第9話:見透かされた夜
鷹取蒼真が星宮雫に惹かれたのは、彼女が「完璧」だったからではない。
むしろ——
彼女の、もう一つの顔を知ったからだ。
◆◆◆
鷹取蒼真が星宮雫のベースソロを初めて聴いたのは、去年の一月、高校一年の冬だった。
蒼真は小さい頃、姉の千夏に連れられて父親のライブを見たことがある。父・鷹取千紘は伝説のロックボーカリストで、ステージ上で何万人もの観客を熱狂させる男だった。ライブが終わった後千夏が蒼真に「どうだった?」と聞いてきたので蒼真は「すごかった」と答えたが、実は何がすごいのかよく分からなかった。
中学に入ってから、蒼真は父親の影から逃げたいと思うようになった。
「鷹取千紘の息子」という肩書きは、重荷だった。
高校に入ってから蒼真は姉の千夏が持っていたDVDで映画『セッション』を見て衝撃を受けた。主人公は才能があったわけじゃなく、ただ全てを捨てて狂ったように練習しただけで、血が出ても手が動かなくなっても周りから馬鹿だと言われてもただドラムを叩き続けて、最後に完璧な演奏を成し遂げた。
蒼真は思った。
才能なんて関係ないんだと。
ただ全てを捨てて、音楽だけのために生きればいいんだと。
でも蒼真は十六歳になるまで何も捨てられなかった。学校も辞められないし父親の名前も捨てられないし普通の高校生活も諦められず、『セッション』の主人公のように全てを犠牲にする勇気がなかった。ギターは毎日練習しているが血が出るまで弾いたことはないし、友達や家族を捨てる覚悟もなかった。
蒼真は自分が中途半端な人間だと分かっていた。
将来はきっと、有名じゃない音楽大学に入って、卒業したら音楽教室の先生になる。
そんな中途半端な人生が待っているんだろうと思っていた。
◆◆◆
それは、去年の冬——高校一年の十二月だった。
蒼真が初めてLivehouse「CRESCENT」を訪れた時、まさか星宮雫がいるとは思わなかった。
渋谷の路地裏、看板もない地下への階段。
重い鉄のドアを開けると——奥から一人の人影が現れた。
黒いタートルネックのセーターに、ジーンズ。
長い黒髪をポニーテールにまとめて、黒縁眼鏡をかけている。
手には、ベースケースを持って。
「……鷹取くん?」
星宮雫だった。
学校で見る星宮とは——全く違う姿。
「なぜ、ここに?」
星宮が驚いたように、蒼真を見た。
「あ、あの……求人を……」
蒼真は言葉が出なかった。
星宮は少しの間、黙って蒼真を見つめていた。そして小さく笑った。その笑顔は学校では決して見せない柔らかい笑顔で、「ここ、うちの家族が経営してるの」と星宮がベースケースをカウンターに置きながら説明した。
「私、本当は——音楽の方が、文学より好きなの」
その目には——学校では決して見せない、情熱が宿っていた。
「でも、家の事情で、表立って音楽活動はできないから、こうやって——裏方として、音楽に関わってる」
蒼真はその瞬間、星宮と自分は同じなんだと思った。
何かを諦めて、何かを犠牲にして——でも、音楽だけは諦められない。
◆◆◆
それから一ヶ月後——
一月の終わり、金曜日の夜。
CRESCENTではインディーズバンド「Crimson Tide」のライブが予定されていた。
ベーシストが急に来られなくなって、星宮が代わりに入ることになった。
午後八時、客席は満席だった。
蒼真は音響ブースでミキサーの前に座っていて、手のひらが汗ばみ心臓が早鐘を打っていた。
照明が落ちた。
スポットライトがステージを照らして、演奏が始まった。
星宮は目を閉じて体を揺らしながらベースを弾いていて、その姿は学校で見る「高嶺の花」とは全く違い、汗が頬を伝って髪が乱れて、でもその表情は幸せそうだった。
蒼真は音響ブースで星宮を見ていて思った。
これが本気なんだと。
星宮は今、星宮家の令嬢でもなく、文芸部の部長でもなく——ただ音楽を愛する一人のベーシストになっている。
◆◆◆
セットの途中、MCの時間が来た。
「今日は特別に——雫ちゃんに、ソロをやってもらいます」
ボーカルがそう言った。
客席がざわついた。
ボーカルとギターとドラムがステージから退いて、残ったのは星宮雫ただ一人だった。照明が全て落ちて一つだけスポットライトが星宮を照らして、蒼真は音響ブースで呼吸を止めていた。
星宮がベースを構えた。
目を閉じた。
そして——弾き始めた。
最初の音が鳴った瞬間、蒼真は全てを理解した。星宮のベースは完璧じゃなかった、プロのベーシストと比べれば技術的にはまだまだで、でも星宮は全てを込めて弾いていて、星宮家の令嬢としての立場も学校での評判も全部捨ててただこの瞬間のためだけに弾いていた。
蒼真は音響ブースで立ち上がっていた。
