第12話 お嬢様は、お礼の言葉が少し苦手です
翌朝の支度は、なぜか妙にぎこちなかった。
別邸の窓から差し込む朝の光はいつも通りやわらかく、鏡台の前には今日使う髪飾りと手袋、教本、提出用の記録帳が整然と並んでいる。部屋の空気も、香りも、時間の流れも、だいたい普段と同じだった。
同じなのに、お嬢様だけが少し違う。
「リネット」
「はい」
「……いえ、何でもないわ」
一度目。
私は髪を梳かす手を止めず、鏡越しにロザリア様を見る。
深紅の瞳はまっすぐ前を向いている。表情はいつも通り、少し不機嫌そうで隙がない。けれど、手袋の縫い目をなぞる指先だけが、ほんの少し落ち着かない。
何か言いたいのだ。
しかも、おそらく危険台詞ではない方の何かである。
危険台詞なら、こんなふうに止まらない。
お嬢様の危険台詞は、もっとためらいなく飛ぶ。矢のように。場合によっては投げ槍のように。
「リネット」
「はい」
「今日の園芸学、記録帳は控えも持ったのよね」
「はい。昨日のうちに二部用意しております」
「……そう」
二度目。
今のは確認に見せかけた別件である。
しかし、それ以上は続かなかった。
私は口元を引き締めた。
これは、かなり珍しい。
お嬢様は言いにくいことがある時ほど、急に手順や確認へ逃げ込む。たぶん本人に自覚はない。
つまり今日は、かなり言いにくいことがある。
「お嬢様」
「何」
「本日はお天気もよく、提出物も揃っており、髪も大変美しくまとまりそうです」
「突然、朝の報告が雑ね」
「いえ。空気を整えております」
「整える必要があるほど何か乱れているの?」
「少々」
「あなたの言い方が一番乱れている気がするのだけれど」
「失礼いたしました」
「本当にね」
ぴしゃり。
でも、声の芯は少しだけやわらかい。
私は最後の髪飾りを留めた。淡い銀の小花を模した飾りが、まとめた髪の上で控えめに光る。今日のお嬢様は、学園用の朝の装いとして申し分ない。いつも通りきちんとしていて、そして少しだけ近寄りがたい。
もっとも、その“少しだけ”を取るのが、ここしばらくの私の仕事なのだけれど。
「できました」
「そう」
「本日も大変お綺麗です」
「それはもう聞いたわ」
「朝は二度くらい申し上げてもよろしいかと」
「よくないわよ」
ロザリア様は立ち上がり、鏡の前で身だしなみを確かめる。襟元、袖口、リボンの左右差、手袋の皺。視線がひととおり流れて、それから、また止まった。
「……昨日のことなのだけれど」
「はい」
来た。
私は表向きは何事もない顔で返事をしながら、内心だけ少し背筋を伸ばす。
ロザリア様は鏡を見たまま、けれど自分の顔ではなく、その少し横あたりを見ている。手袋の指先を整え、直し、また整える。言葉が喉の手前で何度もつかえているのが、こちらにはよく分かった。
「あなたがいなければ、少々面倒だったわ」
「それは光栄です」
「……そういう意味ではなくて」
「はい」
私はそこで余計な言葉を足さなかった。
たぶん今は、焦らせるより待つ方がいい。
ロザリア様は小さく息を吸った。
視線が一瞬だけ泳いで、それから、ようやくこちらへ向く。
「……助かったと言っているのよ」
私はそこで、危うく手元のリボン箱を取り落とすところだった。
今、確かに“助かった”を頂いた。
胸の奥が一瞬で熱くなる。
嬉しいとか、ありがたいとか、そういう言葉だけでは少し足りない。
あのお嬢様が、自分から、ちゃんと、そう言ったのだ。
一拍遅れて、私は深く頭を下げた。
「光栄です」
「大げさね」
「……少々」
「少々ではない顔をしているわ」
「失礼いたしました」
失礼ついでに言えば、たぶん私は今、かなり間の抜けた顔をしている。
でも、それを整えるのに少し時間がかかったのは仕方がないと思う。
「本当に、言いづらいのよ」
ぽつりと、お嬢様が言った。
「お礼がですか」
「そういうことを、改めて口にするのが」
「ですが、今きちんとおっしゃいました」
