第3話 宣告
テーブルの上には美味しそうな料理が並んでいる。唐揚げ、肉じゃが、茄子の味噌炒め、鯖の塩焼き——どれも梢さんの得意料理だが、俺は全く食欲が湧かない。さっき霖にぶつけられた肩がまだじんじんと痛むせいで、誰が食事を楽しめるというんだ。
梢さんが親父にビールを注ぎ、俺と姉ちゃんにはウーロン茶を注いでくれた。霖は自分でオレンジジュースを取って、俺から最も離れた席に座っている。
「霖も本当に、まだお兄ちゃんとふざけ合うのが好きなのね」
お前らの目には、あれが兄妹の戯れに見えるのか!? 親父もニコニコと頷いているのを見て、俺は暴走したくなる衝動に駆られた。
狡猾な妹は、タイミングよく唐揚げを一つ取って俺の茶碗に入れた。梢さんはさらに満足そうだ。
「あら、霖ったら。お兄ちゃん想いなのね」
想いなわけないだろ! この子はお前らの前でだけ可愛い妹を演じてるだけだ! だから俺は家に帰りたくないんだよ。この理不尽な損を食らうのが、あまりにも悔しい。心の中の不満を抑えて、表情に出さないように、俺は唐揚げを口に放り込んで、もごもご言った。
「……で、今日の話って何?」
親父がビールを一口飲んで、咳払いをした。その顔が、妙に真剣だ。
「千夏」
姉ちゃんが顔を上げた。
「何? お父さん」
「霖の学校が移転したこと、知ってるか?」
「え? 移転?」
姉ちゃんが首を傾げた。俺も初耳だ。いや、移転したこと自体は知っているが、詳しい話は聞いていない。
「新校舎は去年完成したんだ。広くて綺麗で、設備も一流だ」
「へえ、良いことじゃん」
姉ちゃんが肉じゃがを口に運びながら言った。
「良いのは良いんだが、少し不便なところがあってな……」
親父が難しい顔で言いよどんだ。
「どこが不便なの?」
「家から遠すぎるのよ」
梢さんがため息をついた。
「前は学校まで二駅だったのに、新校舎は渋谷区にあるの。ここから通うと、片道二時間近くかかるわ」
「渋谷区?」
姉ちゃんの箸が止まった。
「それって……私のマンションの近く?」
「ああ。千夏のマンションからなら、歩いて二十分だ」
親父がビールをテーブルに置いた。その音が、まるで裁判官が槌を打つように響いた。
「毎日四時間の通学は、さすがに霖の体に負担が大きすぎる」
俺と姉ちゃんは、同時に嫌な予感がした。顔を見合わせる。
「それで……お父さんの頼みって……」
姉ちゃんが恐る恐る聞いた。
「霖を、お前のマンションに住まわせてやってくれないか」
「——はあ!?」
姉ちゃんが素っ頓狂な声を上げた。俺は口に含んでいたウーロン茶を——
「ぶっ——」
向かいの親父の顔に、華やかに吹き出した。
「……蒼真」
「す、すみません……」
親父が顔を拭きながら、冷たい目で俺を見た。だが、すぐに姉ちゃんの方に視線を戻した。
「ちょ、ちょっと待ってお父さん!」
姉ちゃんが慌てて両手を振った。
「いきなりそんなこと言われても——私、全然聞いてないんだけど!」
「だから今、話している」
親父は平然と言った。
「話してるんじゃなくて、もう決めてるでしょ! その口調!」
「千夏、落ち着いて」
梢さんが姉ちゃんを宥めようとした。
「お願い、千夏ちゃん。霖のこと、引き受けてくれない? このままじゃ、あの子毎日四時間も電車に乗ることになるの……」
梢さんが可哀想そうに姉ちゃんを見つめる。まるで泣き出しそうな表情だ。
「それは分かりますけど……」
姉ちゃんが困った顔で言った。
「でも、急に言われても——」
「お姉ちゃん」
その時、霖が小さな声で言った。
姉ちゃんが霖を見た。