いつの間にか椅子から立ち上がって、ガラス越しに星宮を見つめていた。
ミキサーのことも、客席のことも、全部忘れて——ただ星宮だけを見ていた。
星宮の指が弦の上を走って音が空間を満たして、その音は哀しくて力強くてまるで叫びのようで、蒼真は思った、自分は間違っていたんだと、『セッション』の主人公のように全てを捨てる必要はないんだと、ただ目の前の音楽に全てを込めればいいんだと。
父親の名前も、周りの期待も——
そんなものは関係ない。
ただ今この瞬間に、全力で音楽と向き合う。
それだけでいいんだと。
演奏が終わって客席から爆発的な拍手が沸き起こった時、星宮は涙を流していて、そして星宮が顔を上げた時蒼真の目と合い、星宮が小さく微笑んで口の動きで「ありがとう」と言っているのが分かった。
その瞬間——
鷹取蒼真は——
完全に、星宮雫に——
恋をした。
◆◆◆
ライブが終わった後、星宮が少し恥ずかしそうに聞いてきた。
「どうだった? 私の演奏」
「……すごかったです」
蒼真がようやく絞り出した言葉は、あまりにも陳腐だった。
でも、それしか言えなかった。
「鷹取くんが、見ててくれたから」
星宮が、小声で言った。
「音響ブースから、ずっと見ててくれてたでしょ? だから、安心できた」
「ありがとう、鷹取くん」
星宮が再び、蒼真を見た。
その目には、感謝と、そして少しだけ、何か別の感情が宿っていた。
「また、聴いてくれる?」
「はい」
蒼真は即答していた。
「何度でも」
星宮が、本当に嬉しそうに笑った。
◆◆◆
俺は自分の部屋に戻り、ノートパソコンを開いてLINEを立ち上げた。
星宮のアイコンを見つめる——本を抱えた白猫。グレーのまま、既読もつかない。俺は画面の右上の時計を見た。メッセージを送ってから十四時間。「週末、CRESCENTの手伝い来れる?」というたった一言を。
星宮は実際には猫を飼っていない。艶やかな黒髪を持つ彼女には、可愛いアイコンで気を引く必要なんてないはずだ。俺が初めて星宮を意識したのは去年の十二月、CRESCENTの地下で彼女がベースを構えた瞬間だった。黒いタートルネックにジーンズ、黒縁眼鏡、ポニーテールにまとめた髪——学校で見る「高嶺の花」とは別人のような姿。
学校で一番目立つ女子といえば、「学園のアイドル」白鳥美月だろう。美月はいつも眉の端から睫毛の先まで自信に満ち溢れていて、男子たちの視線を集めるのが当然だと思っている。でも、文芸部の連中は違った。あいつらは皆、星宮雫を見ていた。
入学式の日、星宮は廊下のベンチで太宰治の『人間失格』を読んでいた。午後の日差しが彼女の横顔を照らしていて、白いブラウスと黒髪のコントラストが——なんというか、透明に見えた。
「あの子が、俺たちのクラスの本命だな」
俺は何も考えずにそう言った。隣にいたのが美月だとも知らずに。
美月は十六年間、自分が一番だと信じて生きてきた女だ。入学初日に「文芸少女に負けた」なんて、許せるわけがない。俺の足を思いきり踏んづけて、ヒールの音を響かせながら去っていった。
あれから二年。俺と美月の冷戦は続いている。
◆◆◆
そんなことを思い出しながら、俺はLINEの画面を閉じた。
星宮からの返信はない。まあ、いい。明日は龍司たちとスタジオでセッションの約束がある。今夜は何も考えたくない。
Discordを開いてApex Legendsを立ち上げようとした瞬間、通知音が鳴った。
白い狐のアイコン。
**Shirofox_こはく**。
昨日の配信後にフレンド申請してきた奴だ。いつ承認したのか覚えていないが、俺は誰の申請も断らない。もともと申請してくる人間が少ないのだ。
『一戦どう? Apex』
こはく——正式名は「月燈籠」所属の「白狐こはく」。登録者十二万人の歌ってみた系VTuberで、白狐の姿をした癒し系ライバーだ。俺も何度か歌枠を聴いたことがある。透き通った声で、切ないバラードを歌うのが上手い。
ゲーム配信はほとんどやっていない。たまにAPEX配信をやっているのを見たことがあるが、だいたいブロンズ帯で「きゃー敵がいるー! 助けてー!」と騒いでいるだけだった。
まあ、歌勢だし。ゲームの腕は期待できないだろう。
俺のフレンドリストで本気で強いのは、子持ちのおっさん連中だけだ。深夜に子供を寝かしつけた後、黙々とランクを回している四十代のサラリーマンたち。あいつらは時間がない分、一戦一戦の集中力が異常に高い。
『いいよ』
俺は適当にマッチングを始めた。心ここにあらずで、だらだらと時間を潰すつもりだった。
◆◆◆
——甘かった。
降下してすぐ、俺がぼんやりしている隙に、先に拾おうとした武器を敵に奪われた。モザンビークしか持っていない状態で敵のレイスに追い詰められ、あっさりダウン。
