第5話 問題だらけの義妹(上)
俺は人生で初めて、死を覚悟した。
でも——次の瞬間、予想外のことが起きた。
もし俺の上に跨がっているのが他の誰かだったら——男だろうが女だろうが、迷わず投げ飛ばしていただろう。
でも、霖だけは別だ。
小さい頃から、俺は一度も彼女をいじめたことがない。たとえ彼女が俺をどれだけ嫌っていても、それだけは守り続けてきた。だから今も、抵抗できずにいる。
「見た……見たら、どうなんだ? 見てなかったら、どうなんだ?」
くそ、何を言ってるんだ俺は。曖昧な答えになってしまった。
この状況がまずい。霖の体重が俺の腹にかかっていて、息が苦しい。月明かりに照らされた彼女の顔が近すぎる。シャンプーの甘い香りが鼻をくすぐる。
「絶対、見たでしょ!」
霖の声が一気に高くなった。
でも次の瞬間——
「あなた……私のこと、笑うでしょ?」
その声は、急に小さく、弱々しくなった。蚊の鳴くような声だ。
意外だった。霖が俺を口封じするつもりだと思っていた。でも違う。彼女は両手で顔を覆って、華奢な肩を震わせている。
俺は混乱したが、すぐに理解した。
誰だって、こんなプライベートな、こんな人に言えない秘密を見られたら、恥ずかしくて死にたくなるだろう。しかも、自分が最も嫌っている義理の兄に見られたんだから。
「なんで笑うんだよ」
俺は言った。
自分でも驚いた。俺は生まれつきのお人好しなのかもしれない。どれだけ彼女に嫌われていても、結局無条件に譲歩してしまう。
霖は案の定驚いて、涙を拭きながら、疑わしそうに探りを入れてきた。
「笑わないの?」
「笑わない」
俺は確信を持って頷いた。
「……なんで?」
警戒心が強いな。俺が嘘をついていると思っているらしい。
「お前の年齢になると、ほとんどの人がそういうことに興味を持つのは普通だ。笑う理由がない」
例を挙げるために、俺は仕方なく自分の恥ずかしい過去を暴露した。
「俺がそういうもの隠してた時は、お前より若かったぞ。中学生の時、親父に見つかって全部燃やされた。マジで死ぬかと思った」
「本当?」
「本当だ。嘘ついてどうする」
「嘘!」
霖が突然また俺の首を掴んだ。再び暴走しそうだ。
「あなた、見たでしょ? 私が隠してたものは、あなたのとは違う。私のは……その……女、女の……」
百合系だろ。そんなに言いにくそうにするなよ。もうバレてるんだから。
彼女が本気で首を絞める前に、俺はできるだけ表情を平静に保とうとした。
「その、趣味としては少し変わってるかもしれないけど、理解できないわけじゃない……」
霖は明らかに信じていない。
「理解できる? なんで? 普通の人は変態だと思うでしょ?」
それ、自分で自分を罵ってるぞ?
俺は霖が人を困らせる才能に本当に感心した。こんな鋭い質問、どう答えればいいんだ?
でも——ここで適当なことを言ったら、きっと彼女は一生このことを引きずる。
俺は深呼吸して、真剣に言葉を選んだ。
「それは……文化の違いだよ」
「文化?」
霖が首を傾げた。
「そう。日本では、百合ってジャンルは立派な文化の一つなんだ」
俺は閃きに従って、堂々と語り始めた。
「考えてみろ。日本の漫画やアニメで、百合ってジャンルはもう何十年も前から存在してる。『マリア様がみてる』とか『ストロベリー・パニック』とか——女子校を舞台にした作品は、日本の伝統的な文学ジャンルの一つだ」
霖が黙って俺の言葉を聞いている。
「それに、百合作品が描くのは、純粋な感情だろ? 女の子同士の友情とか、憧れとか、恋心とか——そういう繊細な感情を丁寧に描いてる。別にエロいことが目的じゃない。むしろ、少女漫画に近い」
俺は続けた。
「俺も音楽アニメとか見るし、友達にはスポーツアニメ好きな奴もいる。百合アニメ好きな女子だって、普通にいる。要するに、ジャンルの一つってだけだ。変態でも何でもない」
俺は霖の目を見て、最後に言った。
「だから——お前が百合作品好きでも、全然おかしくない。むしろ、感受性が豊かな証拠だと思うぞ」
我ながら、よくこんな言葉が出てきたものだ。
でも——これで霖が少しでも楽になるなら、俺は喜んで弁護する。
兄としてやれることは、これくらいしかない。
霖はしばらく呆然と俺を見つめていた。
そして——
「ぷっ」
小さく吹き出した。
「あはは……あははは!」
霖が笑った。銀鈴のような、澄んだ笑い声だ。
一瞬、俺は呼吸を忘れた。
霖の笑顔——こんなに綺麗だったのか。
いつもの無表情が嘘のように、彼女の顔が明るく輝いている。
「お……」
霖が口を開きかけて——慌てて止まった。
顔が真っ赤になる。まるで今、何か言ってはいけない言葉を言いかけたかのように。
俺の心臓が、一瞬だけ大きく跳ねた。
まさか——いや、考えすぎだ。
「優しいね……あなた」
霖が小さく呟いた。
「でも、無理しなくていいよ」
「無理なんかしてないって」
俺は苦笑した。
「……ありがとう」
霖がまだ笑いながら言った。
心の中で、俺はホッとした。良かった。彼女、少しは楽になったみたいだ。
「まあ……好きなものは好きだから」
霖が呟いて、少し照れくさそうに髪を耳にかける。
「それより——」
霖が俺の上から降りた。
そして——意外にも、俺の手首を掴んだ。
「起きて」
「え?」
「起きてってば!」
霖が少し顔を引き締めたので、俺は仕方なく従った。
「私の部屋に来て」
「は?」
俺の口に卵が入りそうなほど驚いた。
「こんな遅い時間に、お前の部屋に何しに行くんだよ? っていうか、そもそもこんな遅い時間にお前、何しに来たんだ? 早く寝ろよ。明日学校あるだろ」
霖が眉を立てた。
「来いって言ったら来る。文句言わない」
完全に俺の優しさに甘やかされてる。
もっと悲しいのは、俺の彼女への譲歩が、もう体の本能になってしまっていることだ。嫌だけど——結局、俺は霖の後をついて、ぼんやりと彼女の部屋に入った。
心配で仕方ない。
罠じゃないよな? こんな遅い時間に妹の部屋に入るなんて、もしかして俺が何か企んでいると濡れ衣を着せて、口封じするつもりか?
