序章:葬送のロック
雨が降っていた。十一月の冷たい雨が、東京の空を灰色に染めている。雨粒が無数の黒い傘を叩き、ぱらぱらと静かな音を立てていた。まるで誰かが泣いているような、そんな音だった。
東京・青山葬儀所。日本でも有数の格式を誇るこの場所に、今日は異様な数の人間が集まっていた。正門から続く弔問客の列は三百メートル先の交差点を越え、さらにその先まで伸びている。警察が交通整理に出動し、周辺の道路には通行規制がかかっていた。
テレビ局の中継車が七台。NHK、日本テレビ、TBS、フジテレビ——在京キー局がすべて揃い、さらにCNNやBBCといった海外メディアの姿もあった。報道陣は百人を超え、ひっきりなしにフラッシュを焚いている。上空ではヘリコプターが三機、爆音を響かせながら旋回していた。
なぜ、これほどの騒ぎになっているのか。答えは簡単だ。今日、日本のロック界の伝説が眠りにつく。
その名を——鷹取千紘という。
◆◆◆
俺——鷹取蒼真——は、まだ四歳だった。
親戚のおばさんに手を引かれて、葬儀場の一番前の席に座っている。周りの大人たちは、みんな黒い服を着ていた。黒いスーツ、黒いワンピース、黒いネクタイ。どこを見ても黒、黒、黒。葬儀場全体が、墨を流し込んだように染まっている。
空調が効いているはずなのに、空気が重く冷たかった。線香の匂いが鼻の奥をツンと刺し、時折すすり泣く声が聞こえてくる。俺は自分がなぜここにいるのか、よく分かっていなかった。
三日前、おばさんが俺を迎えに来た。
「蒼真くん、今日からおばさんの家に泊まろうね」
なんで、と聞いた。おばさんは困ったような顔をして、答えなかった。
その夜、テレビのニュースで俺は初めて知った。画面には母さんの写真が大きく映し出され、アナウンサーが淡々と読み上げていた。
『ロック界の歌姫・鷹取千紘さん、ツアーバス事故で死去。享年三十二歳——』
俺はその写真を見つめた。ステージで歌っている母さん。真っ赤なレザージャケットを着て、シルバーのマイクを握り、汗を飛ばしながら絶叫している。でも、俺は何も感じなかった。母さんが死んだ。その言葉の意味が、四歳の俺には理解できなかった。
◆◆◆
目の前には、花で埋め尽くされた祭壇があった。
白い菊、白い百合、白いカーネーション。何千という花が祭壇を覆い尽くし、その中央に母の遺影が飾られている。畳一枚分ほどの大きさに引き伸ばされた写真の中で、母さんは笑っていた。
ステージの上でマイクを握り、観客に向かって叫んでいる瞬間。汗で濡れた髪が額に張り付き、目は大きく見開かれ、口は限界まで開いている。美しいとか綺麗とか、そういう言葉では表現できない。凄まじい。全身全霊で命を燃やしている。そんな写真だった。
遺影の下には位牌と骨壺が置かれていた。あんなに大きな声で歌っていた母さんが、あんなにステージを駆け回っていた母さんが、あの小さな壺の中に収まってしまった。俺は骨壺を見つめながら、ぼんやりと考えていた。母さんは、どこに行ったんだろう。
◆◆◆
三日前の朝のことを、俺は鮮明に覚えている。
あの日、母さんはツアーに出発する日だった。早朝五時、まだ外が暗い時間に、母さんは俺の部屋に来た。
「蒼真、起きてる?」
母さんの声で目を覚ました。薄暗い部屋の中で、母さんの顔がぼんやりと見える。いつもと違う匂いがした。化粧品と香水と革の匂い。ライブの時の、母さんの匂いだ。
「母さん、どこか行くの?」
「うん。お仕事でね、ちょっと遠くまで」
母さんはベッドの横に座り、俺の頭を優しく撫でた。その手は温かくて、少しだけ震えていた。
「蒼真、母さんが帰ってきたら、一緒にピアノ弾こうね」
「うん」
「約束だよ」
母さんは俺の小指に、自分の小指を絡めた。指切りげんまん。俺たちの間で何度も繰り返してきた、小さな儀式だった。
「母さん、いつ帰ってくる?」
「一週間くらいかな。すぐだよ」
母さんは笑った。いつもの、太陽みたいな笑顔だった。
「じゃあね、蒼真。いい子にしてるんだよ」
「うん。母さんも気をつけてね」
「ありがとう」
母さんは俺の額にキスをして、部屋を出て行った。ドアが閉まる音。階段を降りる足音。玄関のドアが開く音。車のエンジンがかかる音。そして、遠ざかっていく音。俺はベッドの中で、その音を聞いていた。
それが、母さんの声を聞いた最後だった。
