬢様はわずかに詰まり、自分で言い直した。
「いえ、都合よく頼られすぎではなくて?」
惜しい。
だが、前より確かに一歩進んでいる。
廊下の空気が止まった。
ミレイユ様がはっと顔を上げる。頼みごとをしていた令嬢たちも、そろってこちらを向いた。
「あ、あの……私、別に、嫌では……」
「嫌かどうかの話ではないでしょう」
ロザリア様は、ミレイユ様の腕の中の標本箱を見たまま言った。
「ご自分の準備も終わっていないのに、それだけ抱えて階段を上がるおつもり? 落としたら中身も駄目になるし、あなたも危ないわ」
誰もすぐには言い返さなかった。
手伝いを頼んでいた令嬢たちが、互いに顔を見合わせる。気まずそうに視線を泳がせ、けれど誰かのせいにはできない顔だった。標本箱の角。紙束の重み。今さらそれが、目に見える形でそこにある。
「そんなつもりではありませんでしたの」
一人が小さく言う。
私はそこで、ひと言だけ添えた。
「お一人に集まれば、それはもう“ついで”では済みません」
笑って流せる場ではないと伝わったのだろう。令嬢たちは黙り込み、やがて一人が「それ、わたくし持ちますわ」と標本箱に手を伸ばした。もう一人が紙束を引き取り、別の一人が布袋を持ち上げる。
ロザリア様は追い打ちのように言う。
「親切は結構。けれど、同じ方にばかり重ねるのは感心しませんわ」
それで十分だった。
令嬢たちは明らかに居心地悪そうに荷物を引き取っていき、廊下の端にたまっていた重みは、みるみるミレイユ様の腕から消えていった。
最後に残ったのは、自分の教本と、小さな記録帳だけだった。
ミレイユ様は、あまりの軽さに戸惑ったように立ち尽くしている。
「……ありがとうございます」
消え入りそうな声だったが、その視線ははっきりとロザリア様へ向けられた。
お嬢様は、ふいと顔をそらす。
「礼には及びませんわ。……授業に遅れるほど引き受けるなんて、感心しないと言っているの」
ぶっきらぼうな言い方だった。けれど、さっきまでの棘はもう薄い。
ミレイユ様は記録帳の端をそっと撫でた。白い指先が、ほんのわずかに止まる。
私は小さく身を寄せ、声を落とした。
「お嬢様は、ずっとご覧になっていたのですよ。お声をかける機会を探して」
ミレイユ様が、弾かれたように顔を上げる。
その目は、茶会の時よりも、図書室で会った時よりも、もう半歩だけ近いところにあった。
「……心配してくださったんですか?」
来た、と思った。
それは、ここまでのやり取りがようやく形になった一言だった。だが受ける側のお嬢様には、ずいぶん不意打ちだったらしい。
ロザリア様が、珍しくはっきりと言葉に詰まる。
「それは、その……」
唇が動いて、止まる。
はっきり否定するには遅すぎて、素直に認めるには照れが邪魔をしている。深紅の瞳がわずかに揺れ、それからふいと窓の方へ逃げた。
「……見ていられなかっただけよ」
ようやく出たのは、そんな一言だった。
ぶっきらぼうで、少しだけ硬い。けれど、突き放すほど冷たくはない。
ミレイユ様が小さく目を見開く。
「見て、いられなかった……?」
「ええ」
ロザリア様はまだこちらを見ないまま言う。
「一人であれもこれも抱えて、ふらついて、それでも断れなくて。そんな顔で立っていられたら、こちらの気分が悪いわ」
言い方は相変わらずである。
けれど、最後の一言だけ、妙に力が弱かった。
ミレイユ様はその言葉を、すぐには返さなかった。記録帳を抱えたまま、指先だけが少し動く。さっきまで荷物に埋もれていた腕が、今はひどく細く見えた。
「……ご迷惑を、おかけしましたか」
おそるおそる尋ねる声音に、ロザリア様の眉がぴくりと動く。
「そういうことを言っているのではありません」
今度は少し早口だった。
「あなたはすぐそうやって、自分のことを後ろへやるのね。迷惑かどうかではなくて……その、もっと、他にあるでしょう」
途中からご自分でも着地が見えなくなったらしく、語尾が曖昧になる。
ミレイユ様は困ったように、それでもどこか嬉しそうに首をかしげた。
「他に、ですか?」
「……ご自分が大変だとか」
「……あ」
ごく小さな声だった。
その一音だけで、廊下の空気が少し変わる。
ミレイユ様は、腕の中の教本と記録帳を見下ろした。軽くなったはずなのに、まだ何かを抱えたままのような顔だった。けれどそれは、さっきまでの重さとは少し違う。
「私……」
言いかけて、ミレイユ様は口を閉じる。
それから、ほんの少しだけ笑った。
「自分では、平気なつもりでした」
ロザリア様がそこでようやく、そちらを見る。
「平気な方は、あんな持ち方をしませんわ」
「……そうかもしれません」
「そうです」
ぴしゃりと言ったあとで、お嬢様はわずかに視線を逸らした。
「断れないのなら、せめて考えなさい。今の自分に持てる量くらい」
「はい」
「全部に手を出して倒れたら、結局どなたの役にも立たないでしょう」
「はい……」
返事は素直だった。
素直すぎて、ロザリア様の方が少し言葉に詰まる。
叱るつもりで言ったのに、こんなふうに真っ直ぐ受け取られると調子が狂うのだろう。お嬢様は小さく息をついてから、ほんの少しだけ声を落とした。
「……まあ、今日は間に合ったから、それでよろしいけれど」
それはたぶん、精いっぱいの譲歩だった。
ミレイユ様は目を丸くして、それから今度こそ、はっきりと微笑んだ。
「はい。ありがとうございます、ロザリア様」
名前を呼ばれた瞬間、ロザリア様の肩がわずかに揺れる。
「そんなに何度も礼を言われるようなことではないわ」
「でも、嬉しかったので」
「……そう」
短い返事だった。
けれど、その一言は先ほどまでよりずっと静かで、棘も薄い。
授業開始を告げる鐘が、そこで廊下の向こうから鳴り始めた。
はっとしたようにミレイユ様が顔を上げる。
「あ、いけません。次、薬学です」
「でしたら急ぎなさい」
「はい」
駆け出しかけて、ミレイユ様はまた足を止めた。振り返った顔には、さっきまでなかった明るさが差している。
「あの」
「今度は何ですの」
「次は、少し考えてから引き受けます」
一瞬だけ、ロザリア様が黙る。
それから、いかにも不本意そうな顔で、それでも小さくうなずいた。
「……最初からそうなさい」
ミレイユ様はふわりと笑って、今度こそ教室の方へ駆けていった。
その背を見送りながら、ロザリア様は腕を組む。
「本当に、危なっかしい方ね」
「ですが、お言葉は届いたようです」
「届かなければ困るわ」
「ええ。とても」
そう返すと、お嬢様は何も言わなかった。
ただ、廊下の先へ消えた背中を、ほんの一拍だけ長く見ていた。




