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氷の狐——こはく視点


「じゃあ、そういうことで」


こはくは肩をすくめた。


「とりあえず、明日の打ち上げの結果を待ちましょう」


「でも……」


翔太は本当に焦っていた。


「でも、私は星宮じゃないからね。私が星宮だったら、とっくにあいつを落としてるけど」


こはくは綺麗な眉をひそめた。


「あんたが残っても、どうにもならないよ、翔太」


「星宮って誰だよ」


翔太は困惑していた。


「翔太、そんなに焦ってるけど、もし私が『月燈籠の全タレントを潰せる女がいる』って言ったら、マネージャーに報告して抹殺しようとする?」


こはくが舌を出した。


「俺はしないけど、社長がするかもな……!」


翔太は目を見開いた。


◆◆◆


翌日——


渋谷のビルの五階。


月燈籠のオフィス。


大手VTuber事務所のような豪華な内装ではない。雑居ビルのワンフロアを借りた、こぢんまりとしたスペース。デスクが五つ、会議用のソファセット、壁には所属VTuberのポスターが数枚。中堅どころの事務所だ。


業界トップのホロライブやにじさんじには到底及ばない。所属タレントは十人程度。その中で、こはくは一番の稼ぎ頭だった。登録者十二万人。大手の百万人超えには遠く及ばないが、この規模の事務所では破格の数字だ。


窓際のソファに座っているのは、二人の女だった。


一人は、こはく。白髪のショートカット、黒いタートルネック、狐のピアス。いつもの鋭い目つきで、缶コーヒーを飲んでいる。


もう一人は——


栗色のゆるふわロングヘア、ナチュラルメイク、白いブラウスにベージュのカーディガン。見た目は柔らかい雰囲気だが、目の奥には鋭い光がある。


月燈籠のCEO——如月美咲。


二十代後半。元々は配信者のマネージャーをやっていたが、三年前に独立して事務所を立ち上げた。経営は決して楽ではないが、なんとか黒字を維持している。


「それで、どうだった?」


美咲がアイスラテのストローを咥えながら、こはくに聞いた。


「鷹取蒼真くん。会ってみて、印象は?」


「……正直、パッとしなかったですね」


こはくが肩をすくめた。


「見た目は普通。コミュ力も低い。女子トイレに間違えて入るくらいボーっとしてるし」


「あはは、それは酷いね」


美咲が笑った。


「でも、曲はいいんでしょ?」


「……ええ、まあ」


こはくは少し渋い顔をした。認めたくないが、認めざるを得ない。


「『夜明けのカラス』、聴きました。正直、いい曲だと思いました。私の曲より……いい、かもしれない」


「へえ、こはくがそこまで言うなんて珍しいね」


美咲が目を細めた。


「才能は本物、ってこと?」


「……たぶん」


こはくは窓の外を見た。


「でも、納得いかないんですよ」


「何が?」


「あいつ、鷹取千紘の息子でしょ。伝説のロックボーカリストの」


こはくの声に、少し棘があった。


「遺伝子で才能が決まるなんて、不公平じゃないですか。親が天才だから、子供も天才。そんなの、努力の意味がない」


美咲は少し黙った。


それから、アイスラテを一口飲んで、言った。


「こはく、それは違うよ」


「……何がですか」


「才能は遺伝しない」


美咲がはっきりと言った。


「え?」


「音楽の才能は、遺伝子で決まるものじゃないの。伝説のロックスターの子供が、同じように音楽の才能に溢れているとは限らない。むしろ、そうじゃないケースの方が多い」


美咲が指を立てた。


「宇多田ヒカルの両親は、藤圭子と宇多田照實。二人とも音楽業界の人間だけど、ヒカルの才能は『遺伝』で説明できる? 彼女の曲作りの能力、歌詞のセンス、あの独特の世界観——それは、親から受け継いだものじゃない。彼女自身が、彼女自身の人生の中で、培ったものだよ」


「でも——」


「逆のケースも多いよ」


美咲が遮った。


「ビートルズのメンバーの子供たちは? ジョン・レノンの息子、ショーン・レノン。ポール・マッカートニーの息子、ジェームズ・マッカートニー。彼らも音楽をやってるけど、父親ほどの成功は収めていない。遺伝子だけで才能が決まるなら、彼らも世界を変えるミュージシャンになっていたはずでしょ?」


