第2話 帰郷
姉ちゃんは結局、午前十時過ぎまで寝ていた。
俺が洗濯物を干し終えて、リビングの惨状を片付けている最中に、ようやく部屋から出てきた。寝癖だらけの髪、目は半開き、くたびれたパジャマ姿。昨日の誕生日パーティーで騒ぎすぎたツケだろう。
「おはよー……」
「もう十時だぞ」
「休みだからいいのー……」
姉ちゃんはふらふらとキッチンに向かい、冷蔵庫から牛乳パックを取り出した。コップに注ぐのが面倒なのか、そのまま口をつけて飲み始める。
「……行儀悪いな」
「誰も見てないし」
「俺が見てる」
「弟はノーカン」
いつものやり取りだ。俺は溜息をつきながら、ゴミ袋を縛った。空のワインボトル三本、ピザの箱、紙皿、紙コップ——姉ちゃんの友人たちは、なかなかの量を消費したらしい。
「そういえば蒼真、今日お父さんのとこ行くんでしょ?」
「ああ。昼過ぎに」
姉ちゃんは牛乳パックをテーブルに置いて、少し考える素振りを見せた。
「私も行こうかな」
「……は?」
「だって、久しぶりに霖ちゃんに会いたいし。梢さんの手料理も食べたいし」
俺は少し驚いた。姉ちゃんが実家に行くのは珍しい。いつも仕事が忙しいとか、予定があるとか言って避けているくせに。
「姉ちゃん、今日は予定あるんじゃなかったのか?」
「キャンセルした」
「……マジで?」
「マジマジ。たまには家族サービスも必要でしょ」
姉ちゃんは何でもないように言うが、その目が少し泳いでいる。何か隠している気がする。でも、深く追求する気にもならなかった。姉ちゃんが一緒なら、少しは気が楽だ。
「ま、いいけど。十一時半には出るぞ」
「りょーかい」
姉ちゃんはひらひらと手を振って、自分の部屋に戻っていった。
◆◆◆
姉ちゃんを待つ間、俺はマンションの一階まで降りて、郵便受けを確認した。
鍵を開けると、中には数通の封筒が入っていた。ほとんどはチラシや請求書だが——その中に、二通の封筒が目についた。
一通は俺宛て。差出人は「全国高校生シンガーソングライターコンテスト事務局」。
心臓が少し跳ねた。三ヶ月前に応募したコンテストだ。オリジナル曲を三曲送って、一次審査の結果を待っていた。
もう一通は姉ちゃん宛て。差出人は——「**ノヴァ・エンターテインメント株式会社**」。
ノヴァ・エンターテインメント。最近よく耳にする名前だ。アジア圏で急成長している総合エンタメ企業で、音楽、映像、タレントマネジメントと手広くやっている。去年から日本市場にも本格参入して、いくつかの芸能事務所を買収したとニュースで見た。
なんで姉ちゃんに、こんな会社から手紙が届いているんだ?
俺は首を傾げながら、二通の封筒を持って部屋に戻った。
◆◆◆
リビングのソファに座り、まず自分宛ての封筒を手に取った。
薄い。紙一枚の感触。嫌な予感がする。合格通知なら、書類がたくさん入っているはずだ。こういう薄い封筒は、大抵——
封を切って、中の紙を取り出した。
『応募者各位
この度は全国高校生シンガーソングライターコンテストにご応募いただき、誠にありがとうございました。
厳正なる審査の結果、誠に残念ながら、今回は貴殿のご期待に沿えない結果となりました。
今後のご活躍を心よりお祈り申し上げます。』
——やっぱり、落選か。
分かっていた。応募総数三千件以上、一次審査を通過するのは五十組。倍率六十倍。俺みたいな無名の配信者が通るはずがない。「夜明けのカラス」を含む三曲、自分なりに最高の出来だと思って送ったけど——現実は甘くない。
分かっていた。分かっていたけど——やっぱり、少しだけ期待していた自分がいた。
俺は手紙を丸めて、ゴミ箱に放り込んだ。
「……まあ、そんなもんだよな」
首元のペンダントを無意識に握りしめる。母さんの形見。炎を模したシルバーのペンダントトップが、手のひらに冷たく触れた。
気を取り直して、姉ちゃん宛ての封筒を見た。開けるわけにはいかないが——封筒の表面に、小さな文字が印刷されている。
『鷹取千夏様 **タレント契約に関するご案内**』
タレント契約?
俺は目を疑った。姉ちゃんは親父の会社で「社長秘書兼タレント」という肩書きで働いているが、実際のタレント活動なんて見たことがない。社内イベントの司会とか、その程度だと思っていた。
それが——ノヴァ・エンターテインメントから、タレント契約の案内?
もしかして姉ちゃん、独立して本格的に芸能界に入るつもりなのか?
