第10話:コートの上で
翌日、土曜日の午前十時。
渋谷に向かう電車の中で、龍司からLINEが来た。
『スタジオ、午後に変更。午前中暇ならバスケしない? KENたちも来るって』
KENといえば、今日一緒にバスケをする新人ラッパーだ。先月リリースしたデビューシングルが渋谷や新宿のクラブDJの間で少しずつ話題になっていて、有名なDJが何人かプレイリストに入れてくれたらしい。龍司によると、ファーストEPのリリースも近いとか。
俺はKENの曲を聴いたことがない。先月一度だけ顔を合わせたことがあるが、それっきりだ。でも、龍司がKENと「つるむ」ことに関しては特に反対していなかった。最近のラッパーは半グレとの繋がりが噂される奴も多いが、本物の反社と付き合うよりはマシだろう。
◆◆◆
龍司と知り合ったのは、中学二年の時だった。
あの頃の俺は——今思えば、典型的な「不良少年」だった。
髪を金色に染めて、制服を着崩して、夜な夜な渋谷をうろついていた。先生に反抗し、親父の名前を出されるたびにキレて、何度も職員室に呼び出された。
「鷹取千紘の息子なのに、なんでこんな風に育ったんだ」
担任がそう言った時、俺は机を蹴って教室を出た。
親父の名前なんて、クソくらえだ。
俺は俺だ。誰かの息子じゃない。
当時の俺には、明確な目標があった。
——渋谷エリアの「てっぺん」を取る。
今思えば馬鹿みたいな話だが、当時は本気だった。隣町の不良グループと抗争したり、先輩たちに喧嘩を売ったり。毎日がバトルだった。何のために戦っているのか、自分でも分からなかった。ただ、「鷹取千紘の息子」以外の何者かになりたかった。
龍司と出会ったのは、そんな時期だった。
龍司は世田谷エリアの「頭」だった。噂では、中学二年で世田谷全域を制覇したらしい。俺たちが初めて会ったのは、代々木公園での「抗争」——のはずだった。
五対五。渋谷vs世田谷。
俺たちは睨み合い、今にも殴り合いが始まろうとしていた。
その時——
龍司のポケットから、スマホの着信音が鳴った。
ONE OK ROCKの「完全感覚Dreamer」だった。
「……お前、ワンオク聴くの?」
俺は思わず聞いていた。
龍司が目を瞬いた。
「お前も?」
「Takaの声、マジでやばいよな。あのハイトーン、どうやって出してんだ」
「分かる。ライブ映像見たけど、CDと全然変わんねえの。バケモンだわ」
気がついたら、喧嘩のことなんて忘れて音楽の話をしていた。
その日、俺たちは殴り合う代わりに、近くのファミレスで三時間も語り合った。音楽の話。バンドの話。好きなアーティストの話。
「お前、ギター弾けるんだろ? 俺、ドラムやってんだけど——バンド組まね?」
それが、龍司との始まりだった。
◆◆◆
『そういえば、お前最近配信やってるんだって? KENが言ってた』
電車の中で、龍司からまたメッセージが来た。
『まあ、たまにな』
『今度聴くわ』
「今度」——龍司はいつもそう言う。中学からの付き合いだが、こいつが俺の曲を真剣に聴いたことは一度もない。別に怒っているわけじゃない。龍司は音楽を「演る」のは好きだが、「聴く」ことにはあまり興味がないタイプだ。ドラムを叩くのは上手いが、好きなアーティストを聞かれると「ワンオクとか?」と適当に答える。そういう奴だ。
まあ、俺も龍司のドラムソロを真剣に聴いたことなんてないし、お互い様か。
電車が代々木駅に到着した。
◆◆◆
代々木公園の屋外バスケットコートに着くと、もう五人が揃っていた。
龍司——佐藤龍司。俺の中学からの友人で、バンドではドラムを担当している。元「世田谷の頭」。今は普通の高校生……に見えるが、中身は相変わらずだ。今日も赤いジョーダンを履いて、やる気満々という感じだった。
その隣にいるのが翔太。俺たちのバンドのベース担当。金髪にピアス三つ、見た目はチャラいが中身は意外と真面目だ。
そして——KENたち三人組。
KEN——本名は山田健太。新人ラッパー。龍司と同い年で、俺より背が少し低く、かなり細身。顔立ちは整っている方で、ドレッドヘアを後ろで束ねている。ワイヤレスイヤホンを耳に突っ込んだまま、片手でボールをついてリズムを取っていた。
その横に立っているのがJIN。二十五、六歳くらいで、KENの曲のビートメイカーらしい。痩せ型で、黒縁眼鏡をかけている。
そしてTAKU。三十過ぎに見える。レーベルの人間か、マネージャーか——とにかく、そういう立場の男だ。腕を組んで、コート脇のベンチに座っていた。
龍司が真っ先に走り寄った。
「よう! KEN!」
「おう、龍司!」
KENがイヤホンを外し、笑顔で迎えた。
二人が複雑なハンドシェイクを始める。拳を合わせて、手のひらを滑らせて、指を絡めて、最後にパチンと弾く。ヒップホップの連中がよくやるやつだ。龍司はああいうのを覚えるのが妙に上手い。
次は翔太。同じように複雑なハンドシェイクをこなした。こいつも器用だ。
そして俺の番。
最初の拳合わせはうまくいった。次に上下で合わせようとしたところで——俺が順番を間違えた。
KENの拳が上から。俺の拳も上から。
かち合わない。
もう一回。今度は俺が下から。KENも下から。