霖は椅子から立ち上がって、姉ちゃんの前まで歩いてきた。そして——
深々と頭を下げた。
「……お願い、します」
「霖ちゃん……」
「迷惑かけないから……お願い……」
霖の声が、少し震えている。上目遣いで姉ちゃんを見つめる瞳が、潤んでいるように見えた。
その瞬間——姉ちゃんの表情が、ガラリと変わった。
「——か、可愛いいいいい!!」
姉ちゃんが叫んで、霖を抱きしめた。
「もう! 霖ちゃんったら! そんな顔されたら断れないじゃん!」
「お、お姉ちゃん、苦しい……」
「いいよいいよ! うちに来なさい! 大歓迎だから!」
「ちょ、姉ちゃん!?」
俺が慌てて声を上げた。
「何勝手に決めてんだよ! 俺の意見は!?」
「あんたの意見?」
姉ちゃんが霖を抱きしめたまま、俺を見た。その目が、急に冷たくなった。
「あんたに意見なんてないでしょ。居候のくせに」
「居候って——」
「私のマンションに、私が霖ちゃんを住まわせる。何か問題ある?」
「いや、問題っていうか——」
「ないよね?」
姉ちゃんの目が「逆らうな」と言っている。俺は口をつぐんだ。
「よし、決まり!」
姉ちゃんが満面の笑みで宣言した。霖を抱きしめながら、頬ずりしている。完全に溺愛モードだ。
「霖ちゃん、楽しみだねー! 一緒に暮らすの、私もずっと憧れてたんだー!」
「お、お姉ちゃん……苦しい……」
「ご飯も一緒に作ろうね! お買い物も行こうね! あ、一緒にお風呂も——」
「千夏、落ち着け」
親父が呆れた声で言った。
俺は呆然と立ち尽くしていた。
なんだこれ。さっきまで反対してたのに、霖が「お願い」と言った瞬間に手のひら返しかよ。
俺が同じことしても、絶対こうはならないだろ。
……いや、そもそも俺は霖みたいに可愛くないからな。比べるだけ無駄か。
「蒼真」
親父の声で、我に返った。
「え?」
「霖のこと、よろしく頼むぞ」
「……俺に言われても」
「お前が兄だろう」
「同い年だけど」
「四ヶ月早く生まれている。兄だ」
親父の論理は、いつも強引だ。
俺は妹を見た。姉ちゃんに抱きしめられながら、霖がちらりと俺を見た。
その目には——明らかに勝ち誇った色が浮かんでいた。
さっきの「お願い」は、やっぱり演技だったのか——!
「良い子ね、蒼真くんは妹想いだって知ってたわ」
梢さんの感謝のハグが襲いかかってきて、これでどうやって断れというんだ? 無力な俺は、悲哀を感じながら、彼女の抱擁を黙って受け入れるしかなかった。
「じゃあ決まりね!」
姉ちゃんがまだ霖を抱きしめながら、嬉しそうに言った。
「来週の土曜日に引っ越しね! 蒼真、荷物運びよろしく!」
「……はい」
俺の反論は、誰にも届かなかった。
俺の自由の王国は、陥落を宣言した——
◆◆◆
昼食を食べ終わってまだ一時前だというのに、梢さんは霖を連れて出かけてしまった。新しい机を買いに行くらしい。部屋とベッドは姉ちゃんのマンションに既にあるが、机は余分にない。
姉ちゃんも一緒に行った。「霖ちゃんの部屋のインテリア、一緒に選ぶ!」とはしゃいでいた。さっきまで反対してたくせに、現金なやつだ。
一人残された俺は、頭がまだ重くて、昼寝でもしようと思って自分の元・部屋のベッドに横になった。
すぐにスマホが鳴った。画面を見ると——桐生龍司だ。
「よっ、蒼真! 今何してる?」
龍司の軽快な声が聞こえる。
「いや、親父の家にいる」
「え、マジで? お前が自分から実家帰るなんて珍しいな」
「親父に呼ばれたんだよ」
俺は溜息をついた。妹が俺の家に引っ越してくることが、異常に気が重い。