「蒼真ー、お待たせー」
姉ちゃんの声で思考が中断された。顔を上げると、姉ちゃんはすっかり身支度を整えていた。白いブラウスにベージュのワイドパンツ。髪もきれいにセットして、薄く化粧もしている。さっきまでのだらしない姿が嘘のようだ。
「姉ちゃん、郵便届いてたぞ」
俺は封筒を差し出した。姉ちゃんはそれを受け取り、差出人を見て——一瞬だけ、表情が固まった。
「……ああ、これね」
「ノヴァ・エンターテインメントって、最近勢いある会社だろ。タレント契約って——」
「見たの?」
「封筒の表面だけだよ。開けてない」
姉ちゃんは封筒をバッグにしまいながら、いつもの軽い調子を取り戻した。
「まあ、ちょっとね。色々あるの」
「色々って——」
「大人の事情。子供は気にしなくていいの」
「俺、十六だぞ」
「子供じゃん」
それ以上は何も言わず、姉ちゃんは玄関に向かった。
「さ、行くわよ。電車乗り遅れるでしょ」
俺は釈然としないまま、姉ちゃんの後に続いた。
◆◆◆
電車に揺られること、約一時間半。
渋谷から新宿へ、新宿から中央線で八王子へ。窓の外の景色が、都会のビル群から郊外の住宅街へと移り変わっていく。
姉ちゃんは隣の席でずっとスマホをいじっていた。時々、真剣な顔でメッセージを打っている。ノヴァ・エンターテインメントの件だろうか。聞きたいことは山ほどあったが、姉ちゃんが話す気がないなら無理に聞き出すつもりもない。
それより——俺の頭は、別のことでいっぱいだった。
霖。
義理の妹。十六歳。俺と同い年。
両親が再婚したのは、俺たちが十歳の時だった。霖は母親——梢さん——の連れ子で、再婚を機に水瀬霖から鷹取霖になった。
同い年の義妹。最初は少し気まずかったが、仲良くなれるかもしれないと思っていた。同じ学年だし、共通の話題もあるだろうと。
でも——現実は、そう甘くなかった。
梢さんが俺を「実の息子のように」可愛がり始めてから、霖の態度は一変した。
最初は避けられるだけだった。同じ部屋にいると、すぐに出て行く。話しかけても、最低限の返事しかしない。目を合わせようとしない。
それが、いつからか——明確な敵意に変わった。
『ママを、取らないで』
六年前、霖が小さな声で呟いた言葉を、今でも覚えている。泣いてはいなかった。ただ、真っ直ぐに俺を睨んでいた。あの冷たい目を、俺は一生忘れられないだろう。
それから六年。俺と霖の関係は、一度も改善していない。むしろ、年を重ねるごとに悪化している。
高校は別々だ。俺は渋谷の私立。霖は八王子の公立。物理的な距離ができて、少しは楽になった——はずなのに。
月に一度、実家に帰るたびに、あの冷たい視線を浴びる。何を話しかけても無視される。同じ空間にいるだけで、空気が凍りつく。
正直——もう、疲れた。
「蒼真」
姉ちゃんの声で、我に返った。
「ん?」
「八王子、着くよ」
窓の外を見ると、見慣れた駅のホームが近づいていた。
◆◆◆
駅からバスに乗り換えて十五分。閑静な住宅街の一角に、親父の家はあった。
白い外壁の二階建て。小さな庭には、梢さんが育てている花が咲いている。六年間暮らした家。でも今では、「実家」というより「親父の家」という感覚の方が強い。
「着いたね」
姉ちゃんが呟いた。
「……ああ」
俺はインターホンに手を伸ばして——止まった。
「どうしたの?」
「いや……」
何でもない、と言おうとして、やめた。姉ちゃんには隠しても意味がない。
「また、霖に睨まれるのかと思うと、ちょっとな」
姉ちゃんは少し困ったような顔をした。
「霖ちゃんも、悪気があるわけじゃないと思うよ」
「分かってる。分かってるけど——」
言葉が続かなかった。分かっている。霖の気持ちも、理解できる。自分の母親を取られたと感じているのだろう。俺だって、逆の立場なら同じように感じるかもしれない。
でも——俺だって、好きで梢さんに可愛がられているわけじゃない。梢さんが優しくしてくれるのを、拒絶することもできない。
誰も悪くない。でも、どうしようもない。
「……行くか」
俺は覚悟を決めて、インターホンを押した。
ピンポーン——
数秒の沈黙。そして、軽い足音が近づいてくる。
ガチャ。
ドアが開いた。
そこに立っていたのは——
「あら、蒼真くん。いらっしゃい」