◆◆◆
事故は、その日の夜に起きた。
ツアーバスが高速道路のトンネル内で大型トラックと正面衝突した。運転手の居眠り運転が原因だった。バスに乗っていた十二人のうち、五人が即死。母さんは、その五人の中に含まれていた。
葬儀場の席に座りながら、俺はその話を何度も頭の中で繰り返していた。でも、どうしても実感が湧かなかった。だって、母さんは「一週間で帰る」と言っていた。「一緒にピアノを弾こう」と約束した。指切りげんまんまでしたのに。母さんが約束を破るはずがない。だから、きっと何かの間違いだ。母さんは、そのうち帰ってくる。俺はそう思っていた。
「蒼真くん、大丈夫?」
おばさんが心配そうに顔を覗き込んできた。
「うん」
俺は頷いた。大丈夫かどうかも、よく分からなかったけど。
◆◆◆
葬儀の開始時刻は、とっくに過ぎていた。
会場がざわつき始めている。喪主である父が来なければ、式は始められない。でも、父の姿はどこにもなかった。
「誠一郎さんは、まだなの?」
おばさんが隣の親戚とひそひそ話している。
「連絡つかないのよ。昨日から」
「まさか、来ないつもりじゃ……」
「喪主なのに……千紘さんの夫なのに……」
大人たちの声が、ざわざわと波紋のように広がっていく。報道陣もざわめき始めた。カメラが会場の入り口に向けられ、何かを待ち構えている。
俺は祭壇の母の遺影を見つめた。写真の中の母さんは、相変わらず笑っている。
——父さんは、どこにいるんだろう。
◆◆◆
その時だった。
ドォォォォォン!
葬儀所の正面扉が、蹴り開けられた。
轟音が会場に響き渡り、全員が振り返る。悲鳴を上げる人もいた。報道陣のカメラが一斉にフラッシュを焚き、シャッター音が機関銃のように鳴り響く。
逆光の中に、一人の男のシルエットが浮かび上がった。
俺は目を疑った。
その男は——黒い服を着ていなかった。
◆◆◆
真紅のレザージャケット。
それが最初に目に飛び込んできた。血のように鮮やかな赤。雨に濡れて、てらてらと光っている。肩には三列のシルバースタッズが打ち込まれ、葬儀場の照明を反射してギラギラと輝いていた。
背中には、銀糸で刺繍された巨大な不死鳥。翼を大きく広げ、今にも飛び立とうとしているかのようなデザインだ。炎の中から蘇る伝説の鳥——フェニックス。それは母さんのバンド「Crimson Phoenix」のシンボルであり、母さん自身のトレードマークでもあった。
ジャケットの下には、黒いVネックのTシャツ。首には太いシルバーチェーンが三連で垂れ下がり、中央のチェーンには炎を模したペンダントトップが揺れている。母さんとお揃いで作った、世界に二つしかないアクセサリーだ。
下半身は、膝が大きく破れたダメージジーンズ。太ももにはシルバーのウォレットチェーンがじゃらじゃらと垂れ、歩くたびに金属音を立てている。足元は使い込まれた黒のエンジニアブーツ。銀色のバックルが、じゃり、じゃりと床を踏みしめる音を響かせていた。
左耳にはシルバーのフープピアスが三連。右耳には十字架のスタッドピアスが二つ。普段は絶対につけない、母さんから贈られたピアスだ。
父——鷹取誠一郎——は、まるでロックスターのような姿で、葬儀所の入り口に立っていた。
◆◆◆
会場が凍りついた。
一瞬の静寂。そして、爆発するような怒号。
「なに考えてるの!?」
最初に叫んだのは、父の姉——俺の伯母だった。席から立ち上がり、父を指差している。
「誠一郎!ここは葬儀場よ!」
「ふざけないで!千紘さんが可哀想でしょう!」
「喪服も着ないで、何のつもり!?」
「恥を知りなさい!」
親戚たちが次々と立ち上がり、怒声を浴びせる。報道陣のカメラは狂ったようにフラッシュを焚き、会場は一気に騒然となった。
でも、父は動じなかった。
一歩、また一歩。エンジニアブーツの金具が、大理石の床に音を響かせる。じゃり、じゃり、じゃり。その足取りはゆっくりと、しかし確実に祭壇へと向かっていく。まるでステージに上がるロックスターのように、堂々と。
俺は父の姿に目を奪われていた。普段の父を知っている。仕事の時はいつもスーツを着て、髪をきっちり整えて、「業界の重鎮」らしい落ち着いた雰囲気を纏っている。そんな父が、今は全く別人のようだった。
父の手には、一本のマイクが握られていた。シルバーのスタッズが散りばめられた、あのマイク。母さんが十年間のキャリアでずっと使い続けてきた、伝説のマイクだ。