また空振り。
俺は諦めて拳を引っ込め、気まずい笑みを浮かべた。
KENが吹き出した。「ま、気にすんなって」
肩をポンと叩かれた。いい奴だ、たぶん。
「紹介するわ」
KENが振り返り、残りの二人を呼んだ。
「JIN。俺の曲のビートメイカー」
「よろしく」
JINは軽く手を挙げた。
「お前があの……」
龍司がJINを見て、片手をマイクを握るように口元に当てた。
「ドゥンドゥン、タッタッ、ブーンブーン……」
意味不明なビートボックスの真似。たぶんヒューマンビートボックスを再現しようとしているのだろうが、全く似ていない。というか、ビートメイカーはビートボックスをする人じゃないのだが……。
「まあ……違うけど……」
JINが苦笑いしながら、自分でもやってみせた。
口だけでドラムパターンを刻む。バスドラム、スネア、ハイハット——意外と上手い。目を閉じたら、本当にリズムマシンが鳴っているのかと思うほどだ。
龍司が親指を立てた。「すげえ!」
「いや、俺ビートボクサーじゃないから……」
JINがツッコんだが、龍司は聞いていなかった。
年上の方——TAKUは、愛想がなかった。
「TAKU。よろしく」
それだけ言って、俺たち三人と順番に拳を合わせた。
◆◆◆
六人が揃った。
KENがイヤホンとパーカーをTAKUに預け、他の連中も荷物をベンチに置いた。
三対三のハーフコート。
KENの細い体で、龍司や翔太みたいな元運動部のゴツい奴らと対面するのは無理がある。俺にも分かっていた——龍司が俺を誘った理由を。だから、自然とKENのマークについた。
正直に言うと、この場にいる六人のうち、本気でバスケをしに来たのはKENだけだ。残りの五人は——まあ、付き合い。付き合いである以上、相手を楽しませるのが暗黙のルールだ。
だから皆、KENがボールを持つと散開して、俺との一対一にさせる。
クロスオーバー。ビハインドバック。ヘジテーション。フロントチェンジ。
KENは明らかにしっかりした基礎を持っていた。ハンドリングは滑らかで、切り返しも速い。ターンの瞬間の重心移動が上手くて、フェイクに何度も引っかかった。前に一度対戦した時は完全にボコボコにされたが、今日は——多少マシになっている。と思いたい。
時間が過ぎていく。
ボールの弾む音と、叫び声と、笑い声がコートに響く。
俺は何度もKENに抜かれ、背中を見せられ、砂埃を食った。この体は意外と頑丈で、体力的には問題ない。ただ、心が——少し折れそうになる。
「体育の成績、もう少しなんとかなったのかな……」
ぼんやりそんなことを考えた瞬間——フェイクを食らって、尻餅をついた。
振り返ると、KENは既にレイアップを決めていた。着地してから、マイケル・ジョーダンの真似をして舌を出している。
「タイム! ちょっと休憩!」
声を上げたのは、翔太とマッチアップしていたTAKUだった。翔太は見た目に反してフィジカルが強く、インサイドでゴリゴリ押し合っているうちにTAKUの体力が先に尽きたらしい。
「えー、もう? まだウォームアップ終わったとこなのに」
KENがボールを抱えて不満そうに言った。こいつは本当にバスケが好きらしい。
「無理、無理」
TAKUが両手を上げてコートから退いた。
翔太の対面だったJINは、まだ平気な顔をしている。
その時——
「俺ら、入っていい?」
隣のコートで待っていた三人組が声をかけてきた。大学生くらいだろうか。背が高くて、体格もいい。
「いいよ」
KENが即答した。
龍司が俺に目配せをする。
「じゃ、俺ら抜けるわ」
俺は龍司とTAKUと一緒にコートを出て、KENとJINと翔太がそのまま三人組と対戦するのを見守ることにした。
◆◆◆
ベンチに座って十分くらい経った頃——コートの中で騒ぎが起きた。
KENが連続でスティールを決められて、焦って取り返しに行った時だった。相手のリバウンドに飛び込んだKENの顔面に、相手の肘がぶつかった。故意か偶然か、遠目には分からない。
KENがコートに倒れた。
「っ——!」
すぐに起き上がり、相手を睨んだ。
「今の、わざとだろ」
「は? 何言ってんの。被害妄想じゃね?」
坊主頭の男が薄ら笑いを浮かべた。
KENが相手を押した。
相手が押し返した。
「負けそうになったら暴力かよ。ダッセえな」
「てめえ——!」
あっという間に六人が密集し、怒鳴り合いが始まった。JINと翔太も駆け寄って、KENの前に立つ。TAKUも腰を上げて、コートに向かった。
俺も立ち上がろうとした——その時。
隣にいたはずの龍司が、既にコートの中央に立っていた。
いつの間に移動したんだ?
龍司がKENの前に立ちはだかり、坊主頭たちと向き合った。
「おい」
静かな声だった。
いつもの軽いノリは、どこにもない。
「——どこまでやりたい?」
龍司がゆっくりとTシャツの裾をたくし上げた。
俺は息を呑んだ。
龍司の左脇腹から腰にかけて——黒い龍の刺青が、くっきりと刻まれていた。
鱗の一枚一枚まで精緻に彫り込まれた、本物の和彫り。
素人が遊びで入れるタトゥーじゃない。
あれは——本職の彫師が入れた、ガチのやつだ。
坊主頭の顔から、血の気が引いた。




