第8話 高嶺の花との衝突
月城の曖昧な言葉が、俺の頭の中をかき乱していた。
昼休みのパンも、まるで味がしなかった。
心春は相変わらず俺の耳元でペチャクチャ喋り続けているが、俺は適当に相槌を打つだけで、心の中では別のことを考えていた。
心春は——本当に、俺のことを好きなのか?
◆◆◆
午後四時。
俺は最後の委員会資料を整理し終えて、今日の仕事を終えた。
気持ちよく伸びをして、そろそろ帰ろうかと思った時——
ガタッと椅子から立ち上がった瞬間——
「きゃっ——!」
誰かとぶつかった。
悲鳴とともに、相手が後ろに倒れそうになる。
俺は反射的に手を伸ばして、その手首を掴んだ。
少し力を入れて引っ張ると——
柔らかい体が、俺の胸に飛び込んできた。
淡い、上品な香りが鼻をくすぐる。
まるで——春の花のような、清らかで爽やかな香りだ。
石鹸の香りに似ているが、それよりも繊細で——
「ほ、星宮……!?」
俺の心臓が止まりそうになった。
俺の腕の中にいるのは——星宮雫だった。
慌てて二歩下がる。彼女に、わざと抱きついたと誤解されたくない。
「ご、ごめん! 大丈夫か?」
「……ええ、平気」
星宮が小さく呟いた。
そして——珍しく、少しだけ頬が赤くなっている気がした。
「私こそ、ごめんなさい。急いでいたから、前をよく見ていなくて」
星宮が髪を直しながら、俺の目を見た。
「鷹取くん、怪我はない?」
「あ、ああ……大丈夫」
星宮雫——俺のクラスメイトで、「高嶺の花」と呼ばれている存在。
でも、俺にとって彼女は——
ただのクラスメイトじゃない。
彼女は——俺の店長だ。
Livehouse「CRESCENT」の。
「そういえば、今日は出勤日?」
星宮が小声で聞いてきた。
学校では、俺たちは「CRESCENT」のことを話さない。
それが、暗黙のルールだった。
「いや、今日は休み。明日は行く」
「そう……じゃあ、明日ね」
星宮が小さく微笑んだ。
その笑顔——
学校では決して見せない、柔らかい笑顔。
俺がいつも「CRESCENT」で見る、星宮の顔だ。
「じゃあ、私、文芸部に行くから」
星宮がそう言って、歩き出そうとした時——
「あ、待って」
俺は思わず、星宮を呼び止めていた。
「……何?」
星宮が振り返った。
俺は——
何を言おうとしていたのか、自分でも分からなかった。
ただ——
もう少し、話していたかった。
「その……先週、貸してくれた本」
俺は思わず、そんなことを言っていた。
「『異邦人』だっけ?」
星宮の目が、少し大きくなった。
「……ええ、読んでくれたの?」
「あ、ああ……まあ、途中までだけど」
実は、俺はまだ半分も読んでいなかった。
カミュの『異邦人』——文芸部の活動で星宮が薦めてきた本だ。
正直に言えば、難しい。
でも——
星宮が薦めてくれた本だから、俺は読もうとしていた。
「どうだった?」
星宮が少し期待するような目で俺を見た。
「え、ええと……」
俺は言葉に詰まった。
正直な感想を言えば、「よく分からない」だ。
でも、それを言ったら——
星宮は失望するだろうか。
「……難しいか?」
星宮が小さく笑った。
「カミュは、確かに分かりにくいわね」
「い、いや、そんなことは——」
「嘘つかなくていいわ」
星宮が優しく言った。
「鷹取くんの顔、分かりやすいから」
その言葉に、俺は少し恥ずかしくなった。
「でも——」
星宮が真剣な顔で続けた。
「最後まで読んでみて。きっと、何か感じるものがあるから」
「……分かった」
「約束よ」
星宮が微笑んだ。
その笑顔が——
すごく、綺麗だった。
「じゃあ、また明日。CRESCENTで」
星宮がそう言って、廊下を歩いていった。
俺は——
その場に立ち尽くしていた。
星宮雫の背中が廊下の向こうに消えても、俺はまだ動けなかった。
心臓が、まだ早鐘を打っている。
◆◆◆
鷹取蒼真が星宮雫を知ったのは、入学式の日だった。
その日、彼は特に何の期待も持たずに水月高校の門をくぐった。新しい高校生活。新しいクラスメイト。すべてが新鮮で、すべてが未知だった。
教室の入り口で、蒼真は見た。
黒塗りのレクサスから降りてくる、一人の少女を。
星宮雫——その名前を知ったのは、後のことだ。
彼女は黒いブレザーを完璧に着こなし、腰まで届く黒髪をストレートに流していた。小さな黒縁の眼鏡が、知的な印象を与える。
蒼真のクラスで一番派手な女子は、間違いなく「お嬢様」こと藤堂咲良だったはずだ。藤堂はあの日、BMW7シリーズで送られてきて、眉目の間に誇りを湛え、不動産業を営む父親に別れを告げた後、教室に入ってきた。審査するような目つきで新しいクラスの男子たちを見回し、彼らが驚嘆の眼差しで自分を見返すことを期待していた。
でも、男子たちはみんな、藤堂咲良ほど目立たない星宮雫に視線を送っていた。
星宮は手続きを済ませた後、廊下のベンチで一冊の本を読んでいた。マルグリット・デュラスの『愛人』だった。陽光が彼女の黒いブレザーと白い肌を照らして、すべてが透き通っているようだった。
「お嬢様」は十六年間誇りを持って生きてきたが、高校入学初日に一人の文学少女に敗北した。満腔の不満を抱えていた彼女の隣に、ちょうど空気が読めない男子が立っていて、星宮を指差しながら「お嬢様」に言った。
「あれが多分、うちのクラスの女王だな」
「お嬢様」は自分の美貌に自信を持っていた。こんな屈辱を受けたことがあっただろうか。その男子の足を思い切り踏みつけて、振り返って去っていった。
その男子が——鷹取蒼真だった。
実は蒼真は非常に正直な人間で、星宮雫の方が藤堂咲良より美しいと思ったから、そう言っただけだ。まさか「お嬢様」と三年間も犬猿の仲になるとは思わなかった。蒼真がそう言ったのは全く下心があったわけではない。なぜなら当時、星宮の周りを観賞していた男子は七、八人もいて、どいつも蒼真より優秀で、後にこいつらが文芸部を結成した。
この文芸部の中心は星宮雫で、毎週活動があり、冷たくて悲しい欧米文学作品を読んで、読後感想を国語教師に提出して批評してもらう。蒼真の姉・千夏の言葉を借りれば、「中産階級の白人女性」が読むような本ばかりで、蒼真のような脳みそが足りない奴がなぜ文芸部の理事なのか、理解できないとのことだ。
でも蒼真にとって、星宮雫は人生で初めての女性アイドルだった。彼女は蒼真に理想的な良い女の子のイメージを確立してくれて、わずか十六歳の時に、活発な女の子を探すという考えを捨てさせた。この世で最大の幸福は、星宮雫と——
いや、違う。
蒼真が星宮雫に惹かれたのは、彼女が「完璧」だったからではない。
むしろ——
彼女の、もう一つの顔を知ったからだ。