父は祭壇の前に立ち、母の遺影を見上げた。数秒の沈黙。怒号が続く中、父は微動だにしなかった。ただ、母の写真を見つめている。
やがて、会場のざわめきが少しずつ収まっていった。父の異様な雰囲気に、誰もが息を呑んでいた。
◆◆◆
「千紘」
父の声が、静かに響いた。マイクはまだオフのままだ。生の声が、会場に染み渡る。
「お前、俺に言ったよな」
父は、遺影の中の母に語りかけていた。
「『私が死んだら、葬式で泣くな。ロックを聴きながら、笑って送り出せ』って」
会場が静まり返った。さっきまで怒鳴っていた親戚たちも、報道陣も、誰もが父の言葉に耳を傾けている。
「お前はいつもそうだった。自分のことより、周りのことばかり考えて。『泣くな』だって?ふざけんなよ。お前がいなくなって、泣かない奴がいるか」
父の声が、微かに震えた。
「でも、俺は——」
父は、目を閉じた。深く息を吸い込む。
「——俺は今日、お前の言う通りにする」
父が右手を高く掲げた。
パチン。
指を鳴らす音が、会場に響いた。
◆◆◆
その瞬間、葬儀所の照明が落ちた。
悲鳴が上がる。真っ暗な会場に、外から差し込む雨の日の薄明かりだけが漂っている。
「停電!?」
「何が起きてるの!?」
「誠一郎、お前何をした!」
怒号と悲鳴が交錯する中——
バチィッ!
一条のスポットライトが、祭壇を照らした。
いつの間にか、祭壇の前にステージが組まれていた。黒いドラムセット。マーシャルのアンプが四台。キーボードスタンド。そしてマイクスタンドが一本、中央に立っている。葬儀場が一瞬にしてライブハウスに変わっていた。
「いつの間に……」
誰かが呻いた。
スポットライトの輪の中に、人影が現れた。
◆◆◆
中央に立つのは、銀髪を後ろで束ねた男。傷だらけのギブソン・レスポールを抱えている。黒い革のベストの下は裸で、鍛え上げられた上半身が露わになっていた。右腕には龍の刺青が肩から手首まで走り、左腕には「Crimson Phoenix」のロゴが彫られている。
**葛城竜二**(くずしろ りゅうじ)。日本最高峰のギタリストと呼ばれる男。母さんのバンドのリードギターにして、父の古くからの親友だ。
その右には、スキンヘッドの巨漢がドラムセットの前に座っていた。上半身はタンクトップ一枚で、両腕は刺青で埋め尽くされている。首には太いゴールドチェーンが何本も垂れ、耳には大きなダイヤのピアスが光っていた。
**剛田鉄也**(ごうだ てつや)。「ドラムの鬼神」と呼ばれた男。母さんのバンドでは創設メンバーの一人だ。
左には、長身痩躯の男がベースを構えていた。黒いロングコートに銀縁の眼鏡。知的な雰囲気と尖った雰囲気が同居している。細い指が、五弦ベースのネックを撫でていた。
**神楽坂蓮**(かぐらざか れん)。変態的なベースラインで知られる天才ベーシスト。母さんが「日本で一番クレイジーなベーシスト」と称した男だ。
そして後方には、長い黒髪を垂らした女性がキーボードの前に座っていた。黒いドレスに身を包み、真っ赤なルージュを引いた唇が妖艶に光っている。
**藤堂美夜子**(とうどう みやこ)。クラシック界から転身した異色のキーボーディスト。母さんとは音楽学校時代からの親友だった。
「Crimson Phoenix」——母さんが率いた伝説のロックバンドが、祭壇の前に揃っていた。
◆◆◆
「誠一郎」
葛城が低い声で言った。スポットライトを浴びて、銀髪が白く輝いている。
「準備はいいか」
父はゆっくりとステージに上がった。エンジニアブーツが、ステージの板を踏みしめる。マイクスタンドの前に立ち、母のマイクをセットする。そして振り返り、葛城と目を合わせた。
「ああ」
父は、口角を上げた。それは笑顔というより、覚悟を決めた戦士の表情だった。
「始めようか」
「待って!」
会場から声が上がった。父の姉だ。
「誠一郎、何をするつもり!? ここは葬儀場よ!千紘さんを冒涜するつもり!?」
父は振り返らなかった。ただ、マイクを握りしめて、前を向いている。
「皆さん」
父の声が、マイクを通して会場に響いた。低く、静かな声だ。
「今日は、葬儀じゃない」
会場がざわめく。
「これは——千紘のラストライブだ」
◆◆◆
ジャーーーーーン!
