第4話 深夜の襲撃
俺の手が震えた。
床に散らばっている薄い本——全部、百合系の同人誌だ。表紙には美少女たちが頬を赤らめながら見つめ合っている。中にはかなり過激なものもある。
これ、全部霖の?
顔を上げると、霖が真っ赤な顔で俺を睨んでいた。
その目には——恥ずかしさと、怒りと、そして——
絶対に許さないという殺意が宿っていた。
ああ、やばい。
俺は、見てはいけないものを見てしまった——
でも——よく考えたら、別におかしくない。女の子が百合作品を好きなのは、そんなに珍しいことじゃない。最近は普通の女子高生でも百合漫画を読む時代だ。俺だって音楽アニメとか見るし、趣味なんて人それぞれだ。
問題は——霖がこれを知られたくないと思っていること。
家族に趣味を知られるのは恥ずかしい。俺だって、親父に音楽配信のことを最初言えなかったし。
だから——
「あっ! 痛い痛い痛い——!」
俺は鼻を押さえて悲鳴を上げた。
「鼻が! 鼻血が——!」
顔面から着地した時の衝撃を利用して、俺は力いっぱい目をつぶって、視界が不明瞭なふりをした。
霖が呆然としている。その隙に、俺はよろめきながら立ち上がった。
「ごめん! 先に洗面所行ってくる! 自分で片付けて!」
俺は振り返らずに部屋を飛び出した。
廊下を走りながら、俺は心の中で自分を褒めた。
完璧な演技だ。これで霖は、俺が何も見ていないと思うだろう。
洗面所に駆け込んで、俺は鏡を見た。
鼻血なんて出ていない。当たり前だ。
でも、顔面から着地したせいで、額が少し赤くなっている。痛い。
「……ふう」
深呼吸をして、心を落ち着ける。
別に大したことじゃない。百合漫画が好きなだけだ。健全な趣味だ。
俺だって、誰にも言ってない趣味がある。人には人の世界がある。
霖の秘密——守ってやろう。
◆◆◆
俺が洗面所からのろのろと出てきた時、霖はもう同人誌を全部片付け終わっていた。
部屋に入ると、霖は背中を向けて、壁にポスターを貼っている。俺の方を見ようとしない。
「……大丈夫?」
霖が、小さな声で聞いた。
「え?」
「鼻血」
「ああ、うん。もう止まった」
「……そう」
それだけ。霖は何も聞いてこない。
どうやら、本当に俺が何も見ていないと信じたらしい。
俺は内心でホッとしながら、残りの荷物を運び始めた。
その後、梢さんが運送屋と一緒に、昨日注文した机を運び上げた。姉ちゃんも戻ってきて、霖の部屋のレイアウトを決める手伝いをした。
昼食を食べて、また部屋を片付けて、夕食を食べて——
全てが普通で、まるで何も起きなかったかのようだ。
夕方、梢さんは名残惜しそうに帰っていった。霖と離れるのが寂しいらしく、玄関で何度も抱きしめていた。
「霖、何かあったらすぐ電話してね」
「うん」
「ちゃんとご飯食べるのよ」
「うん」
「蒼真くんの言うことを聞くのよ」
「……」
霖は無言だった。梢さんはそれを気にせず、今度は俺の方を向いた。
「蒼真くん、霖のこと、よろしくね」
「はい、任せてください」
「何かあったら連絡してね」
「分かりました」
梢さんは満足そうに頷いて、最後にもう一度霖を抱きしめてから、帰っていった。
姉ちゃんも、夜には自分の部屋に引っ込んだ。
「じゃあね、蒼真。霖ちゃんと仲良くするのよ」
「……努力する」
「努力じゃなくて、しなさい」
姉ちゃんはそう言って、部屋のドアを閉めた。
リビングには、俺と霖だけが残された。
「……」
「……」
気まずい沈黙。
霖はソファに座って、スマホをいじっている。俺の方を見ようともしない。
「霖、何か飲む?」
