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第12話 白夜

「ちょっとトイレ」俺は言った。


俺はトイレに向かって歩きながら、さっきの龍司の話を思い出していた。Kenがメジャーデビュー目前だということ、契約書に「品行方正」の条項があること、龍司が「泥を被った」ということ——そして「Kenが売れたら呼んでもらえるかもしれない、五分五分だけどな」という言葉。


ファミレスのトイレに入り、ドアを閉めて、俺は便座の蓋の上に座り込んだ。別に泣きたかったわけじゃない。ただ、一人になりたかった。龍司には「コネ」がある。俺にはない。白狐こはくからの作曲依頼——登録者十二万人のVTuber——あれを受けるべきなのか、断るべきなのか。受けたら、俺の曲が何万人もの前に晒される。「素人の曲」「才能ない」「こんなのより○○に頼め」——そういうコメントが溢れるかもしれない。親父のライブ映像についたコメントを思い出す。「もう引退しろ」「息子に才能は遺伝しなかったな」——あの言葉の羅列を、俺は中学の時に見てしまった。俺の曲も、ああやって叩かれるかもしれない。怖い。怖くて、返事ができなかった。情けない話だ。十六歳にもなって、ファミレスのトイレで一人で悩んでいる。龍司みたいに腹を括ることもできない。Kenみたいに夢に向かって突き進むこともできない。俺はただ、便座の蓋の上で膝を抱えて、天井を見上げていた。


その時、一足の白いスニーカーが、個室のドアの下の隙間から見えた。


俺はぎょっとして顔を上げた。見間違いかと思って、もう一度見下ろす。やっぱりスニーカーがある。白い、小さなスニーカー。明らかに女物だ。


俺は一瞬、状況が理解できなかった。なんで女がいる? ここは男子トイレだろ?


その時、ドアがノックされた。


「死んでる?」


低めの、落ち着いた女の声だった。


「——は?」


俺は思わず声を上げた。


「生きてた」


女は淡々と言った。そして、信じられない言葉が続いた。


「ここ、女子トイレなんだけど」


俺は凍りついた。


慌ててドアを開けると、目の前に女が立っていた。


白い短髪。肩にかからないくらいの、銀色がかった髪。切れ長の目。無表情。白いパーカーに、デニムのショートパンツ。耳たぶには小さなピアス——銀色の、雪の結晶を模したデザイン——が揺れている。


女は俺を見下ろしていた。正確には、俺より少し背が低いのだが、その視線はなぜか見下ろされているような感覚を与える。


「あ、いや、これは——」


「別にいいけど」


女は肩をすくめた。


「早く出てくれる? 私も使いたいんだけど」


◆◆◆


俺は耳まで真っ赤になりながら、席に戻った。


あの女——白い短髪の女——が、冷めた顔で俺の後ろからついてくる。俺は必死に前だけを見て歩いた。振り返る勇気がない。女子トイレに入っていた男。完全に変態だ。通報されてもおかしくない。


席に着くと、龍司と翔太が怪訝な顔で俺を見た。


「おせーよ、蒼真。何してたんだ?」


「いや、ちょっと——」


「あ、白夜!」


翔太が俺の後ろを見て、声を上げた。


「お前も来てたのか!」


俺は振り返った。あの白い短髪の女が、翔太に向かって軽く手を上げている。


「たまたま。一人でご飯食べてた」


「マジかよ、寂しいな。こっち来いよ、一緒に食おうぜ」


「……いいの?」


「当たり前だろ。ほら、蒼真、詰めろよ」


俺は慌てて席を詰めた。白夜——と呼ばれた女は、俺の隣に座った。


「紹介するわ」翔太が言った。「白夜、俺の高校の同級生。白夜、こっちは——」


「鷹取蒼真でしょ」


白夜が俺の言葉を遮った。


「知ってる。翔太からよく聞いてる」


「あ、ああ……」


「ギターやってて、配信もやってて、視聴者は十四人」


「最後の情報いらなくない?」


「事実でしょ」


白夜は素っ気なく言って、メニューを手に取った。


龍司が俺の方を見て、小声で囁いた。


「誰だ、あの女」


「翔太の友達らしい」


「可愛いじゃん」


「……そうか?」


俺はちらりと白夜を見た。白夜はメニューを眺めている。その横顔は、確かに整っている。でも、表情が乏しい。何を考えているのか、全く読み取れない。


俺はこういう女に会ったのは初めてだった。姉ちゃんみたいに感情を全部顔に出すタイプでもないし、学校のクラスメイトみたいに愛想笑いを振りまくタイプでもない。白夜は完全に他人の目を気にしていない。まるで、この場に自分しかいないかのように振る舞っている。


