第1話 私の仕事は二つある
私の仕事は二つある。
一つは、公爵令嬢ロザリア・エーデルフェルト様のお着替えを手伝い、お茶を淹れ、学園生活を滞りなく整えること。
そして、もう一つは。
「前も見て歩けないのかしら。愚かですわね」
今まさに飛び出した、その危険すぎる台詞を。
「お嬢様は、お怪我がなくて何よりとおっしゃっています。次からは慌てず、お足元にお気をつけくださいませ」
人の住める言葉に翻訳することである。
王立セレスティア学園の朝の廊下。
授業前で人の流れが最も混み合う時間帯に、床一面へ真っ白な書類が散らばっていた。
ぶつかった下級生の令嬢は、顔を真っ青にして固まっている。
周囲の生徒たちも、息を止めたみたいにこちらを見ていた。
分かる。
私も最初はそうだった。
今の台詞が、どう翻訳されたらそうなるのか、と。
けれど説明している時間はない。私は即座にしゃがみ込み、散らばった書類を拾い集めた。
「提出用ですね。順番が入れ替わっています」
「ひっ……も、申し訳ありません、ロザリア様!」
「謝る前に前を見なさい」
鋭い。朝からよく切れる。
さすがお嬢様、本日も絶好調である。
「お嬢様は、慌てるとまた転びますので、まず落ち着くようにとおっしゃっています」
「は、はい……!」
令嬢は半泣きで頷いた。
その時、私の手元を上から見下ろしていたロザリア様が、淡々と言う。
「三枚目と四枚目が逆ですわ」
「ありがとうございます。直します」
「提出先は西棟二階。最初の鐘まででしょう」
「えっ」
「その顔なら、時間も確認していなかったのでしょうね」
令嬢がまた青ざめる。
けれどロザリア様の視線は、責めるというより、急いでいる相手の状況をそのまま見抜いている色だった。
そう。これだ。
お嬢様は、相手を雑に切って捨てているのではない。
ちゃんと見えてしまうのだ。書類の順番も、提出期限も、慌てた足取りも、次に起こりそうな失敗も。
ただ、その全部が剣みたいな言葉で出てくるだけで。
私は順番を整えた書類を令嬢へ返した。
「今ならまだ間に合います。走るなら階段前だけお気をつけください」
「あ、ありがとうございます……!」
令嬢は何度も頭を下げ、今度こそ駆けていった。
その背中を見送りながら、周囲の生徒たちがひそひそと囁く。
「今の、叱ったの……?」
「でも書類、整えていたわよね」
「ロザリア様ってやっぱり怖いけれど」
「怖いだけ、ではないのかしら」
その“怖いだけではないのかしら”が、たぶんこの学園ではいちばん危うい。
期待した筋書きから少し外れた時、人は納得するより先に、また元の形へ戻そうとするものだから。
ロザリア様が私を見た。
深紅の瞳が、じろりと細くなる。
綺麗だ。ものすごく。
美人すぎて、黙って立っているだけなら神殿の壁画に描かれていても不思議ではない。
問題は、口を開くと壁画ではなく公開断罪の配役に見えてしまうことだけである。
「リネット」
「はい」
「わたくしは別に、そんな優しいことは言っていないわ」
「存じております」
「では、なぜああなるの」
「意訳です」
「意訳の幅が広いのよ」
「お嬢様の台詞は、そのままだと切れ味が良すぎるのです」
「切れ味?」
「はい。紙ならすっぱり、心ならざっくりです」
「わたくしの言葉を刃物みたいに言わないでちょうだい」
「では投槍で」
「悪化したわね」
ぴしゃりと言われた。
でも怒鳴られはしない。
この距離感が、今の私たちだ。
ロザリア・エーデルフェルト。
公爵家の令嬢。銀金の巻き髪に、白い肌に、深紅の瞳。立っているだけで場が引き締まる、いかにも高位貴族らしい華と圧を持つ人。
そして、前世で私が遊んでいた乙女ゲームによく似たこの世界において、本来なら“悪役令嬢”と呼ばれる役回りの人でもある。
王太子の婚約候補。
学園で主人公と対立し、嫌味を言い、最後には人前で断罪される側。
そういう配役だ。
ただし、実際に仕えてみて私は確信した。
お嬢様は性格が悪いのではない。
言い方だけが壊滅している。
これは本当に大きな違いだ。
だってお嬢様は、相手が失敗した時に笑わない。
花の管理記録を読み、授業の段取りのほころびに気づき、提出の順番ひとつでも見落とさない。
ただ、その注意が毎回ちょっとどころではなく怖いだけで。
「何をぼんやりしているの」