「何かあったのか? 声、死んでるぞ」
「……色々あった。後で話す」
「そっか。まあ、落ち着いたら連絡しろよ。——あ、そうだ、本題本題」
龍司の声が少し興奮気味になった。
「来週の土曜日、空けとけよ?」
「来週の土曜……何かあるのか?」
「バスケだよ、バスケ! KENが人数集めてんだ」
「KEN?」
「ほら、隣のクラスの。背が高くてバスケ部のエースのやつ」
ああ、あいつか。確かに身長百八十五センチで、バスケ部では有名な存在だ。俺とは接点がほとんどないが、龍司は最近よく一緒にいるらしい。
「で、俺に何の関係が?」
「三対三やりたいんだってさ。人数足りなくて、お前も来いって」
「俺、バスケそんな上手くないぞ」
「いいっていいって。楽しけりゃそれでいいんだよ。KENも『誰でも歓迎』って言ってたし」
「……」
「来いよ! 運動不足解消にもなるし!」
龍司の声が熱を帯びている。こいつがここまで誘ってくるのは珍しい。
「……分かった。考えとく」
「考えとくじゃなくて、来るって言えよ!」
「だから、来週の土曜は——」
その瞬間、俺は気づいた。
来週の土曜——引っ越しの日だ。
「……悪い、龍司。その日、ちょっと用事が入りそうなんだ」
「マジかよ! 何の用事だよ」
「妹が引っ越してくる」
「妹? お前、妹いたっけ?」
「義理の妹。親が再婚して——まあ、色々あって、うちに住むことになったんだよ」
「へえ……」
龍司の声が、少し真剣になった。
「大変だな。分かった、また今度な」
「悪いな」
「いいって。でも、その妹が落ち着いたら、絶対バスケ来いよ! KENに紹介するから!」
「ああ、分かった」
電話を切って、俺は天井を見つめた。
霖が俺の家に住む——
姉ちゃんのマンションから、移転後の学校まで、歩いて二十分の距離だ。確かに便利になる。霖は寮生活をしたことがないから、学校の寮に住みたくない気持ちは理解できる。
でも——本当に、俺と同じ屋根の下で暮らすことに同意したのか?
霖が強く反対すれば、親は彼女の意見を尊重するはずだ。あの子は、人の心を掴むのが上手いから。さっきだって、姉ちゃんを一瞬で陥落させた。
なのに、なぜ最初から反対しなかったんだ?
むしろ、自分から「お願い」と頭を下げた。
……演技だったとしても、なぜそこまでするんだ?
この疑問は、霖が俺の領土の半分を占領した後も、解けることはなかった……
◆◆◆
翌週、土曜日の午前。
梢さんが車を運転して、妹の荷物を大量に積んで、俺の領地に侵入してきた。俺の自由の国は、正式に陥落した——
霖の荷物は少なくない。布団、枕、ぬいぐるみのクマを除いても、スーツケース二つ、段ボール箱四つ、バックパック二つ、そして五、六個の袋。
四月下旬の東京は乾燥していて、少し蒸し暑い。階段を五回往復して、最後の段ボール箱を五階まで運び上げた時、俺のシャツは完全に汗で濡れていた。
「蒼真、ご苦労様ー」
姉ちゃんがソファに座りながら、アイスコーヒーを飲んでいる。手伝う気は全くないらしい。
「……姉ちゃんも手伝えよ」
「えー、私は監督役だもん」
「監督って何もしてないじゃん」
「してるよ。見てる」
こいつ……
箱をリビングのテーブルに置いて、感覚を失いかけている両腕を振りながら、俺は好奇心を抑えられなかった。中に何が入ってるんだ? 大きくて重い。テープで封がしてなかったら、分けて運びたかった。
「蒼真くん、疲れたでしょう? お水飲んで」
やっぱり梢さんは俺を心配してくれる。冷血な姉や妹とは大違いだ。
「疲れてないです。大丈夫です」