その態度が、なぜか龍司にまで圧を与えているようだった。龍司は普段、誰に対しても堂々としているのに、今は少し居心地悪そうにしている。


白夜はウェイターを呼んで、ナポリタンを注文した。そして、俺の皿を見た。


俺の前には、まだ手をつけていないチキンステーキがある。さっきの悩み事のせいで、食欲が完全に失せていた。


「それ、食べないの?」


白夜が聞いた。


「あ、いや——」


「食べないなら、もらっていい?」


「え?」


「お腹空いてるから」


俺は言葉を失った。初対面の女に、自分の皿の料理を「もらっていい?」と聞かれるのは初めてだ。


「白夜、ちょっとは遠慮しろよ」


翔太が苦笑した。


「だって、食べないんでしょ」


白夜は俺を見た。猫のような目が、真っ直ぐに俺を捉える。


「見れば分かるよ。ずっと上の空だし、料理にも手をつけてない。きっとトイレでも何か考え込んでたんでしょ。だから男女の表示も見えなかった」


俺の心臓がドキリとした。白夜は、俺が女子トイレに入った件を皆の前でバラすつもりなのか?


「——まあ、別にいいけど」


白夜はあっさりと話題を変えた。


「で、もらっていい?」


俺はほっとしながら頷いた。白夜は俺の皿を自分の方に引き寄せて、フォークとナイフを手に取った。


「白夜、お前マジで遠慮ないな」


翔太が呆れた顔をした。


「だって、彼、食べないんだもん」


白夜はチキンを切りながら言った。


「それに、悩んでる時は食欲なくなるよね。分かる分かる」


「何が分かるんだよ」


俺は思わず言い返した。


「別に悩んでなんか——」


「嘘」


白夜が俺を見た。


「トイレに十五分もいて、『悩んでない』はないでしょ。しかも、女子トイレに入るくらい上の空だったんだから」


「——っ」


俺は言葉に詰まった。


龍司と翔太が、同時に俺を見た。


「え、蒼真、お前女子トイレに入ったの?」


「いや、それは——」


「間違えて入ってた」


白夜があっさりと暴露した。


「私がトイレ行ったら、個室から男の足が見えたの。びっくりした」


翔太が吹き出した。龍司も肩を震わせている。


「お前、マジかよ……」


「違う、考え事してて、表示見てなかっただけで——」


「言い訳すんなって」


龍司が笑いながら俺の肩を叩いた。


「で、何悩んでたんだよ? 女のことか?」


「違えよ」


「じゃあ何だよ」


俺は黙った。白狐こはくからの依頼のことは、まだ誰にも言っていない。言う気もない。


「彼女のことでしょ」


白夜がチキンを食べながら言った。


テーブルが一瞬、静まり返った。


俺は白夜を凝視した。龍司と翔太も、耳をそばだてている。


「——は?」


「冗談」


白夜はフォークを置いて、小さく笑った。


「初対面の人のこと、そんなに分かるわけないでしょ」


俺はほっとしたような、腹が立つような、複雑な気持ちになった。こいつ、完全に俺をからかっている。


「白夜、お前さ——」


「ねえ」


白夜が俺の言葉を遮った。


「『夜明けのカラス』って曲、あなたが作ったの?」


俺の心臓が止まりそうになった。


「——は?」


「昨日の配信で歌ってたでしょ。サビの転調、あれどうやったの? 普通にコード進行追ったら、絶対あんな風にならないんだけど」


その言葉を、俺は昨日の夜に聞いた。


Discordの画面で。白狐こはくからのDMで。一字一句、同じ言葉を。


俺は白夜を凝視した。白い短髪。銀色がかった髪。猫のような目。


——白狐こはくのアバター。白い狐の耳。銀色の髪。


まさか。


まさか、こいつが——


「蒼真の曲、お前も聴いたのか?」


翔太が驚いた顔をした。


「うん。昨日、たまたま見つけて」


「へー、奇遇だな。俺も昨日、蒼真の配信見てたんだよ」


「そうなんだ」


白夜は興味なさそうに言って、チキンの最後の一切れを口に運んだ。


俺は白夜を見つめ続けていた。白夜は俺の視線に気づいているはずだが、完全に無視している。まるで、俺のことなど眼中にないかのように。


でも——さっきの質問は、明らかに俺を試していた。


「転調のこと、どうやったのか」——白狐こはくと同じ質問。偶然にしては、出来すぎている。


「答えないの?」


白夜が俺を見た。


「あ、いや——理論とかよく分からないんだよね。感覚で作ってるから」


「ふーん」


白夜は興味なさそうに言った。


「まあ、いいけど」


それだけ言って、白夜はナポリタンが運ばれてくるのを待ち始めた。


俺は心の中で、必死に情報を整理していた。


白夜。白い短髪。音楽に詳しい。昨日の夜に俺の配信を見た。転調のことを聞いてきた。


——白狐こはく。白い狐のアバター。銀色の髪。俺に作曲を依頼してきた。昨日の夜にDMを送ってきた。


同一人物なのか?