葛城のレスポールが、最初の一音を叩き出した。
その音が、俺の心臓を直撃した。体の芯が震える。空気が震える。床が振動する。
ドドドドドドドド!
剛田のドラムが爆発した。スネアとバスドラムが交互に炸裂し、会場全体を揺らす。天井から吊るされた照明器具がカタカタと音を立て、窓ガラスがビリビリと震えていた。
ズゥゥゥン、ズゥゥゥン。
神楽坂のベースが、地を這う重低音を響かせる。内臓を直接揺さぶるような、腹の底に響く音だ。
キーボードが高音のメロディーを奏で始める。藤堂の指が鍵盤の上を舞い、まるでクラシックのような美しいフレーズを紡ぎ出していた。でもそれは、すぐにロックの激しいリフへと変化していく。
葬儀所が、ライブハウスに変わった。
「誠一郎!」
葛城が叫ぶ。
「千紘に届けろ!」
父は頷いた。マイクを握りしめ、目を閉じ、深く息を吸い込む。
そして——
『誰にも奪えない』
父の声が、会場を切り裂いた。
『誰にも壊せない』
上手くはなかった。音程は不安定で、声量も足りない。プロの歌手には程遠い。母さんの歌声とは、比べ物にならない。
『この魂が燃え続ける限り』
でも——
『俺は——歌う!』
魂があった。
その声には、確かに魂が宿っていた。
◆◆◆
俺は全身に鳥肌が立つのを感じた。
四歳の俺には、音楽のことなんて何も分からない。上手いとか下手とか、そういう判断もできない。でも、何かが俺の胸を打っていた。熱い何かが、心臓の奥から湧き上がってくる。
『何度倒れても 何度傷ついても』
父の目から、涙が流れていた。でも、歌い続けている。声を振り絞り、拳を突き上げ、全身全霊で叫んでいる。
『立ち上がる度に 強くなれる』
赤いレザージャケットが、スポットライトを浴びて燃えるように輝いていた。肩のスタッズが光を反射し、背中の不死鳥がまるで本当に羽ばたいているかのようだ。
『これが俺の生き様——』
父が、拳を天に突き上げた。シルバーチェーンが激しく揺れる。汗が飛び散る。涙が頬を伝う。
『これが俺のRock!』
葛城のギターソロが炸裂した。指が弦の上を駆け巡り、人間業とは思えない速さでフレーズを紡ぎ出す。剛田のドラムがそれに呼応するように激しさを増し、神楽坂のベースが地響きのような低音を叩き出す。藤堂のキーボードが天を舞い、四人の音が一つの嵐となって会場を包み込んだ。
俺は息をするのも忘れていた。目の前で起きていることが、信じられなかった。
これが——これが、母さんの世界なのか。母さんが愛した、ロックの世界。
◆◆◆
曲がクライマックスに向かう。
父の声は、もう枯れかけていた。ガラガラの、掠れた声。それでも歌い続けている。
『砕けない——魂——!』
『Unbreakable Soul!』
最後の叫び。父は両腕を広げ、天を仰いだ。
ジャーーーーン……!