「言わせたのはあなたでしょう」
「少しだけ、お手伝いを」
「少し、ではなかった気がするのだけれど」
「気のせいです」
「そういうところなのよ」
でも、今の“そういうところ”は怒っていない声だった。
私はようやく息をつき、次の手袋を机へ並べ直した。
部屋の中の空気が、さっきより少しだけ軽い。
するとロザリア様が、今度は前より落ち着いた声で続けた。
「毎回、あなたに拾わせるのも不本意だもの」
「拾わせる、ですか」
「わたくしの言葉をよ」
「それは私の役目ですので」
「そういう顔で言われると、少し腹が立つわね」
「やりがいを感じております」
「余計に腹が立つわ」
ロザリア様は椅子の背へ指先を置き、少しだけ考えるように間を置いた。
「……次からは、私も少しは言葉を考えるわ」
私は顔を上げた。
今、とても大事なことをおっしゃった。
「お嬢様」
「何」
「それは」
「分かっているわ。そんな顔をしなくても」
「いえ」
私は素直に言った。
「とても嬉しいです」
「……そう」
「お嬢様がそう思ってくださるなら、私は全力でお手伝いします」
「全力で」
「はい。甘やかす方向ではなく、支える方向で」
「今、甘やかすとも言いかけたわね」
「少しだけ」
「正直ね」
「お嬢様には」
「そういうところは嫌いではないけれど」
今、かなり重要なお言葉が混ざった気がする。
けれどそこを掘ると、おそらく逃げられる。私は黙っておくことにした。
「ただし」
ロザリア様が言う。
「すぐに上手くいくとは思わないでちょうだい」
「はい」
「相手があまりに愚かなら、保証はしないわ」
「それはまあ、予想の範囲内です」
「予想していたのね」
「お嬢様ですので」
「それ、本当にどういう意味かしら」
「信頼です」
「今のは少し怪しいわね」
けれど、その続きにロザリア様はほんの少しだけ口元をやわらげた。
「努力はするわ」
「はい」
「少しだけ」
「はい」
「本当に少しだけよ」
「それでも十分です」
「あなたがそう言うなら、たぶんそうなのでしょうね」
その言い方が、たまらなくよかった。
開き直りでもなく、諦めでもなく、ちゃんと一歩踏み出そうとしている声だった。
ロザリア様は鏡の前へ戻り、最後に姿勢を整える。
朝の光を受けた横顔は相変わらず綺麗で、近寄りがたいほど整っている。なのに今の私は、その内側にある言いにくさや照れくささまで知ってしまっている。
それがなんだか、たまらなく嬉しかった。
「リネット」
「はい」
「そんなに機嫌のよい顔をしないでちょうだい」
「出ておりましたか」
「かなり」
「失礼いたしました」
「別に、叱っているわけではないのだけれど」
「では、このままで」
「それも違うのよ」
私が口元を引き締めると、ロザリア様は小さくため息をついた。
「あなた、本当に面倒な侍女ね」
「ありがとうございます」
「褒めていないわ」
「存じております」
「そこまで分かっていて、どうして毎回嬉しそうなの」
「お嬢様のお言葉を前向きに受け取るのが得意ですので」
「その才能、別のところで使えないのかしら」
「現在、最大限活用しております」
「本当にね……」
そう言いながら、お嬢様は机の上の教本を手に取った。
そして扉へ向かいかけて、ふと足を止める。
「……今朝のこと」
「はい」
「他の者には言わないでちょうだい」
「承知しました」
「絶対に」
「はい。私の胸の内だけにしまっておきます」
ロザリア様は少しだけこちらを振り返った。
その顔は、照れているようにも、困っているようにも見えたけれど、どちらにせよ少し晴れていた。
「そうしなさい」
それだけ言って、お嬢様は扉の向こうへ出ていく。
私は一歩遅れてその背中を見る。
強くて、不器用で、でも今、自分から少しだけ変わろうとしている背中だ。
危険台詞はこれからも飛び出すだろう。
たぶん普通に飛ぶ。勢いよく。
けれど、それでも。
これは大事件だ。
お嬢様が、自主的に言い換えへ踏み出した。