それとも、ただの偶然なのか?


確かめたい。でも、確かめる方法がない。「お前、白狐こはくだろ」なんて聞けるわけがない。もし違っていたら、完全に頭のおかしい奴だと思われる。


「ねえ」


白夜が言った。


「何だよ」


「さっきから、ずっと私のこと見てるけど」


「見てねえよ」


「嘘。ずっと見てる」


白夜の唇が、かすかに動いた。笑っている——ように見えた。


「私のこと、好きになった?」


龍司と翔太が、同時に俺を見た。


「——は? 違えよ!」


「冗談」


白夜はまた、あの小さな笑みを浮かべた。


「初対面の人のこと、そんなに好きになるわけないでしょ」


俺は顔が熱くなるのを感じた。こいつ、完全に俺で遊んでいる。


「白夜、お前さ——」


「あ、ナポリタン来た」


白夜は俺の言葉を遮って、ウェイターからナポリタンを受け取った。


そして、何事もなかったように食べ始めた。


俺は拳を握りしめた。こいつ、絶対にわざとやってる。俺が困るのを見て、楽しんでいる。


——絶対に、白狐こはくだ。


根拠はない。証拠もない。でも、直感がそう告げている。


そして、もう一つ確信していることがある。


白夜は、俺のことを知っている。俺が「SkyPhoenix」だと知っている。知っていて、わざと何も言わない。俺がどう反応するか、じっと観察している。


くそ、腹が立つ。


でも——認めたくないが、少しだけワクワクしている自分がいる。


◆◆◆


食事が終わり、俺たちは店を出た。


白夜はスマホを取り出して、画面を確認した。


「私、そろそろ行くね」


「え、もう?」


翔太が残念そうな声を出した。


「用事あるから」


白夜はバッグを肩にかけた。そして、俺の方を見た。


「鷹取くん」


「何だよ」


「さっきの質問、まだちゃんと答えてもらってないんだけど」


「質問?」


「『夜明けのカラス』の転調。どうやったのか」


俺は言葉に詰まった。


白夜は小さく笑った。


「まあ、いいけど。また今度ね」


それだけ言って、白夜は背を向けた。


数歩歩いて、また振り返った。


「あ、そうだ」


「何だよ」


「女子トイレの件、誰にも言わないから安心して」


「——っ!」


「冗談。もう言っちゃったね」


白夜は小さく舌を出して、今度こそ背を向けた。


白いパーカーの背中が、夕陽に染まっていく。


俺はその後ろ姿を見つめながら、心の中で呟いた。


——絶対に、白狐こはくだ。


そして、俺は決めた。


今夜、白狐こはくの配信を見る。声を聞けば、分かる。同一人物かどうか。


◆◆◆


白夜を見送った後、龍司が腕を組んで言った。


「なあ、翔太。あの女、何者だ?」


「白夜? 俺の高校の同級生だって言っただろ」


「それは分かってる。でも、何か——普通じゃねえ感じがするんだよな」


「ああ、分かる」


翔太が頷いた。


「白夜、学校でも有名なんだよ。成績は学年トップなのに、友達がほとんどいない。いつも一人で音楽聴いてる。何考えてるか分からないって、皆言ってる」


「だろうな」


龍司が俺を見た。


「で、蒼真。お前、あいつのこと気に入ったのか?」


「は? 何でそうなるんだよ」


「だって、ずっと見てただろ。白夜も言ってたじゃん」


「見てねえよ」


「嘘つけ」


龍司がニヤニヤした。


「まあ、可愛いもんな。俺も分かるぜ」


「だから違うって——」


「照れんなよ」


翔太も笑っている。


俺は何も言えなかった。


白夜のことが気になっているのは事実だ。でも、それは恋愛感情じゃない。俺はただ、確かめたいだけだ。


あいつが、白狐こはくなのかどうか。


俺に作曲を依頼してきた、あのVTuberなのかどうか。


「蒼真」


翔太が言った。


「白夜の連絡先、教えてやろうか?」


「いや、いい」


俺は首を振った。


「……そうか?」


「ああ」


連絡先なんか、いらない。


俺には、もっと確実な確認方法がある。


今夜——白狐こはくの配信を見ればいい。


声を聞けば、分かる。


同一人物なら、あの声が聞こえるはずだ。少しハスキーで、でも芯が通っていて——さっき白夜が喋っていた声と、同じ声が。


俺は空を見上げた。夕陽が沈みかけている。


今夜——全てが分かる。


そんな予感がした。

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