葛城がレスポールを天に掲げる。フィードバックの残響が、ゆっくりと消えていく。
静寂が訪れた。
父はマイクスタンドにしがみつくように立っていた。肩で荒く息をしている。汗と涙で顔がぐちゃぐちゃだ。赤いレザージャケットは汗で重く濡れ、髪は額に張り付いている。
父は顔を上げた。母の遺影を見つめた。
「千紘——」
掠れた声が、静寂の中に響いた。
「——愛してる」
その言葉が落ちた瞬間——
割れんばかりの拍手が、会場を包んだ。
◆◆◆
最初に立ち上がったのは、会場の後方にいた若い男だった。おそらく、母さんのファンだろう。彼は涙を流しながら、力の限り手を叩いていた。
それに続くように、一人、また一人と立ち上がっていく。
「千紘……!」
「千紘さーーーん!」
あちこちから、母の名前を呼ぶ声が上がる。泣きながら、笑いながら、拳を突き上げている。
さっきまで怒鳴っていた親戚たちも、呆然と立ち尽くしていた。伯母は、いつの間にか泣いていた。
「千紘さん……」
彼女は呟いた。
「そうよね……あなたは、こういう人だったわよね……」
会場全体が、拍手と歓声に包まれていた。黒い服を着た人々が、ロックに身を委ねている。泣いている人、笑っている人、叫んでいる人。みんなが母さんの名前を呼んでいた。
俺は、その光景を見つめていた。四歳の俺には、何が起きているのか、よく分からなかった。でも——
胸の奥が、熱かった。
目の奥が、熱かった。
気づいたら、俺の頬を涙が伝っていた。
生まれて初めて、母さんの死を実感した瞬間だった。
◆◆◆
葬儀が終わった後、会場には俺と父だけが残っていた。
報道陣は外に追い出され、親戚たちも帰っていった。参列者たちは、口々に「いい葬儀だった」「千紘らしかった」と言いながら去っていった。
外は、まだ雨が降っている。でも、さっきより少し弱まったような気がした。
父は祭壇の前に座り込んでいた。赤いレザージャケットは脱いで、隣に置いてある。汗で濡れた黒いTシャツが、背中に張り付いていた。
俺はおずおずと近づいた。父の背中は、小さく見えた。ステージの上であんなに大きく見えたのに。
「父さん」
俺が声をかけると、父はゆっくりと振り返った。目は真っ赤に腫れていた。涙と疲労で、顔がくしゃくしゃになっている。
「蒼真か」
父の声は、まだ掠れていた。
「来い」
父は俺を手招きした。俺は父の前に立った。父は俺の目線に合わせるように、しゃがみ込んだ。
「蒼真、お前に渡したいものがある」
父は首からシルバーチェーンを外した。三連のチェーンのうち、真ん中の一本。炎を模したペンダントトップが、かすかに揺れる。
「これは、母さんとお揃いで作ったものだ」
父はチェーンを俺の小さな手に載せた。銀の鎖が、ひんやりと冷たい。
「母さんのチェーンは、棺に入れた。だから父さんのを——お前に預ける」
チェーンは、四歳の俺の手には重すぎた。ずしりとした銀の重み。でも、どこか温かい。
「いつか、お前が自分の道を見つけた時」
父は、俺の目をまっすぐに見つめた。その目には、涙と、悲しみと、そして何か別の光が宿っていた。
「このチェーンを着けて、ステージに立て」
俺には、その言葉の意味が分からなかった。でも、父の目が真剣なことだけは分かった。だから俺は、小さく頷いた。
「うん」
父は、少し笑った。
「いい子だ」
◆◆◆
父は隣に置いてあった赤いレザージャケットを手に取った。
「このジャケットも、いつかお前に渡す」
父はジャケットを俺に見せた。背中の不死鳥が、薄暗い照明の中でぼんやりと光っている。
「これは、母さんと俺が、お前が生まれた時に作ったものだ」
「俺が……生まれた時?」
「ああ。母さんが言ったんだ。『この子が大きくなったら、一緒にステージに立ちたい』って。三人でお揃いのジャケットを着て、親子でロックをやるんだって」
父の声が、また震えた。
「母さんは——もういないけど」
父はジャケットを胸に抱いた。赤い革の、使い込まれた感触。母さんの匂いが、まだかすかに残っているような気がした。
「この約束は、俺が守る」
父は俺を見つめた。
「だからお前も、覚えておいてくれ」
「何を?」
「母さんのことを」
父は立ち上がり、祭壇の遺影を見上げた。
「母さんがどんな人だったか。どんな歌を歌っていたか。どれだけ多くの人に愛されていたか。それを——忘れるな」
俺は遺影を見上げた。写真の中の母さんは、相変わらず笑っている。
「うん」
俺は頷いた。
「忘れない」
◆◆◆
その夜、俺は夢を見た。
母さんが、ステージで歌っている夢。真っ赤なレザージャケットを着て、シルバーのマイクを握って、光の中で髪を振り乱し、全身全霊で歌っている。
『Unbreakable Soul!』
母さんが、俺に向かって手を伸ばした。
『蒼真、おいで』
俺も手を伸ばした。でも、届かなかった。光が眩しくて、母さんの姿がどんどん遠くなって——
目が覚めた時、枕が濡れていた。
手の中には、父からもらったシルバーチェーンが握られていた。俺はそれをぎゅっと握りしめた。冷たい銀の感触。でも、どこか温かい。
「母さん」
俺は呟いた。
「俺、忘れないから」
窓の外では、雨が止んでいた。雲の切れ間から、朝日が差し込んでいる。
四歳の冬。
それが、俺が母を失った日の記憶。
——そして、俺がロックに出会った日の記憶。
(序章・完)
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