「……いらない」
「そう」
会話終了。
俺は溜息をついて、自分の部屋に戻った。
◆◆◆
一日疲れたが、俺にはやらなければならないことがあった。
俺は机に向かい、ノートパソコンを開いた。
Ableton Liveを起動する。画面には、昨日作りかけていた曲のプロジェクトファイルが表示された。
PhantomBeatの蒼炎から依頼された曲——まだ返事をしていないが、もし引き受けるなら、ちゃんとしたデモを用意しておきたい。
「サビのメロディ、まだ弱いんだよな……」
俺はヘッドホンを装着して、作曲作業を再開した。
ベースラインを調整して、ドラムパターンを微調整して、ギターのリフを少し変えて——
コード進行を何度も弾き直す。Aメロからサビへの展開が、まだしっくりこない。
「ここで転調するか……いや、唐突すぎるか……」
試行錯誤を繰り返す。
気づけば、時計は夜中の二時を回っていた。
「……よし」
俺は満足してファイルを保存した。まだ完璧じゃないが、蒼炎に聴かせるには十分なレベルになった。
ヘッドホンを外して、俺は大きく伸びをした。
喉が渇いた。何か飲もう。
俺は部屋を出て、キッチンに向かった。
◆◆◆
深夜のリビングは、静まり返っていた。
姉ちゃんの部屋からは何も聞こえない。とっくに寝ているだろう。
霖の部屋も、ドアの下から光が漏れていない。彼女も寝たらしい。
俺は冷蔵庫を開けて、牛乳パックを取り出した。コップに注いで、一気に飲み干す。
「……ふう」
冷たい牛乳が喉を潤す。生き返った気分だ。
もう一杯飲もうかな——そう思って、俺は再び冷蔵庫に手を伸ばした。
その時——
背後で、かすかな足音がした。
「え——」
振り返ろうとした瞬間——
「——!」
何かが俺の背中にぶつかった。細い腕が俺の首に巻きつく。
「うわっ——!」
バランスを崩して、俺は前に倒れ込んだ。手に持っていたコップが宙を舞い、床に落ちて牛乳をぶちまけた。
「いっ——!」
床に倒れた俺の上に、誰かが乗っかってくる。
背中に、柔らかい感触。そして、シャンプーの甘い香り。
「な、何——!」
俺は必死に振り返ろうとした。でも、細い腕が俺の首をがっちりと押さえつけている。
「動かないで」
低い、冷たい声。
この声は——
「霖!?」
「……」
返事はない。でも、間違いない。この香りは霖のものだ。
「な、何してるんだ!? 離せ!」
「……見たでしょ」
霖の声が、耳元で響いた。
「何を——」
「とぼけないで」
腕に力が込められる。首が締まって、息が苦しい。
「箱の中……見たでしょ」
俺の背筋が凍った。
まさか——バレてた!?
「俺は何も——」
「嘘」
霖が俺の体をひっくり返した。仰向けになった俺の上に、霖が馬乗りになる。
月明かりに照らされた霖の顔が、俺を見下ろしている。
白いパジャマ姿。長い黒髪が肩から流れ落ちて、俺の顔にかかる。
そして——その目には、昼間と同じ殺意が宿っていた。
「あなた……絶対見てた」
「見てない! 俺は鼻血が出て——」
「鼻血なんて出てなかった」
「出てたって!」
「嘘つき」
霖の細い指が、俺の首に触れた。
「私……嘘つきは嫌い」
「ちょ、待て霖——」
「何を見た?」
「だから、何も——」
指に力が込められる。
俺は冷や汗が止まらなかった。
まさか——こいつ、本当に俺を殺す気か!?
口封じに来たのか!?
いや、いくらなんでも同人誌見られたくらいで人を殺すやつがいるか!?
——いる。目の前にいる。この目は本気だ。
俺は人生で初めて、死を覚悟した。
---