そう考えて、俺は急いで言った。
「霖、安心しろ。このことは親には絶対言わないから」
霖は床に膝をついて、ベッドの下から重い段ボール箱を引っ張り出した。そして、不機嫌そうに俺を一瞥して、俺の言葉を無視した。
ベッドを叩きながら言った。
「座って」
彼女のベッドに?
さっき彼女に跨がれた時のことを思い出して、俺は警戒心でいっぱいになった。これは彼女の部屋だぞ。本気で何かされたら、口が百個あっても説明できない。
「おう」
俺は床にどっかりと座った。
彼女の「見つかったら終わり」コレクションへの興味を装って、視線を段ボール箱に向ける。
霖は少し呆然としたが、特に気にせず、慎重に箱を開けた。中から——意外にも、ノートパソコンを取り出した。
「先に誓って」
「誓う?」
「絶対に笑わないって誓って!」
霖の真剣な表情を見て、頭の上に疑問符だらけの俺は仕方なく右手を上げた。
「わかったわかった。誓うよ。絶対に笑わない」
「それでいい」
霖はノートパソコンを俺の前に置いた。そして、再び真剣に警告した。
「絶対に笑わないでね。じゃないと……命がけで戦うから!」
何がそんなに大事なんだよ?
俺は口では適当に答えながら、少し好奇心を持ってパソコンの画面を見た。
Wordのファイルが開いている。
最初はただ何気なく目を通しただけだった。
でも——徐々に、俺の目が丸くなった。
これは——小説だ。
霖が自分で書いた、小説。
タイトルは『放課後のメロディー』。
内容は——軽音部の二人の女子高生の、淡くて切ない物語だった。
都内の私立女子校に通う主人公・美月は、軽音部でベースを担当する高校二年生。ある日の放課後、一年生の新入部員・花音がギターケースを抱えて部室のドアを開けた。人見知りな花音は、なぜか美月にだけは心を開いてくれて——
設定は王道かもしれない。でも、描写が驚くほど丁寧だった。
薄暗い部室の空気感。二人だけで音合わせをする放課後の静けさ。学園祭に向けて練習を重ねる日々——どのシーンも、まるで映像が浮かんでくるような鮮やかさだ。
『「美月先輩、このフレーズ、どうですか?」
花音が恥ずかしそうにギターを弾いた。
その音色は、まるで美月の心を撫でるように優しい。
「すごく……いいね。花音のギター、本当に綺麗だよ」
美月は思わず微笑む。
花音の頬が、ほんの少しだけ赤く染まった。』
そして何より——二人の関係の変化が、驚くほど繊細に描かれている。
最初は先輩後輩として、遠慮がちに距離を保っていた二人。
一緒に練習を重ねるうちに、音楽を通じて少しずつ心が近づいていく。
美月は花音の才能に惹かれ、花音は美月の優しさに心を開く。
やがて、それは友情以上の何かに変わっていって——
『「先輩……私、先輩と一緒に音楽やってると、すごく幸せなんです」
花音が蚊の鳴くような声で言った。
「私も。花音がいてくれるから、軽音部が楽しいんだよ」
美月は花音の手をそっと取る。
二人の指が、ゆっくりと絡み合った。
それは、音楽を奏でる時とは違う——もっと特別な繋がりだった。』
言葉選びが丁寧で、会話のテンポが自然で、心の動きがしっかり描写されている。
俺はページをスクロールしながら、驚きを隠せなかった。
霖が——こんな繊細な物語を書けるなんて。
ベースの描写も、音楽の描写も、驚くほどリアルだ。まるで実際に軽音部で活動しているかのような——
そうか。霖、ベース弾くんだった。
だから、こんなに細かく書けるんだ。
俺は読み進めた。
学園祭のライブシーン。二人で初めてステージに立つ場面。
『ステージの照明が、二人を照らす。
観客の視線が、一斉に集まる。
美月の心臓が、激しく鳴る。
でも——隣に花音がいる。
それだけで、不思議と落ち着いた。
「行こう、花音」
「はい、先輩」
二人の音が、重なり合った。
ベースとギターが、一つのメロディーを紡ぐ。
それは——二人の心が、一つになった証だった。』
ああ、やばい。
これ、普通に泣けるぞ。
俺は気づけば、最後まで読み切っていた。
「どう……?」
その声で、俺ははっと我に返った。
いつの間にか、霖が俺の隣に座っていた。
俺が読み終わるのを待っていたらしい。
彼女は俺に体を寄せるように近づいてきて、緊張した顔でじっと俺を見つめている。