こはくは黙った。


「日本でも同じだよ。桑田佳祐の息子、長渕剛の息子、矢沢永吉の息子——彼らは皆、音楽をやってる。でも、父親と同じレベルの評価を得ている人は、ほとんどいない」


美咲がアイスラテのカップを置いた。


「才能は遺伝しないの、こはく。環境は遺伝するけどね」


「環境……?」


「そう。音楽に囲まれて育つ環境。楽器がある家。音楽を聴く習慣。業界へのコネ。そういうものは、親から子へ受け継がれる。でも、それは『才能』じゃない。『機会』だよ」


美咲がこはくを見た。


「鷹取蒼真くんが鷹取千紘の息子であることは、彼に『機会』を与えたかもしれない。でも、彼の曲がいいのは、彼自身の才能だよ。親のおかげじゃない」


こはくは何も言わなかった。


窓の外を見つめている。


「それに——」


美咲が続けた。


「私、蒼真くんのこと、千夏から聞いてるんだよね」


こはくが振り返った。


「千夏? ……って、鷹取千夏? 蒼真の姉の?」


「うん。千夏とは大学の同期で、今でも仲いいの。よく飲みに行くんだよね」


美咲が懐かしそうに笑った。


「千夏がさ、いつも弟の話するんだよ。『蒼真は才能あるのに、自信がなくて困る』『親父のことがトラウマになってて、音楽業界に出たがらない』『でも、あの子の曲は本物だから、誰かに見つけてほしい』って」


「……」


「だから、私が声をかけたの。千夏の紹介じゃなくて、こはくを通じて。その方が、蒼真くんも素直に受け取れるかなって」


こはくは目を細めた。


「つまり、最初から仕組まれてたってことですか。私が蒼真に接触したのも、社長の計画だった?」


「仕組まれてた、っていうと聞こえが悪いけど……まあ、そうだね」


美咲が悪びれずに言った。


「でも、こはくの判断は信用してるよ。曲がダメだったら、こはくは絶対に認めないでしょ? だから、こはくが『いい曲』って言ったなら、本当にいい曲なんだと思う」


「……」


こはくは複雑な表情を浮かべた。


「それに——」


美咲が続けた。


「千夏から聞いてるんだけど、蒼真くん、ずっと悩んでるらしいよ。『二世』として」


こはくの肩が、ピクリと動いた。


「親が有名人だと、何をやっても『親の七光り』と言われる。自分の実力で評価されない。成功しても『親のおかげ』、失敗したら『親に才能があっても子供には遺伝しなかった』。どっちに転んでも、自分自身として見てもらえない」


美咲がため息をついた。


「千夏も同じこと言ってた。『蒼真は、鷹取千紘の息子じゃなくて、鷹取蒼真として見てほしいんだと思う』って」


こはくは、しばらく黙っていた。


それから、小さく呟いた。


「……分かりませんよ、そんなの」


「嘘だね」


美咲が微笑んだ。


「こはくの目、さっきより少し優しくなってるよ」


「……うるさいですね」


こはくが顔を背けた。


美咲は笑った。


「まあ、いいよ。とりあえず、明日の打ち上げの結果を待とう。告白が成功しても失敗しても、鷹取蒼真くんは曲を作り続けるでしょうから」


「失恋したら、いい曲が生まれるかもしれませんしね」


こはくが皮肉っぽく言った。


「あはは、それはそれで楽しみだね」


美咲も皮肉っぽく返した。


「……ていうか、社長。千夏さんに『弟をいじめた』ってバレたら、私、殺されませんか?」


「大丈夫大丈夫。千夏には内緒にしとくから」


「本当ですか……?」


「たぶんね」


美咲がニヤリと笑った。


こはくは、嫌な予感しかしなかった。


◆◆◆


電話を切った後、蒼真は徐々に暗くなっていくスマホの画面を見つめていた。


それから、また首を垂れた。


夜の街を眺めながら、明日のことを考えていた。学園祭の打ち上げ。カラオケ。皆の前で、星宮に告白する。


このしょぼくれた男は、後に「非凡」と呼ばれる人生の中で、ずっとこういう奴だった。普段は干からびた胡瓜のようにしおれているが、一度何かをやると決めた時は、水に浸した西芹のように精神がみなぎる。


「俺、たまに発狂する人間なんだよな」


これは、後の鷹取蒼真の口癖になった。


運命は一つしかない。でも、人生には多くの選択肢がある。



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