梢さんだった。エプロン姿で、手には菜箸を持っている。料理の途中だったらしい。
「お邪魔します」
「千夏ちゃんも一緒なの? 聞いてないわよ、もう」
「すみません、急に決めたので」
姉ちゃんが軽く頭を下げる。梢さんは嬉しそうに笑った。
「いいのよ、いいの。賑やかな方がいいわ。さ、上がって上がって」
俺たちは玄関で靴を脱ぎ、リビングへと向かった。
◆◆◆
リビングには、親父がソファに座って新聞を読んでいた。俺たちの姿を見て、新聞を畳む。
「来たか」
「ただいま、親父」
「千夏も一緒か。珍しいな」
「たまにはね」
姉ちゃんはソファに腰を下ろし、リビングを見回した。
「霖ちゃんは?」
その名前を聞いて、俺の肩が少しこわばった。
「部屋にいるわ」
梢さんがキッチンから答える。
「霖ー! 蒼真くんと千夏ちゃんが来たわよー! 降りてらっしゃーい!」
しばらく沈黙が続いた。
返事がない。
「もう、あの子ったら……」
梢さんが困ったように溜息をつく。
「私が呼んでくるわ」
姉ちゃんが立ち上がった。
「え、いいよ、姉ちゃん——」
「大丈夫大丈夫。霖ちゃんとは私、仲良いから」
姉ちゃんはひらひらと手を振って、階段を上がっていった。
俺は所在なくソファに座り、親父と二人きりになった。
「……霖のこと、すまんな」
親父がぽつりと言った。
「いや……俺は別に」
「あいつも、悪い子じゃないんだが」
「分かってるよ」
分かっている。霖は悪い子じゃない。ただ——俺のことが、嫌いなだけだ。
階段の上から、声が聞こえてきた。
「霖ちゃーん、久しぶりー!」
姉ちゃんの明るい声。そして——
「……千夏姉」
低く、ぼそぼそとした声。霖だ。
「元気だった? また可愛くなったんじゃない?」
「……別に」
「相変わらず素直じゃないなあ。ほら、降りよ? 梢さんがご飯作ってくれてるよ」
「……」
「蒼真も来てるよ」
沈黙。
長い、長い沈黙。
「……行かない」
「えー、なんでー?」
「……なんでもいい」
「霖ちゃん、お兄ちゃんに会いたくないの?」
「あいつは兄じゃない」
その言葉が、リビングまではっきりと聞こえた。
俺は、表情を変えないように努めた。親父が気まずそうに咳払いをする。
「……ほら、降りてきなさい。霖」
親父が階段の方に向かって声をかけた。
しばらくして、足音が聞こえた。階段を降りてくる音。そして——
リビングの入り口に、霖が現れた。
黒い髪を肩まで伸ばして、前髪で目元が少し隠れている。白いカットソーに、グレーのスウェットパンツ。化粧っ気のない顔は、それでも十分に整っていた。
俺と目が合った——瞬間、霖の表情が凍りついた。
「……」
何も言わない。ただ、冷たい目で俺を見ている。
俺は、何か言わなければと思った。何でもいい。挨拶でも、軽口でも。沈黙を破らなければ。
「久しぶり、霖」
声が、少しかすれた。
霖は答えなかった。俺から目を逸らして、ソファの端——俺から最も離れた場所——に座った。
「霖、ちゃんと挨拶しなさい」
梢さんが少し強い口調で言った。
「……」
霖は唇を噛んで、小さく呟いた。
「……どうも」
それだけ。目も合わせない。声も、ほとんど聞こえない。
でも、一応は返事をした。それだけで、梢さんは満足したようだった。
「もう、相変わらずなんだから。蒼真くんはお兄ちゃんでしょ?」
「同い年」
霖がぼそりと言った。
「それでもお兄ちゃんはお兄ちゃんでしょ。ほら、千夏ちゃんも来てくれてるんだから、仲良くしなさい」
霖は答えなかった。ただ、スマホを取り出して、画面を見つめ始めた。完全に、俺たちをシャットアウトしている。
姉ちゃんが俺の隣に座って、小声で囁いた。
「相変わらずだね」
「……ああ」
相変わらずだ。何も変わっていない。六年前から、ずっと。
梢さんが気を取り直したように、明るい声を出した。
「さ、もうすぐお昼ご飯できるから。今日は蒼真くんの好きな唐揚げよ」
「ありがとうございます」
「千夏ちゃんは相変わらずコロッケ?」
「はい、梢さんのコロッケ、世界一です」
姉ちゃんが大げさに言うと、梢さんは嬉しそうに笑った。
「もう、お世辞が上手なんだから」
和やかな空気。でも——霖だけは、その輪に入ろうとしなかった。ソファの端で、ずっとスマホを見ている。
俺は、見ないふりをした。
見ないふりをするしか、なかった。