大したことじゃない。初動の事故はよくある。
だが——こはくの動きは違った。
俺がダウンした瞬間、彼女のレイスが虚空に入り、敵の背後に回り込んでウィングマンで二人抜き。残った一人が逃げようとしたところをスライディングしながらヘッドショット。全て三秒以内の出来事だった。
俺は冷や汗をかいた。
あの精密なエイム、無駄のない動線、敵の行動を読み切った立ち回り——ダイヤ帯どころの話じゃない。プレデター級だ。
こはくは何も言わずに俺を蘇生し、淡々と物資を漁り始めた。
俺は姿勢を正して、マウスを握り直した。
◆◆◆
正式な激戦はそこから始まった。
部隊が減っていくにつれ、戦闘は激しさを増した。俺はパスファインダーでジップラインを繋ぎ、こはくのレイスが敵部隊に奇襲をかける。中盤に差し掛かる頃には、俺たちは八部隊を壊滅させていた。
ファイナルリング。
残り三部隊。
俺たちは高台を取っていた。こはくが敵の位置をピンで示し、俺がグレネードで炙り出す。連携は完璧だった——まるで何年も一緒にプレイしてきたかのように。
「最後の部隊、右から来る」
こはくのボイスチャット。落ち着いた、少し低めの声。配信で聞く「きゃーきゃー」とはしゃぐ甘い声とは全く違う。
俺は言われた通りに右を向いた。確かに敵のジブラルタルがドームを展開しながら突っ込んでくる。
俺は賭けに出た。
高台から飛び降り、敵の側面に回り込む。危険な動きだ。もし読まれていたら、先に俺がやられる。でも、成功すれば敵部隊を挟撃できる。
俺はスライディングしながらR-99を構えた。敵のジブラルタルがこちらに気づいて振り向く——
その瞬間。
後ろから別の敵のオクタンが飛んできた。
俺が気づいていなかった三人目。ジャンプパッドで高台を越え、俺の背後を取っていた。
「っ——」
振り返る時間はない。終わった、と思った瞬間——
こはくのレイスが虚空から現れ、オクタンの頭を撃ち抜いた。
『後ろ、見てなかったでしょ』
チャットにメッセージが浮かぶ。
『ミニマップちゃんと見て』
俺が呆然としている間に、こはくは残りの敵二人も片付けていた。
チャンピオン。
俺は椅子の背もたれに体を預け、天井を見上げた。
完全に見透かされていた。俺の動き、俺の判断、俺の視野の穴——全部。まるで、俺の頭の中を覗かれているみたいだった。
◆◆◆
俺はゲームを終了し、Discordに戻ってこはくにメッセージを送った。
『……完敗だ。というか、強すぎない? 配信だとブロンズでキャッキャしてたじゃん』
こはくはすぐに返信してきた。
『あれはファンサ用だから。 ガチる時は配信切るよ』
白狐のスタンプを残して、彼女はオフラインになった。
俺は人生で初めて、誰かに完全に見透かされた気分を味わっていた。まるで長い間離れていた親友が、突然戻ってきたような——俺のことを最初から知っていたかのような。
俺はしばらくぼんやりと画面を見つめてから、こはくのプロフィールを開いた。
ほとんど空白だった。
俺は自分の記憶を探ったが、こんなにゲームが上手い女なんて知らない。いや、男を含めても、野良でこんな化け物に出会ったことはない。
◆◆◆
その時、LINEの通知音が鳴った。
俺ははっとして画面を切り替えた。星宮のアイコンが——まだグレーだった。でも、メッセージが届いていた。彼女は一度オンラインになって、また消えたのだ。
『行く。日曜、十二時でいい?』
十四時間待って、返ってきたのはたったこれだけ。
でも——俺の沈んでいた気分は、一瞬で蒸発した。
ベッドに飛び込んで、口笛を吹きそうになった。こはくに見透かされたことなんて、もうどうでもよかった。
◆◆◆
その時、部屋のドアが開いた。
「蒼真ー、まだ起きてるー?」
姉ちゃんの間延びした声。薄いキャミソールに短パン姿で、片手にアイスを持っている。
「明日、龍司くんたちとスタジオでしょ? 何時に出るの?」
「十時くらい」
「ふーん。朝ごはん作ってあげよっか?」
「……姉ちゃんの料理は遠慮しとく」
「ひどくない!?」
姉ちゃんはぷくっと頬を膨らませてから、俺の顔をじっと見た。
「なんか、嬉しそうじゃん。星宮さんから連絡来た?」
「……別に」
「あー、その顔は来たな」
姉ちゃんはニヤニヤしながらアイスを舐めた。
「よかったね、蒼真。青春してるじゃん」
「うるさい。寝ろ」
「はいはい。おやすみー」
姉ちゃんは笑いながら部屋を出て行った。
俺は枕に顔を埋めて、目を閉じた。明日は龍司たちとセッション。新曲のアレンジを詰めなきゃいけない。でも今は——何も考えたくない。
星宮から返信が来た。
それだけで、今日はもう十分だった。