「失礼しました。お嬢様の台詞の危険度について再確認しておりました」
「再確認しなくて結構よ」
「ですが重要です」
「重要なのは、あなたが最近ずいぶん遠慮を失っていることではなくて?」
「信頼の証です」
「自分で言うのね」
「はい」
ロザリア様は呆れたようにため息をついた。
でも、その口元はほんの少しだけ緩んでいる。
私はそれを見て、少しだけ肩の力を抜いた。
最初からこんなふうに話せたわけではない。
転生して目を覚ました時、私はこの人の専属侍女見習いになっていて、しかもお嬢様は想像以上に“危険な物言いをするが本当はかなりまともな人”だった。
前世の私は、会議の議事録を整えたり、上司の危ない文面を社外向けに丸くしたり、苦情対応の文章を人に見せられる形へ直したりする、そういう仕事をしていた。
だから最初にロザリア様の台詞を聞いた時も、絶望より先に思ったのだ。
これ、整えればまだ助かる。
そこから今日まで、私はずっと、お嬢様の危険台詞をその場その場で人の住める言葉へ変えてきた。
なぜなら、言葉は印象になるからだ。
印象は噂になる。
そしてこの学園では、噂はたいてい本人より先に走る。
しかも厄介なことに、学園には記録魔法まである。
公の場での発言や行事のやり取りの一部は、後から確認できる形で残されるのだという。
詳しい仕組みはまだ知らない。
でも一つだけ分かることがある。
強い言葉は、強いまま残る。
なら、お嬢様のこの口調は危険だ。
正しいことを言っていても。
相手を助けていても。
最後に残るのが「愚かですわね」なら、未来の断罪台に一歩近づくだけである。
「リネット」
「はい」
「さっきの子、提出に間に合うかしら」
「たぶんぎりぎりかと」
「そう」
短い返事だった。
けれどロザリア様の視線は、まだ先ほどの下級生が走っていった方角に向いている。
やっぱり、この人は失敗した相手を笑う人ではない。
笑うどころか、少し気にしている。
「大丈夫です。書類の順番は整えました」
「そう」
「お嬢様が気づいてくださったので」
「……別に、当然のことを言っただけよ」
「はい。お嬢様は、当然のことにちゃんと気づける方です」
「あなた、それ、褒めているつもり?」
「心から」
「そう聞くと少し怪しいわね」
また、口元が少しだけ緩む。
可愛い。
実に可愛い。
これで台詞がもう少し穏当なら、学園でもっと人気が出る。
でもその“もう少し”が、地味に遠い。
廊下の窓から春の光が差し込む。
遠くで次の鐘が鳴る気配がした。
ロザリア様は前を向き、すっと背筋を伸ばす。
「行くわよ。園芸学の前に温室へ寄る」
「今日の管理記録、気になる項目でもありましたか」
「東側の棚の水量が多いのよ。あの品種には少し過ぎるわ」
「承知しました」
ほら、そういうところだ。
花の管理記録まで読んでいて、しかも細かな違いに気づく。
学園の段取りのほころびにも、たぶん人より早く気づく。
失敗した相手も、笑う前に直す方を選ぶ。
ただし、全部の言い方が危ない。
私は半歩後ろから、その背中を見る。
堂々としていて、強くて、少し不器用で、ものすごく損をしている背中だ。
乙女ゲームの悪役令嬢お嬢様を、私は台詞から救う。
今日もまた、破滅の台詞を幸福寄りに言い換える一日が始まるのだった。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
短編版を見つけてくださった方、本当にありがとうございました。
そして今回、連載版から読んでくださった方もありがとうございます。
このお話は、もともと短編として書いたものなのですが、ありがたいことに想像以上にたくさんの反応をいただきました。
「この主従、もっと見たい」
「お嬢様と侍女のやり取りが楽しい」
「この先どうなるのか読みたい」
というお声をたくさんいただき、連載版として最初から書いてみようと思いました。
連載版では、短編で好きだと言っていただけた部分を大事にしながら、
ロザリアのこと、リネットのこと、学園の空気、記録魔法のことなど、少しずつ広げていく予定です。
お嬢様の台詞は相変わらず危険ですが、
たぶん侍女のリネットがなんとかします。
どうぞゆるく、でも長く見守っていただけたら嬉しいです。
これからよろしくお願いいたします。




