第13話 図書室では静かに、でも正しく
図書室は、食堂よりずっと静かで、茶会よりずっと正直だと私は思っている。
誰が何を読みたがっていて、誰が本当は急いでいて、誰がただ「先に取った方が勝ち」みたいな顔をしているのか。
声が小さいぶん、そういうものがかえってよく見えるのだ。
そして今日も、王立セレスティア学園の図書室は、いかにも静かそうな顔で小さな不公平を育てていた。
昼休みの後半。
高い窓から差し込む光が、長机の端と本棚の背を白く照らしている。紙と革の匂い。遠くでめくられる頁の音。貸出記録台の横では、図書室係の生徒が羽根ペンを走らせながら、困ったように眉を寄せていた。
私は返却用の本を腕に抱え、ロザリア様の半歩後ろを歩く。
お嬢様は今日も、図書室へ入った瞬間から目当ての棚ではなく、貸出台のまわり、人の流れ、積まれた本の題名へ視線を走らせていた。
そういうところなのだ。
お嬢様は、何かを読む前にまず場を読む。
「お嬢様、本日は園芸学の参考書二冊と、植物誌の索引巻でよろしかったでしょうか」
「ええ。それと、薬草分類の続巻が戻っていれば見たいわ」
「承知しました」
返却台へ向かいかけた、その時だった。
「……あの、その本、もし今日すぐにお使いにならないのでしたら……」
小さな声がした。
見ると、貸出台の前に下級生の少女が立っていた。胸元の学年章を見るに一年生だろう。両手をきゅっと揃え、目の前の上級生令嬢たちを見上げている。相手は三人。露骨に意地悪そうな顔はしていない。むしろ上品で、丁寧で、にこやかですらある。
そのうちの一人が、本を三冊ほど抱えたまま首をかしげた。
「どの本のことかしら」
「植物分布史の第二巻です……本日、授業で参照するようにと……」
「あら、そうなの?」
「でもわたくしたちも、一応見ておこうと思って」
「ええ、あとで必要になるかもしれませんし」
もっともらしい。
けれど、もっともらしいことと、困っている子がいることは両立する。
図書室係の生徒が口を挟みかけて、やめた。
たぶん分かっているのだろう。今必要なのはあの一年生だ。だが相手は上級生令嬢で、しかも数人いる。図書室という静かな場所は、こういう時に妙に臆病になる。
ロザリア様の歩みが止まった。
深紅の瞳が、抱え込まれている本の背表紙、貸出台の予約札、下級生の手元の授業表を順に掠める。
あ、と思う。
これはもう、お嬢様の中で答えが出ている顔だ。
しかも、ただ「かわいそう」と思った顔ではない。あちらの令嬢が持っている本の何冊かが今日の範囲ではないと、もう見抜いている。
「必要のない方が抱え込まないでくださる?」
静かな図書室で、その一言はきれいに響いた。
下級生がびくりと肩を震わせる。
上級生令嬢たちも、そろってこちらを向いた。
図書室係の羽根ペンの先が、紙の上で止まる。
ほら来た。
内容は正しい。第一声としてはだいぶ危険。実にいつも通りである。
「ロザリア様……」
上級生の一人が目を瞬かせた。
「抱え込む、なんて。わたくしたち、ただ確認しようと思っただけですの」
「補助資料まで抱えて、今日はそんなに勉強熱心なの?」
ロザリア様は淡々と言った。
短い。
けれど十分だった。
来週の範囲まで見越して本を確保している。予約は下級生の方が先。今日必要なのは第二巻だけ。お嬢様はその全部を一瞬で見て、今の一言へまとめたのだ。
感情で動かない。
事実で叩き伏せる。
これがお嬢様の戦い方だ。……口調さえもう少し優しければ完璧なのだけれど。
私は半歩前へ出た。
「お嬢様は、授業に必要な順で貸し出すのが公平ですので、まず閲覧予定の確認をお願いしたいそうです」
声はできるだけ落ち着いて、小さく整える。
「本日参照指定のある方を優先し、その後に予約順で回す形なら、図書室係の方も記録しやすいかと」
図書室係の生徒が、見るからにほっとした顔をした。
「そ、その通りです。記録簿の上でも、その方が明確ですので……」
「あら、でも」
上級生の一人が口を開く。
「わたくしたちだって、あとで使うかもしれませんのよ」
「その“あとで”が授業中でないなら、先に必要な方へ回す方が自然でしょう」
ロザリア様が言う。
「図書室は飾るための本棚ではないもの」
かなり強い。
けれど今回は、理屈が前を歩いている。
「……でしたら」
図書室係がようやく口を開いた。
「本日授業で使用予定のある方を優先し、その後に閲覧予約順でお回しする形でよろしいでしょうか」
「ええ、それが公平です」
私は穏やかに補足する。
「確認だけであれば、図書室内閲覧用の控え本もございますし」
「あ」
下級生が小さく声を上げた。
「わ、私、それで十分です……っ」
「十分ではなくて、本来の順番でよろしいのよ」
ロザリア様が言う。
「必要なのなら、遠慮で引きなさいな」
「は、はい……」
下級生は真っ赤になりながら頷いた。
上級生令嬢たちは気まずそうに視線を交わし、それから抱えていた本を二冊、そっと返却台へ戻す。
「わたくしたちは、別の資料から先に確認いたしますわ」
「そうなさい」
ロザリア様は即答した。
「本は飾りではありませんもの」
「……はい」
下級生の手に、ようやく必要な本が渡る。
「図書室では静かに」
ロザリア様が言う。
そして、わずかに間を置いて続けた。
「でも、順番は正しく」
短い。
でも今のは、かなりよかった。
「ロザリア様……」
下級生が本を胸に抱えたまま、おそるおそる頭を下げる。
「ありがとうございました」
「礼は不要よ」
ロザリア様は視線を外したまま答える。
「次からは必要な時に先に予約なさい。記録は味方になるわ」
「は、はい!」
そのままお嬢様は、本棚の方へ歩き出した。
私は返却台から離れながら、ふと視線を感じて振り向く。
少し離れた閲覧机のそばに、ミレイユ様が立っていた。
どうやら資料を探しに来ていたらしい。抱えている本は二冊だけで、どちらも初等植物誌の薄い巻だ。こちらを見ていたことに気づかれると困ると思ったのか、一瞬だけ目を逸らしかけて、でも結局また見る。
その顔には、前のような怯えがなかった。
驚き。
少しの戸惑い。
そして、はっきりした理解に近いもの。
ロザリア様はまだ気づいていない。
棚の番号を確認しながら、目的の資料の方へ意識を向けている。
「リネット」
「はい」
「薬草分類の続巻、戻っているわ」
「はい。右から三番目です」
「ええ。見えているわ」
「失礼しました」
「本当にね」
ぴしゃり。
でも、そのやり取りが今日は少しだけいつもより軽く聞こえた。
私は本棚から続巻を抜き取りながら、もう一度だけミレイユ様の方を見た。
彼女は小さく本を抱え直して、誰にも聞こえないような唇の動きで、そっと何かを言った。
たぶん、こうだ。
ロザリア様って、ちゃんと見ている人なんだ。
その認識は、きっととても大きい。
そして私は、その小さな変化を少しだけ誇らしく思った。