俺は強がって笑いながら、梢さんが渡してくれた水を受け取って飲みながら、もう妹のものになった部屋のドアまで歩いた。あの子、手際が良いな。もうシーツまで敷いてある。壁には好きなアイドルのポスターを貼っている。女の子は、部屋をごちゃごちゃに飾るのが好きだな。
その時、部屋の隅に置いてあるソフトケースが目に入った。
「あれ、霖、お前ベース弾くの?」
霖が振り返って、俺が指差しているケースを見た。一瞬、その目に何か——驚きのような、警戒のような——表情が浮かんだが、すぐに無表情に戻った。
「……別に」
「いや、別にって、ベースケースあるじゃん。軽音部か何か?」
霖は答えずに、再び壁にポスターを貼り始めた。
「あの白い段ボール箱、どこに置けばいい?」
話題を変えやがった。まあ、いつものことだ。
霖が裸足でシングルベッドから飛び降りて、床一面に散らかった荷物を見て、ベッドの横を指差して俺に言った。
「ここ」
一言多く言うのも疲れるみたいだ。俺は溜息をついた。
「片付けてから運び込んだ方がいいんじゃない? 中に何が入ってるか見せてくれる? めちゃくちゃ重いから、分けて運べないかな……」
「ダメ!」
「え?」
驚いた。何でそんなに慌てるんだ? 俺が疑問の目で彼女を見ると、霖のピンク色の可愛い顔に、意外にも赤みが差した。
「その……先に運び込んでから、私が片付ける……」
この子、急に恥ずかしがり屋になったな。声まで小さくなってる。
「分かった」
俺が部屋を出ようとした時、霖が小さな声で言った。
「……ベース、気をつけて」
え? 今、俺に話しかけた?
「ベース?」
「そのケース。落とさないで」
霖が、珍しく俺の目を見て言った。その目には——いつもの冷たさではなく、何か真剣なものが宿っていた。
「ああ、分かった。当然だろ」
俺は思わず笑った。
「ベースは音楽家の魂だからな。大切に扱うよ」
霖の目が、一瞬だけ見開かれた。
まるで、俺が何か意外なことを言ったかのような表情。
でも、すぐにまた無表情に戻って、そっぽを向いた。
「……別に」
ああ、やっぱりいつもの霖だ。
俺は苦笑しながら部屋を出た。
部屋を出ると、ちょうど梢さんが電話を切って、慌てて玄関に向かって走っていくところだった。
「蒼真くん、霖を手伝ってあげて。運送屋さんが下で待ってるから、迎えに行ってくるわ!」
「はい」
「私も行くー」
姉ちゃんもソファから立ち上がって、梢さんの後を追った。
「新しい机、見たいし!」
こいつ、荷物運びは手伝わないのに、そういう時だけ動くのか……
俺は溜息をついて、あの異常に重い段ボール箱を持ち上げた。
一休みしたら、箱がさらに重くなった気がする。俺は足をよろめかせながら部屋に入って、まだ数歩も歩いていないのに——
「危ない!」
妹が驚いて叫んだ。
「うわっ——」
足元に転がっていたぬいぐるみに引っかかって、俺は前に倒れ込んだ。妹の箱も当然のように宙に放り投げられた。
「ガシャン——」
箱が底から裂けて、中の物がバラバラと床に散らばった。顔面から着地した俺は痛くて目も開けられなかったが、起き上がって見ると——俺の目玉が飛び出しそうになった!
俺の手元には、薄い本が一冊置いてあった。もちろん、ただの普通の本なら驚くことはない。俺を驚かせたのは、その表紙だ!
二人の美少女が、頬を赤らめながら見つめ合っている。制服姿で、手を握り合って、唇と唇の距離がわずか数センチ——
そして、床に散らばっているのは、全部——
百合系の同人誌だった。
「————!!」




